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蒼い街角

作者: 山本壇
掲載日:2019/06/18

   1


 満開に咲き誇るソメイヨシノの並木道の中を広司と結衣は並んで歩いている。広司は結衣の弾むような笑顔に話しかけながら、その瞳の中に映る自分の顔を確かめるようにいつもより結衣との距離を縮めた。

 安藤結衣は白い花柄のワンピースに赤いコンバースのスニーカーを履き、斜め掛けの小さいショルダーバックを肩から掛けている。肩まである黒くて美しい髪はそのまま下ろしていて、両耳に着けた小さな星形のピアスが時おり顔を出すように黒髪の間から見えた。春風に吹かれて、踊るように舞う結衣の美しい黒髪が広司の鼻先を掠めると彼女特有のシャンプーの香りが鼻腔を刺激してなんともいえない満たされた気分になった。

隣を歩く岡田広司は下北沢のショップで先日に買った黒のパーカーに古着のリーバイスのジーパンと白色のアディダスのスニーカーを履き、黒のリュックサックを背負っているありふれた大学生の格好だった。だから遠目から見ると二人は恋人というよりもむしろ姉弟のように見えたかもしれない。

麗らかな午後の陽射しのせいか結衣の人形のように白い肌が透き通るようで、広司は思わず結衣の顔に見とれてしまった。しかし、見つめすぎると結衣に覗いているのが分かってしまい、なんだか気恥ずかしいのであまり見つめすぎる事も出来ずもどかしかった。だから広司は結衣に気付かれる前に視線をそっと前に向けた。

 東京都狛江市の端に位置する西河原公園には、日曜日の穏やかな陽気に誘われて、広司と結衣の他にも幼い子供を連れた家族連れや仲良く手を繋いでいる老夫婦が自分達の時間を満喫するようにゆっくりと歩いている。どの人も穏やかな笑顔をしているのが印象的だった。時刻は午後三時を少し過ぎたばかりだが、ソメイヨシノの力強く伸びた枝の間から見える空はどこまでも蒼く澄んでいて薄く遥か彼方に小さく月が見えた。公園のすぐ隣は堤防を挟んで多摩川の河川敷が彼方まで広がり、川面は陽を反射してキラキラと宝石のように輝いて見えた。さっきから自分のくだらない冗談に応えた結衣の笑顔がやけに眩しくて、広司は眩しく感じれば感じるほど、何故か自分が今生きていることを素直に感じることが出来た。きっと結衣の生きようとする前向きな意思がそう感じさせているのだろう。

すぐ目の前をソメイヨシノの淡いピンクの花弁がひらひらと生きているように舞い落ちてくると、その周りの時間すらも止めるような流れる動きの美しさに広司と結衣は思わず顔を見合わせた。広司は以前に観たある映画のワンシーンの中を歩いているような不思議な錯覚に陥って、一瞬ここがどこなのか分からなくなったけれど、どうしてもその映画のタイトルは思い出せなかった。結衣と同じ空間にいて、同じ空気を吸い、同じように歩いているただそれだけの事なのだけれど、今の広司にとってはかけがえのない時間だった。

 春の優しい風が広司と結衣の間を逃げるようにすり抜けていくと、ソメイヨシノの桜吹雪の匂いに混じって、微かに新緑の匂いがした。ソメイヨシノは既に新しい季節の準備をしているのだろうか。季節は広司と結衣の意志とは関係なく音も立てずに、ただ静かに移り変わっていくだけだった。


「昨日ね、不思議な夢を見たんだ」

 結衣が静かな声で言った。

「どんな夢?」広司が聞く。

「広司くんと裕太くんと亜希ちゃんと私の4人で夜の遊園地に遊びに行く夢・・・」

「へえ」

「そこで広司くんと裕太くんが二人で私と亜希ちゃんを笑わせくれて、凄く楽しくてずっと笑ってるんだけど、ふっと気付いて周りを見るとみんなは私を置いて手を繋いで夜空に飛んでいっちゃうの」

