懇願
「なるべく穏便に済ませたかったのですが、そうはいかないようですね。残念ですわ、サヤさん」
アメリアの纏う雰囲気が刺々しいものに変わる。微笑んだ表情に好意的な感情は一切ない。ポケットに手を入れたので警戒してベッドから飛び降りる。手に隠し持っていた魔法陣に魔力を流し攻撃準備をする。
「アメリアさん、速やかに外に出てください。セシルくんが悲しむことはしたくない、わかってください」
セシルの名前を出すとアメリアは一瞬目を伏せ、力なく呟く。伏せられた瞳は燻んだアメジストのように光っている。
「あの子の為にも私がやらなきゃいけないのよ。あの子には私だけだから」
アメリアが動いた。屈んだような姿勢で走り出す。魔法陣でも使う気か!炎檻の魔法陣を投げつけ起動させた。アメリアの周囲を余すことなく炎が檻となって拘束する。
アメリアは炎に囚われたものの隙間から腕を伸ばしナイフを突き出してきた。慌てて距離を取る。ナイフの刃は黒く、表面はデコボコとした凹凸がある。持ち手の柄と刃が一体になっている。火成岩の一種、黒曜石のナイフに違いない。
諦めない意思は尊敬するが、この場合は諦めて欲しかったな。ナイフを使っているところから見て魔法陣や魔法で攻撃する手段を持っていないようだ。この様子なら話を聞けるだろう。手も足も出ないアメリアに話しかける。
「アメリアさん、今から質問させていただきますね。誰から私の名前を聞きました?」
アメリアはナイフを持った腕を後ろに隠し、部屋の中を観察している。やはり何かを探しているようだ。
「ええ、ええ。サヤさん、貴方はとても優しい人ですわ。ですので私、貴方に手荒なことをしたくないのです」
ナイフを持って突撃は手荒なことに含まれていないようだ、異世界の新常識に驚きを禁じ得ない。
片手を頰に添え、眉を八の字に下げる。時間稼ぎか他に策があるのか、燻んだアメジストの瞳が不気味だ。
「サヤさん、青漆の本で見聞録というものを存じ上げませんか?私、それが必要なんです。それがないとセシルが助からないんです」
ああ、死霊術師から聞いたんだな。動き方や魔法を使わないところからそう判断する。死霊術師なら物理的な攻撃手段ではなく魔法での攻撃が得意なはずだ。アメリアの言動から恐らくセシルの治療を条件に本の奪取を要求されたのだろう。息子を想う母の気持ちを利用するとは卑劣極まりない。
アメリアの質問に沈黙で答える。そう、と寂しそうに呟いた。後ろに隠していた黒曜石のナイフを炎の檻に突き立てる。意味をなさない行動に眉をひそめた。自暴自棄にでもなったのか。
しばらくすると炎に突き刺さったナイフは黒い煙を吹き出し炎に絡みついた。煙に絡みつかれた炎の勢いが弱くなり、拘束が緩みつつある。妨害魔法陣か!
