アメリア
海風の薫る町、スオーン。その一角ではアメリアが息子のセシルを見送っていた。軽い抱擁と触れない接吻を交わす。セシルは杖をアメリアから受け取り、地面の上を滑らせる。
「それじゃあお散歩行ってくるね、お母さん」
「ええ、気をつけて行ってらっしゃい」
手を振って息子の背中を見送る。
一歩一歩遠ざかる度に嗚咽が食いしばった歯から漏れ出す。両手で口を押さえ、涙が溢れる目をきつく閉じた。だめだ、まだ泣くな。今泣けば戻ってくる。
転がるように扉を開けて家の中に入る。スカートに椅子が引っかかって転倒するのも構わず窓の前に設置された神像に跪く。
「ああ、神よ。なぜあの子なのですか。なぜあの子でなければならないのですか」
神への誹りを憚らず、しかし叫ぶことは彼女の理性が許さなかった。故に囁くような声ではあったが、その誹りを聞いたものは内容に恐怖しただろう。
「やっと授かった我が子から光を奪い、父を奪い、そしてその魂すら腕に抱くことを拒むのですか」
夫の私物を床にぶちまける。タグのついた女物の服や化粧品が散乱する。リングケースが転がり、中身が床を転がった。アメリアがセシルのために節約し、貯蓄したお金。その金で夫が買ったものだ。メッセージカードには『太陽の髪を持つ君へ』と書いてある。アメリアは黒髪をかきむしった。
「誰でも良いと言うのなら、私でもよかったでしょうに。夫でもよかったでしょうに……」
神像を掴む。振りかぶって地面に叩きつけた。神像は鈍い音を立てて地面を転がるだけだ。祈っても救われなかった。ただ一つの願いは神によって手折られた。
目を閉じて息子の顔を思い浮かべる。磯に包まれた息子は精霊の寵愛を受けてしまった。その魂は神の腕に抱かれることなく深い、昏い海底に沈むのだろう。なんて悍ましい未来なのか。
こんなことならいっそ、いっそ!
「ねえ、ボクと取引しない?」
背後から聞こえた声に振り向く。そこには子供が立っていた。全身を黒で統一したスーツを着用した姿は子供の外見とアンバランスであった。片手のステッキをトントンと床で叩く。
なんということ、神への誹りを見られてしまった!顔面が蒼白になる。宗教裁判にかけられたら生きていくとことすらままならない!
「あなたは一体?」
「ボクと取引をしよう、アメリア。ボクならセシルを助けられるよ?」
アメリアの問いかけを無視しスーツの子供は魅力的な提案をぶら下げる。セシルを助けられる?
「ボクを信じろとは言わないよ。ところでさ、口先だけの見栄をはる夫は君の最も大変な時にどこにいるんだい?」
アメリアは返答に詰まる。昨日の夜、漁船の仲間と飲みに行くと言ったきり朝日が昇っても帰ってこなかった。
「契約を交わしておきながら義務を放棄するとは如何ともしがたい男だね、君の夫は。まあ、そんなことはいい。それよりもアメリア、君なんだよ」
悪魔は嗤う。取引を持ちかけているように見せてすでに結果は分かりきっている。全て掌の上なのだ。ナイフを抜き、刃の部分を持つ。
「この町を見捨てて我が子を選ぶか、町を救って我が子を殺すか。君はどちらを選ぶ?」
アメリアの唇が震える。理性ではこの子供の姿をした悪魔の正体に勘づきつつあった。躊躇っていた手はナイフの柄を握る。
「君は英断を下した、アメリア。誰もが君を詰るだろうがこのボク、ミカゲだけでも君の考えを尊敬するよ。まず、必要なものを揃えるために協力して欲しいんだ」
ある本を手に入れないといけないんだが、邪魔なやつらがいる。盗めたら万々歳なんだけどそうはいかないんだ。だから君にはその始末を頼みたい。安心してくれ、そのナイフは特別なんだ。君にも扱えるように調整してあるんだ。
おお、オチが見える見える