「何それ、不思議だね」

「うん。でもね、私みんなが飛んでいくのを眺めながら寂しいとかそういう感情はなくて、ずっと凄く楽しい気持ちのままなのが不思議で・・・」

「まぁ、よっぽど夢の中での僕が面白かったんだろうね。現実と違って」

広司はわざと自虐気味に言った。

「そんなことないわよ。広司くんはユニークよ。だから夢にも出てくるのね・・・」

優しく広司の気持ちを包むような結衣の声だった。

広司と結衣が並木道の真ん中辺りに差し掛かった時、広司は向かって左にある五、六段の小さな階段の先の公園内にちょうど二人が座れるような木製のベンチを見つけた。

「ねえ、ちょっと疲れたからあのベンチにでも座らない?」

広司は結衣にさり気なく聞いた。

「うん。いいよ」

結衣が答えると広司はすぐさま結衣が座る前にベンチに歩み寄ると、直にベンチを触って座れるかどうかをわざわざ確かめた。

「ありがとう・・・・・そんな事までしなくて良いのに」

そう言って微笑みながら結衣はベンチに座った。

「いや、ほらもしかしたらこのベンチ、ペンキ塗りたてかもしれないでしょ?よく昔のドラマとかであったけど、ペンキ塗りたての張り紙が風で飛ばされちゃって、せっかくのデートで結衣ちゃんがペンキ塗りたてのベンチに座っちゃったら困るからさ」

 さしたる根拠は無いが広司が自信満々で言った。

「ふ~ん、昔のドラマって、あまり観た記憶がないからわからないけど、このベンチ見るからに塗り立てって感じはしないけど」

「そう?・・・まあ、細かいことは気にしない、気にしない」

広司は照れを隠すように表面的には少し興奮気味に早口でそんなことを言いつつも、本心ではそんな安いドラマみたいな事があるはずがないと思っていた。それに結衣の前だから少しでも良い所を見せようとして、逆に空回りしている自分が恥ずかしくもあった。だから広司はそのまま結衣に続くようにベンチに座ると、その恥ずかしさを押し殺すように、そっと横目で結衣の様子を盗み見たのだった。いつのまにか春の優しい風も止んでいた。


 ベンチに座ると広司と結衣はお互いになぜか言葉を発せず奇妙な沈黙がその場を支配するようになった。それはまるで静かな夜の海のように暗くどこまでも深い沈黙で、広司は結衣の整った美しい横顔を眺めながら、彼女から言葉を発するのを待ったけれどいっこうに喋る気配はなく、その表情から何かを読み取ることは出来なかった。

間を埋めようと広司も自ら適切な言葉を探したが、結衣の沈黙が伝染したのか言葉は出なかった。

そして、時計の針が知らぬ間に少しずつゆっくり進むようにその奇妙な沈黙が少しずつ焦燥に変わり始めようとした時、二人のベンチから少し離れた所を歩いていた三、四歳位の男の子が母親の手を勝手に離れて小石につまづいて派手に転び、堰を切ったように泣き出した。その男の子は母親にすぐ抱き起こされたが、一度泣き出した勢いはなかなか止まらないようで、男の子の派手な泣き声が二人の間の沈黙を突き破るように辺りに響き渡っていた。

