セシルの瞳
スオーン町に到着して次の日。サヤは筋肉痛でのたうち回った。暫く動けていなかった数日間で筋肉がすっかり落ちていたので、ディーン村からスオーン町へのラッタットの騎乗によって全身筋トレに体が耐えられなかったのである。軋む体を動かして朝食を用意すれば、手に持った新聞から顔を上げたカインが呆れたようにこちらを見ている。うるせーこちとら昨日まで怪我人だったんだ。
「お前は本当に一体どんな生活を送ってきたんだ?」
「少なくとも暇だからと鍛錬するような生活ではないと推測していただきたい、ね」
座るのすら一苦労である。たしかに筋肉不足は痛感していたがここまでとは自分でも思わなかった。朝ご飯のパサポソパンを水で口に流し込んで伸びをする。関節が鳴る音に顔をしかめる。運動不足だと関節が鳴るという話は果たして本当なのか。
「運動した方がいいかなぁ」
ボソリと呟いたのが二時間前。
今だから言えることだが、人は自分の基準で物事を判断する。そう、だから自分ができることが必ずしも他人にも出来るとは思ってはいけないのだ。
晴天の下、目の前の男を睨む。足を肩幅に開き、手を胴の前で構えた姿に一切隙はない。
「どうした?掛かってこないならこちらから行くぞ」
教わった通りに一歩踏み出して拳を腹に叩き込まんと正拳突きの動作を行う。甘いと叫んだカインは最小限の体のひねりで回避し、間合いに入り込む。あっと思う時には勝敗は決しているのだ。シャツの首を掴まれ、体が持ち上がる。
組手は運動ではないしそもそも受け身を知らない私を投げ飛ばして楽しいか、カイン?
二回転する空を眺め、馬乗りになったカインを再度睨む。ぶつけた背中がすごく痛いです。いつか傷害罪で訴えてやるからな。
「最初に比べればかなりマシな動きになったな。昼食を食べたら再開するぞ」
肩で息をするサヤに対しカインは汗ひとつかいていない。全身打ち身でボロボロである。労っているのかラッタットがペロペロと皮膚を舐めてくる。決して汗から塩分を補給しようとしているわけではない、うちの子がそんなことするわけありません。
よろよろと立ち上がってカインの後についていく。歩く姿はもはや童謡のフランケンシュタインそのものである。ゾンビになったのは私だったか。
既に机の上に設置されていた食器にはスープが注がれており、湯気を立てている。いつの間に用意したのか。しかし、一人分しかない。
「あれカインお昼ご飯食べないの?」
「お前が走り込んでいる間に済ませた。見てなかったのか?」
人が走っている間に済ませたのか。まったくもって優雅なご身分である。絶対に許さない。
ふーん、と返答しスプーンですくったスープに口をつける。野菜を切って調味料を入れただけの質素な味付け。そういえばスコルピィのスープにはベーコンが入ってたな。あれはカウ肉のベーコンだったか聞いておけばよかった。
扉が叩かれ、カインが応対する。扉を開けたところには昨日見た女性、アメリアがいた。手には野菜を入れた籠を持っていれ、もう片方の手には男の子の手を握っている。伏せた目元にはどことなく艶があり、真顔でも微笑むわけでもないその顔には同性でも思わずどきりとするような表情を浮かべている。
「聖騎士様、言伝いただいていた野菜をお持ちしました」
頭を下げ、恭しくカインに籠を渡す。カインは中身を確かめると懐からまた皮の小袋をアメリアに渡した。
「わざわざすまないな。子供の調子はどうだ?」
サヤを取り残して世間話を始めたカイン。世間話出来たんだな、こいつ。
「お陰様でセシルは健康そのものです。神父様はいずれ良くなるだろうと。時が治癒してくださるのを待つばかりですわ」
話の渦中にいるセシルは呆けた表情でカインの顔を見ている。なにか、言葉には出来ない不思議な雰囲気を持っている少年だな。これがサヤのセシルに対する第一印象である。
世間話が進み、天気や周囲の村々のことに話題が移る。一人蚊帳の外にいるサヤは真一文字に口を結んでいた。決して自己紹介のタイミングを逃したわけではない。まあ、ここは私が出しゃばるより?大人しく食器でも洗いますかね。そう思ってその場を離れようと動いた時、セシルがこちらを見た。
サヤとセシルの視線が交差する。気まずさに耐えかね、思わず小さく手を振る。焦点の合わない瞳はサヤの顔を見つめている。ふっと視線を逸らし、アメリアの方を向いた。
「母さん、もしかしてもう一人他の人がいるの?」
セシルはアメリアの手をくい、と引っ張り話しかけた。
「えぇ、よく分かったわね。粗相のないようにしなさい。すみません、うちの子は」
「あ、いえいいんです。お構いなく」
大方の事情を察したサヤは頭を下げて謝るアメリアに耐えかねて謝罪を遮る。
「それよりもよく気づいたね。耳がいいのかな?」
セシルに視線を合わせるためにしゃがみ、話しかけてみる。焦点の合わないぼんやりとした瞳はゆらゆらとサヤの口に向けられている。目でなく音の発生源に意識を向けていることからやはり、盲目か弱視の類だろう。
「うん、お姉ちゃんが動いた時木が軋んだからそれで分かったよ」
目元が少し下がり、胸の前で手をもじもじと動かしている。多分、この動作は照れているのかな?
「すごいじゃないか。きっと将来は歌が上手くなるに違いない」
そういって褒めれば嬉しそうにへへ、と笑っていた。おっと母親とカインを除け者にしてしまったな、いやすまない。
「ではまた明日お持ちいたします」
「ああ。よろしく頼む」
アメリアに手を引かれ、セシルが歩き出す。二人を見送ることなく扉を閉め、カインがこちらに振り返った。腕を組み、目はつり上がっている。いやぁ、ご機嫌な表情ですね。お天気いいからかな?
「お前、自分が狙われている立場というのを忘れているな。今回は事前に伝えなかった俺が悪かったが、これからはなるべく他の人との接触は避けろ。最低限にしろ、用心するに越したことはない」
ドスの効いた声で威圧してきた。うーん、この態度は久しぶりだな。反論しようにもその通りだったので恭順の意を示す。
「分かった。これからは気をつける」
自分が思っていたより無愛想な声になってしまった。
カインが眉をあげ顔を傾けた。この仕草は言い負かせようという予備動作なのでそそくさとその場を離脱した。
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