「《魔力よ、弾き出せ》!」
炎の檻ごとアメリアに向けて掌から衝撃波を打ち出す。正面から回避せずに食らったアメリアは机をなぎ倒しながら吹っ飛ぶ。吹っ飛ばされながらアメリアは隠し持っていたナイフをサヤに向かって投擲する。なんてやつだ、吹き飛ばされながらも攻撃してくるなんて!しゃがんで回避しつつ追加の魔法陣に魔力を操作する。
「なんだ、これ。魔力が操作できない?」
魔力の流れが操作できない。魔法陣に流すことが出来ない。立ち上がったアメリアに対して魔法を行使するが発動しない。体に違和感があるわけでも妨害魔法陣を刻まれた様子もない。床に落ちた黒曜石のナイフ、そのナイフから吹き出す煙。角度と反射で見えなかった魔法陣の存在に気づく。
「妨害魔法陣ではなく魔力撹乱の魔法陣か!」
魔法とは魔力を支払い、呪文や術式によって奇跡を引き起こすものだ。妨害魔法陣は引き起こされた奇跡を打ち消すことに特化した一方、魔力撹乱の魔法陣は魔法の行使そのものを封じるものだ。
既に煙は室内に充満し、渦を巻いている。密度がそこまで高くないので室内の様子を見るのに問題がない、という点だけが救いか。広域型の煙はアメリアも巻き込んでいることからアメリアも魔法が使えないだろう。一気に形勢が不利になった。なにがなんでも本を奪うつもりか。
「サヤさん、本を渡してください。私は貴方を殺したくはないんです。分かってください」
渡せるものなら渡したいわ、と反論しかけるのを飲み込む。サヤから離れない本。そのことを説明したとしても与太話と蹴られるか逆上して襲いかかってくるだけだろう。
掴みかかってきたアメリアの手を払う。不味いな、アメリアの方が背が高くリーチが長い。狭い室内では逃げ回るのにも限界がある。
「お願いサヤさん、セシルを助けるにはその本しかないの!」
懇願するアメリアの言葉を無視し服を掴む手を叩く。体をひねり、首元を掴んで投げ飛ばす。アメリアは碌に受け身も取れず戸棚に背中をぶつけた。アメリアの上にガラスや食品が降りかかる。頭を抑えうめき声を上げている。
これ以上の戦闘はこちらの体力が持たない。仕方ない、ここは逃げてカインと合流しよう。
アメリアが怯んだ隙に収納袋を掴み、部屋の外に通じる扉に駆け出す。扉のドアノブに手をかけた時、髪の毛を強く引っ張られた。くそ、まだ懲りないのか!首にアメリアの細い腕が絡みつき、上に締め上げられる。首が閉まり顔に血が集まる。
「あ、がっ……」
収納袋から手を離し、アメリアの腕を掴んで脱出を試みる。アメリアの脛を思いっきり蹴って怯んだ隙に拘束から逃れる。肘を鳩尾に突き入れ、顎を殴りあげた。魔法が使えないなんて、なんて不便なんだ!
側頭部から血を流し、口の端は切れている。服はガラス片によってズタズタになっている。これ程痛めつけているというのにアメリアは尚も掴みかかってくる。なんてしつこいんだこの女!母としての執着か!
「あの本はセシルを救うものじゃない、アンタ騙されてるんだ!目を覚ませアメリアさん!!」
アメリアは無言でこちらを睨む。説得は無駄なようだ。伸ばされた手を払い、何度か殴る。それでも怯まずついにアメリアに押し倒されてしまった。
「もう、殺すしかっ…ごめんなさい、ごめんなさい」
馬乗りになったアメリアが首に両手をかける。剥がそうともがくが不利な体勢から逆転できない。酸素を求めて口がパクパクと動く。アメリアの瞳から涙がぽたぽたと落ちる。泣くぐらいなら最初からやらないでくれ。セシルを人殺しの子にするのか!
「お願い、死んで。死んでください。お願いしますッ!!」
鼓膜に心臓があるのかと疑うほど圧迫された血液の音がうるさい。視界が赤黒く染まっていく。まずい、このままだと本当に殺される。
近くの床を弄る。なにか、なにかないか。カサリと何かが手に触れる。
魔法陣の紙、まだ魔力撹乱の効果時間中だから使えない!
更に手を伸ばす。コツリ、と何か硬いものが手に触れる。黒曜石のナイフだ。乱闘でここまで転がってきたのか。握ると凹凸が関節に当たって痛い。
アメリアの顔を見た。変わらず狂ったロボットのようにサヤの死を懇願している。紫色の瞳は濁り、歯を食いしばっている。
あの日見たセシルに微笑みかけるアメリアの面影はどこにもない。ごめん、アメリアさん。どうか私を恨んでくれ。
ナイフをアメリアの頚動脈に突き刺した。