「子供って良いよね・・・周りの目なんか気にしないで思いっきり泣けてさ」

ようやく結衣が懐かしいものでも見るように目を細めて呟いた。

「うん。本当に羨ましいよ、自分の感情を素直に表現してさ、なまじっか年だけ取ると僕みたいにすぐ余計なこと考えちゃうから・・・」広司が答える。

「年だけ取るって・・・・私達まだ二十歳だよ。ちょっとその考えは早すぎない?」

結衣が呆れたように言った。

「まぁ、言われてみればそうか。でも、結衣ちゃんは僕より何倍も自分の気持ちに素直に生きてると思うな。正直、羨ましいよ」

「そうね」

結衣が短く答え、再び何かを考えるように黙った。

「そ、それにしてもさ、なんで昨日は結衣ちゃんから誘ってくれたの?」

広司は会話を途切れさせたくなくて思い切って結衣に尋ねた。毎回、誘いの電話をするのは広司の方からで、結衣の方から誘ってもらったのは昨日が初めてだった。

「ごめんなさい。迷惑だった?」

結衣が申し訳なさそうに言った。

「ううん。そんなことないよ、大丈夫。そもそも日曜なんて予定なくてむしろ暇だったし」

「そう、それなら良かった。ほら、いつもデートに誘ってくれるのは広司くんの方からでしょ?たまには私の方から誘ってみようと思って」

結衣が明るく答える。しかし、その明るさがかえって何かしらの不自然さを広司に与えた。

「そうなんだ。まぁ、確かにこれだけ春らしく暖かくなったら、外にも出たくなるよ。うん」

広司はひとり自分の言葉に納得するように力強く言い切り、大きく伸びをしてそのまま視線を空に向けた。ソメイヨシノの枝の間から見える空には、いつの間に出来たのか細く長い飛行機雲が気持ち良いくらい真っ直ぐに伸びていた。さっきまでのうるさい位の男の子の泣き声はすっかり静まっていて、視界を横切るようにゆっくりと舞い落ちる一枚のソメイヨシノの花弁を見るともなく広司は目で追いかけた。

「広司くん、わたしね・・・・他に好きな人がいるの」

その言葉がはじめて広司の耳に届いた時、広司はその言葉の意味を理解することが出来なかった。いや、もっと正確に言えば敢えて理解しようとしなかった。結衣の口から発せられた言葉の文字そのものとしての表層的な意味は理解出来ても、自分自身の問題として心に落とし込めなかった。まるでつまらない映画やドラマを観ている時のように虚構の中の出来事として使い回された言葉がただ広司の身体を通過して音も立てず静かに流れていくように。

「突然、こんなこと言い出してごめんなさい。やっぱり今日ちゃんと言わなきゃと思ってさっきからずっと考えてたの。でも最初に言っておくけど、これは私自身の問題であって広司くんがどうとかいう問題じゃないの。それだけはわかって欲しい。自分でも勝手なことを言ってるのはわかっているけど・・・」

 結衣がそう言うと、広司はひとつ大きな深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとしたがうまくいかなかった。むしろ運動をした後のように心拍数が上がっている気がした。

「結衣ちゃんから誘ってくれた本当の理由は、この為だったんだ」

 広司は喉の奥から絞り出すように言葉を吐き出した。しかし、結衣はそれに対して何も答えようとはしない。ついさっきまで感じていた穏やかな春らしい季節の息吹は、突如として広司にとって邪魔な存在になった気がして、いっそ土砂降りの雨でも降ってこの時間ごと洗い流してくれればいいのにと切に願ってしまう自分が哀しかった。

「裕太」

「え?」

「その好きな人って裕太なの?」

 広司は自分でも驚くぐらいはっきりとした声で言った。それは広司の中にそれまで隠し持っていた泥々とした感情の塊を吐き出すみたいに。いや、それはそんな綺麗なものじゃなくて泥酔して吐寫物を吐き出すような痛みを伴う嫌悪感に近い感覚だった。

「無理しなくていいよ。僕もなんとなく気付いていたんだ。結衣ちゃんが本当に好きなのは僕じゃなくて裕太だって。でも、それを認めると今の自分の存在さえも否定するような気がして・・・だから気付かないふりをしていただけだから」

言葉が広司の意思とは関係ない所から溢れてくるようだった。

「無理なんかしてないわ」間をおかず結衣が語気を強めた。

「勘違いしないで!私は自分の気持ちに素直になりたいと思った。ただそれだけよ」

 結衣の真っ直ぐな視線と柔らかな唇の動きが広司の視界に入ると同時に、予想外の結衣の反応に広司はたじろぎ、自分で吐き出してしまった言葉の欠片が鋭いブーメランのように自分自身に戻ってきて突き刺さった。

