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嘆願

 スコルは甲高いクライピオンの鳴き声で眼を覚ました。既に日は登りきっている。老体か習慣か、普段から日が昇るよりも前に朝食の準備をしていたスコルは日の高さに驚いた。


 顎髭を梳かしながら鏡を見る。

 目元の皺、豊かな顎髭、すっかり色の抜け落ちた頭髪。そして、先の長くない身体。

 どれもリタを失ってから得たものばかりだ。得たものに価値はなかったけれども。奪ったものは戻らないけれども。償うことは出来なくとも、向き合っていくしかない。きっと、リタならそういうだろう。

 使い込まれてガタガタと音がするクローゼットからいつものローブを取り出し、浴室の床に放り投げる。


 ローブに隠された胴体、鎖骨から下の胸から骨盤の位置。そこには空洞がある。本来あるはずの肌、臓器、骨は影もない。先に寿命を迎えた臓物の代わりに効率のいい代替品を、容易く折れる骨の代わりに折れにくい鉄棒を、すぐに破れる肌の代わりに予備が豊富な布を。魔法陣によって制御され、生身だった頃よりも生命の維持は順調だった。その様相は既に人に非ず。


 しかし、たった1つだけ欠点がある。

 医療に通じるスコルでさえ弄ることのできなかった領域。眼球、鼓膜、歯、舌根は置換済みだ。ただ1つ、脳だけは生身のまま。人を殺してもなお、恐れ慄いた。リタとの記憶、自意識、そして魂の崩壊を。


 自分が自分でなくなるということを。自我の喪失を恐れるとは実に人間らしい感情である。

 しかし、脳の限界もいよいよ近い。あまりにも長い生はスコルの精神を蝕んでいた。


 社会と隔絶されたこの塔でスコルはリタとの再会だけを夢見て生きてきた。たった一目だけでもいい、リタの顔を見て、リタのことを思い出しながら死にたい。


 寝巻きをバスケットに入れ、手早くシャワーを浴びる。

 バスタオルに手を伸ばさず、呪文を唱える。


「《生命の原始よ、新たなる地へ旅立て》」


 熱風がスコルの顎髭を揺らし、水滴が蒸発する。

 着古して表面がツルツルと照っているローブに腕を通し、紐を結ぶ。

 部屋の扉が控えめに叩かれる。


「あの、スコルピィさん…朝食、食べますか?」

「おお、すっかり忘れとったわ。直ぐに準備しよう」


 慌ててドアを開けるとベーコンの焼けた香りが鼻をくすぐる。

 なんとも気まずそうな顔のサヤが一歩退く。


「寝坊してすまんかったな、頂くとしようかの」


 いえ、と短く返答するサヤの視線はうろうろと彷徨っている。どう接すればいいのか分からない、といったところか。スコルは努めていつも通りにサヤに話しかける。

 謝ったところでどうにかなる問題ではない。サヤに無理やり協力させることもできるが、スコルはそれを選択しない。スコルにどう接するべきなのか、それはサヤが自分で答えを見つけなければいけないのだ。スコルにできることは教えることと待つことだけ。

 いつだってヒトは無力で弱い。弱いから、耐えるのだ。例えどんなに辛くても、悲しくても、恐ろしくても、一人ぼっちでも耐える。


 一番辛いのはサヤなのだ。

 覚悟もできず、先も見えず、誰を信じるべきかも分からない。自分が引き起こした事態から逃げ出さないように、戒めるように。スコルは唇を噛みしめるのだ。

 サヤの作った朝食、いや昼食ともいえる時間帯だったがとにかく皿の上の食事を平らげた。食器を下げようとするサヤを手で静止し、口を開く。


「サヤ、昨日の話の続きをしようか」


 サヤの顔に緊張が走る。紅茶のコップを持ち上げてその香りを楽しみつつ口を開く。


「死者蘇生、それはワシの悲願じゃ。しかし死者蘇生の研究を阻止せんとする輩がおる。聖教会の連中じゃ。」


 人の生死は神の意思に従って定まるものであり、人は死後その腕に抱かれると説く聖教会。もし死者蘇生が実現したのなら聖教会の教義は嘘偽りのものだと露見するだろう。


「聖教会の中でも武闘派の聖騎士はかなり粘着質で有名じゃ。過去に心肺蘇生を行った神母の親族2親等まで宗教裁判にかけ、処刑している」


 古ぼけた新聞を取り出し、机の上に広げた。

 見出しには『異端者の処刑執行』と書かれている。麻の袋を被った人間が絞首刑にかけられた挿絵も描かれている。その挿絵を見たサヤの目が見開かれる。


「こんなの、おかしいでしょ!時代錯誤にもほどがある……」


 やはり異なる世界で生きてきたサヤには理解できない情報だったのだろう。怒気を孕んだ声で挿絵を食い入るように見つめている。偽らざる善意の心が表情に鮮明に現れていた。


「ここはサヤの過ごした場所とは異なる世界じゃ。そこでの理屈は一切通じない。教義に基づいてこの国は動いておる。時代錯誤はオヌシの方じゃ、サヤ」


 サヤの言葉を切り捨てるスコル。サヤの考え方はこの世界で決して歓迎されるものではない。


「いずれにせよ、ワシがここに隠れているのもバレるじゃろう。そうなれば聖騎士に狙われることになる。じゃからの、協力してくれるのなら対価を払おう」


 初歩的なものしか教えていないとはいえサヤの成長速度には目を張るものがある。成長した暁には必ず死者蘇生を完成させてくれるはずだという確信がスコルにあった。最愛のリタに再び会う。そのためにはサヤの協力が必要不可欠なのだ。

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