「・・・ごめん。怒らせるつもりはなかったんだ。その何て言うか、突然のことで僕も混乱しちゃって」

思わず結衣から視線を外してやっとのことで広司は言った。どうしてこんな事態になってしまったのか、自分でも意味がわからなかった。ついさっきまで仲良く並木道を歩いていた事が遥か遠い昔の出来事のように感じ、無意識に現実から逃げるように意味のない言葉の羅列を頭の中で何度も繰り返していた。

長い沈黙が再び広司と結衣を包むように訪れた。実際にはそれはほんの数分間だったのかもしれない。けれど広司には果てしなく続く灼熱の砂漠を当てもなく彷徨っているような無限の長さに感じ、沈黙という名の見えざる追跡者がじりじりと巧妙に執拗に己の姿を見せず迫ってくるようだった。そんなことを考えていると広司は自分がいつの間にか喉が酷く渇いていることに気付き、いったんそう思い始めると喉の渇きは次第に大きくなってきて我慢出来なくなった。

「あ、あのさ、ちょっと喉が渇いたから、近くの自販機で何か飲み物でも買ってくるね。結衣ちゃんは何か飲みたいものある?」

そう言って広司がその場の空気を仕切り直すようにベンチから立ち上がると、不意に結衣も立ち上がり、広司のパーカーの裾を素早く掴んだ。

「ちょっと待って!・・・あの・・広司くんの言った通り裕太くんなの。私が好きなのは・・・」

 結衣の真っ直ぐに自分を見つめる視線から広司は目を逸らすことが出来ず動きを止めた。それは世界中の動いているもの全てを一度に瞬間停止させるような、そんな視線だった。広司は動けず言葉を発することが出来ないまま思わず唾を飲み込むと、その飲み込むごくりという音がうるさいくらいよく響いた。

「うん・・・・うん・・・わかった」

何がわかったのか自分でもわからないまま広司はその場を離れようと袖を掴んでいる結衣の腕を無意識に離そうとしたその瞬間だった。結衣はなんの躊躇いもなく素早く広司との距離を縮めると広司の唇に自分の唇を重ねた。

キス?なんで?そんな疑問すらも頭に浮かばない程の結衣の突飛な行動は広司をその場に直立不動にさせ思考を奪い、魂を抜かれた人形みたいに呆然と立ち尽くさせた。目に見える周りの景色がメリーゴーランドに乗っている時のようにグルグルと回っている気がして、結衣の柔らかい唇の感触だけが直に伝わってくるだけだった。そのまま結衣が広司の舌に自分の舌を絡めてくると、その行為に驚きつつ広司も結衣を逆らうことなく受け入れた。お互いの高潮した吐息が混ざり合うと、混沌としていつのまにか時間の概念を忘れ、引き寄せられた強力な磁石のように、二人の身体はひとつになった。そして、そのまま外側の形を失くして、熱せられたバターのように一緒に溶けてしまったように感じた。

それはどれくらいの時間だったのか、それとも一瞬だったのか、もはや広司には正確に判断出来なかった。気がつくとパーカーのポケットに入れていた携帯電話が不気味なくらい無感情に振動して広司を呼んでいた。その振動を合図にして、広司は強力な催眠術から解かれた人のように我に返ると、呆然として結衣から離れた。

「ごめん。電話が掛かってきたから、ちょっとここで待ってて」

離れた広司は結衣の表情を直視せず一言そう言うと、逃げるように素早く歩き出した。一方で結衣は、まるで自分にしか見えない妖精でも見ているような焦点の合わない表情をして、目前の空間の一点を見つめているだけだった。



充分に結衣との距離を取り何回か深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから広司は、怯むことなく振動を続ける携帯電話の着信画面を見た。着信は柏木裕太からだった。

「もしもし、裕太?」

「よう、岡田。どうよ、デートは順調?」

「・・・なんだよ。こんな時に電話してきてさ」

「おいおい。せっかく電話してあげてんのに・・・・結衣ちゃんと何かあったのか?」

人の心を見透かしたような裕太の言葉に思わず広司は動揺する。言葉のニュアンスのちょっとした変化から何かを感じとる鋭い感覚を裕太は持っていた。

「え?あ、いや、そういう訳じゃないんだ・・・大丈夫、順調だよ」

「ふ~ん。まぁ、それならいいんだけど。で、今日は二人でどこに行ってるの?」

「狛江の西河原公園に桜を見に来てるんだ」

 広司はそう言いながら近くのソメイヨシノの樹をおもむろに見上げた。

「はい、はい。あの公園の桜か!いいねぇ、ロマンチックじゃん。いいか岡田、昨日も言ったけど、今日は結衣ちゃんとキスまではいけよな。岡田が男らしくガツンと行けばさ、絶対に大丈夫だから。人生も恋愛も結局はロックなんだよ、ロック」

「・・・おう。ありがとう」

 いつもの裕太の力強い声が広司の胸に虚しく響いた。状況が混乱していて、とても結衣とのさっきまでの一連の出来事を喋る気力が湧いてこなかった。

「岡田もわかってると思うけど、結衣ちゃんみたいなちょっとミステリアスな子のほうがさ、意外と相手からの行動を待ってたりするから。まあ、要は岡田次第だな」

「うん」

「でな、俺の以前付き合ってた彼女もそうだったんだけどさ、こういう時ってさ・・」

裕太の声が携帯電話を通して広司の中に入ってくるが、意識はさっきの結衣の行為に向けられ、栓を抜いた風呂場の水のように裕太の言葉は広司の耳から流れ出て行く。

結衣はなぜ突然、あんな行動をしたのか。幾つもの疑問と仮説が浮かんでは消え、またすぐに浮かんだ。出口のない迷路に迷い込んだように。

「・・・おい!岡田!聞いてる?俺の話?お~い!」

「え?ど、どうしたの?」

広司が驚いた声で答えた。

「どうしたのじゃないよ、さっきから俺の話聞いてた?」

「ごめん、ごめん。ちょっと目にゴミが入ってさ、そっちに気をとられてた」

咄嗟に嘘をついて広司は誤魔化した。

「お~い、頼むよ。こっちは岡田の為に話してるんだぞ。俺はおまえにはちゃんと童貞卒業してもらってさ、大人の階段を昇って欲しいのよ、本当に」

「わかってるよ。ありがとう」

「あれ?そういえばさ、大人の階段昇る~って、誰の歌だったっけ?」

「なんだよ、突然。いや、どこかでメロディは聴いたことあるけど、誰の歌かは知らないなぁ。そういうのは音楽やってる裕太の方が詳しいだろ?」

「そうなんだけどさ。ほら俺は基本、ロック専門だろ?やっぱ、ロック最高!」

「お、おう・・そうだな」

「なんだよ、ノリが悪いなぁ。そんなんじゃ、結衣ちゃんに嫌われちゃうぞ」

「まさか・・・」裕太の何気ないが核心を突く言葉に広司が思わず焦った声を出した。

「フフ、冗談だよ、冗談。岡田、もっと柔らかく、リラックスしていかないと。まっ、いいや、とにかくデート頑張れよ。じゃあな」

言葉が終わると同時に唐突に携帯電話の通話は切れ、その場には裕太の残した言葉の余韻だけがまだふらふらと海に漂うクラゲのように残っていた。


 水道の蛇口から勢いよく捻り出された水のように喉を流れていく炭酸飲料が広司の渇いた身体を通過していくと、心地よい刺激と共に緊張して強張ったままの心と体もいくらか落ち着いた気がした。一気にペットボトルの半分程を飲み干した広司は、昔からの癖で手に持っている炭酸飲料のペットボトルには必ずある原材料の欄内に記載されている文字群を見るともなく眺めた。意味のわからない何か専門的な文字の羅列を眺めていると、濃い霧の中に迷い込んだように急に現実感と方向感覚が無くなって自分が今、何をしているのか、何をしなくてはいけないのかが分からなくなった。

 ガチャンという物が落ちる独特の籠もるような鈍い音を聞いて広司はその音がした方に反応し振り返ると、さっき転んで大泣きしていた男の子の親子連れが、偶然、自販機で飲み物を買ったところだった。母親にジュースを買ってもらったからか、その男の子

は嬉しそうに飛び跳ねていて、その様子は実に微笑ましく以前、美術館で観た長閑な風景画を広司に連想させた。つい数分前にその親子の姿を見た後、結衣から別の好きな人がいると告げられたのに、広司と結衣は熱く激しく唇を重ね合わせたという事実が、その親子の微笑ましい光景を見てしまうと、まるで嘘の出来事のように感じられた。だから広司は散らばったパズルの欠片を元に戻すように、その光景と起こった事実の意味を自分の中で正しく当てはめようと何度も確認するように頷いた。

 ソメイヨシノの桜並木の中をゆっくりとベンチに戻りながら、このあと広司は結衣に対してどう接していけば良いのか、どんな言葉を掛けたら良いのかを考えていた。

でも結局、広司の脳裏に浮かんでくるのは結衣の肉体的な唇の感触だけで、それ以外は何も浮かんでこなかった。このまま結衣との関係が終わってしまう可能性もあるのに頭ではそれを理解しても現実の結衣の唇の感触は、本能的に広司にそんな杞憂など忘れさせて淫らな妄想をさせるだけの衝撃を与え、実際的に広司の股間は、素直な反応として激しく勃起もしていた。

しかし結衣が待っている筈のベンチに広司が戻ってきた時、そこにいるべき筈の結衣の姿はなぜかどこにも見当たらなかった。広司は結衣がトイレにでも行ったのだと思い、ひとまず結衣が戻ってくるのを待つことにしベンチに座った。

ひとりベンチに座り結衣を待っていると広司は急に煙草が吸いたくなって、背負っていたリュックの中から無造作に入れていたマルボロライトとライターを取り出した。そして、そのまま自分の動作を確認するようにゆっくりと一本を箱から出し火をつけた。

いつもより長く、味わうようにゆっくりと煙草の煙を吐き出すと、その煙はゆらゆらと不規則に動きながら空に昇っていき音もなく静かに消えていった。広司は自分が吐き出した煙をぼんやりと眺めながら、結衣の前では煙草を吸ったことがなかったことを思い出した。そのことで特に結衣から何かを言われた訳ではないけれど彼女が煙草を吸わないので、なんとなく広司が気遣って結衣の前では吸わないようにしていたのだ。ただそんな淡い思い出も、このままでは遠い過去の記憶になってしまうかもしれないことが殊更に広司に寂しさを感じさせていた。手元で燻っている煙草はまだ半分程残っていたけれど、そんな自分の気持ちを押し殺すように広司は地面で煙草を消して、近くにあった炭酸飲料のペットボトルに吸殻を捨てた。


ベンチに座ったままどれくらいの時間が経過したのだろうか。景色は少しずつ夕闇に包まれ始め、そのあとからゆっくりと訪れる夜の闇が周囲の景色を侵食していった。広司が左手の腕時計で時間を確認すると時計の針は午後の六時半を指していた。ついさっきまで周囲には散歩をする人が何人もいて、近所の子供達の遊ぶ声がうるさいくらい響いていたのに、今は誰も居らず公園内はひっそりと静まりかえっていた。あの親子連れもいつの間にか家路についたようで、その姿は見えなかった。西河原公園は同じ場所なのに、夜になると昼間とは全く別人のような寂しい印象を広司に与えた。

いよいよ胸騒ぎを覚えた広司は焦るように立ち上がると、思い出したように結衣に電話を掛けたが広司の着信に結衣が応答することはなく、虚しくコール音が響くだけだった。すぐに公園内を暫く探し回ったが、結衣の姿は忽然と消えたように、どこにも見当たらなかった。                        

なぜもっと早く電話をしなかったのかという後悔の念が広司の中で空気を入れた風船のように膨らんでいきながらも、それと同時に広司の中では結衣に会わなくて済んだという安堵感のようなものも存在していたのも事実だった。だから矛盾し、相反するこの気持ちを広司は上手く自分の中で整理出来ず、今はただ時間の流れに身を委ねるしかなかった。

しばらく何も考えられずその場に立っていた広司は周囲が完全に夜になっていることに気付いた。風も無く近くにある大きな水銀灯の淡い光だけが、柔らかくその付近を照らしていて、夜桜を闇の中から見事に描き出していたが、不思議なくらい現実感はなかった。ただ広司の意思や気持ちを無視して、ある意味、残酷に時間だけは過ぎていき、時間の経過と共にはっきりと広司は、結衣との関係が終焉を迎えたという確信にも近い予感を抱いたのだった。

結衣の家に行く。まるで天の啓示を身体に受けたように、いきなりその考えが、広司の頭をよぎった。確か結衣の家は狛江市内の住宅街にあり、この公園から歩いても十五分程の距離の筈だ。過去に広司は結衣の家には一度だけ行った事があった。その時に偶然、広司は結衣の母と姉に会っていた。もしかしたら、その経験が広司にそんな考えを浮かばせたのかもしれなかった。

ただ、今はなにより結衣がちゃんと家に戻っているのか、それだけでも確認出来れば良かったし、仮に、もう一度会って何か言葉を交わせれば、少しでもこの状況が好転するかもしれないという淡い期待もあった。だから広司はゆっくりとした動作で、ひとまず結衣の家に向かって歩き出したのだった。

広司が西河原公園を出て、結衣の家に繋がる道路を歩き始めると、突如として、真正面の東の空に大きな満月が見えた。その満月は夜空の中で、一際明るく輝いていて、その満月の持つ不思議な力のせいなのか、普段は月の存在など気にも留めないのに、なぜか今日はそのあまりにも泰然自若とした姿に広司はしばらく視線が釘付けになってしまった。

その満月はただそこにあるだけなのに、広司はすべての気持ちを見透かされているようで、言葉にならない言葉をその満月に自然と語りかけていた。     

             2


その白い壁の家の前まで来ると、広司は改めて結衣の住んでいる家を見上げた。一見すると、その家はどこにでもあるような普通の二階建て住宅で、もし結衣の家という特別なフィルターが広司に掛かっていなかったら、きっとすぐに記憶の中の遠い片隅に押し込められてしまい、その場所を忘れてしまうことだろう。そんなありふれた良い意味で目立たない家だった。周囲の住宅街には同じような家が何軒か立ち並んでいて、お互いの存在を打ち消し合っているようにも見える。まだ時間的に夕飯時だからか隣の家から漂ってくる香ばしいカレーの匂いが、その場に見えない彩りを加えながら、広司の空腹を急激に刺激した。そういえば今日は昼にコンビニで買ったおにぎりを一個食べたきり何も食べていなかった。

広司の立っている場所からは、玄関までのちょっとしたスペースに車一台分が駐車できる空間があり、その隣が駐輪場所になっているようだった。今は出掛けているのか車はなかったが、今日、結衣が公園まで乗ってきていた赤い自転車は、世界から一台だけ取り残されたようにポツンとその場に捨て置かれていた。おそらく結衣は家には戻っているのだろう。しかし、広司が見る限り家の窓から明かりが漏れることはなく、人の気配は感じられなかった。

周囲に目を向けると、道路を挟んだ向かいの真正面の大きな家から静寂を破るように、飼い犬の鋭い鳴き声が急に聞こえてきて、広司は思わず首を竦めた。ただ、その家は周囲を鉄柵と生け垣で囲っているので、広司からはその飼い犬の姿はほとんど見えなかった。その飼い犬には広司が自分の領域を侵す不審者に映っているのだろう。その鋭い鳴き声は、近くの道路を通る車やバイクのエンジン音にも反応して、時折、さらに鋭くなり広司の鼓膜をその度に震わせた。

広司はこの期に及んでも、やはりこのまま帰るか、それとも結衣に会うか、という微妙な二択の中途半端な位置に立ちながら思案を巡らせたが、明確な結論が出せないままだった。依然として、うるさく吠え続ける飼い犬の鳴き声が背後で響きながら、その鳴き声は広司に早く帰れと言っているようにも、逆に励ましているようにも聞こえて、広司はその場から、家に近寄ることも離れることも出来ないでいた。

その時、背後から一台の車の乾いたエンジン音と共に眩いライトの光線が広司の全身を照らした。ライトはハイビームで真っ直ぐな白い光が、反応した広司の目に容赦なく突き刺さり、思わず顔を背ける。車は広司の存在などまるで気にしないように、減速しながらゆっくりと右折して、その狭い駐車スペースに滑り込むと、エンジンを停止させた。薄暗いせいかあまり車種までは判別出来なかったが、ありふれた灰色のトヨタ・カローラだった。

「お母さんが、ちょっと郊外の店まで行こうなんて言うから、こんなに時間が掛かっちゃったじゃない」

 カローラの助手席のドアを開けて出て来た若い女性が言った。その若い女性は茶髪のショートカットで、白い長袖のTシャツにデニムと黒のスニーカーというラフな格好だった。何かスポーツを経験している人のように動きに淀みがない。だから全体的に活発で明るい印象を広司に与えた。

「そんな事言ったって、仕方ないでしょ。まさか交通事故で渋滞になるなんて思わなかったんだから」ほぼ同時に運転席のドアを開けて、婦人が答えた。

 その婦人は黒の眼鏡を掛け、肩まである長い黒髪を後ろで束ねていた。そして、春らしい花柄のシャツにすこしタイトなデニムにサンダルという格好だった。スタイルが良いので、実年齢より若く見え、雰囲気はどことなく結衣に似ていた。帰宅した二人はお互いの会話に夢中になっていて、どうやらすぐ近くにいる広司の存在には気がついていないようだった。

「そんな事より、早く荷物運んじゃってよ。咲は私より若いんだから、そのぐらいの荷物どうってことないでしょ?まず文句を言う前に体を動かす、ほら!」

 少し命令口調で婦人が言った。

「え~、なにそれ。せっかく予定あったけど、買い物に付き合ってあげたのに」

「また、そういうくだらないこと言って。予定もなにもバスケ辞めてからは、どうせ家でごろごろしながらテレビ観るだけでしょ」

「違うよ。ちゃんと観たい番組だってあったのよ」

「それをごろごろするって言うのよ」

「はい、はい」

口喧嘩では勝てないと諦めた若い女性が、渋々後部座席のドアを開けると中から買い物袋の束を幾つか持って運び出し始めた。タイミングを完全に逸していた広司はマネキン人形のようにその場に棒立ちになっている。

「何か御用ですか?」

丁度、玄関の鍵を開け、後ろを振り向いた婦人が広司の存在に気付き、少し距離がある所から声を掛けてきた。急に女性二人の視線が広司に集まり、その場に張り詰めた緊張感が走った。

「あ、あの・・安藤結衣さんはいますか?」

 不意を突かれて先に声を掛けられたので、上手く言葉が出ずに広司は思わず声が上ずってしまった。

「結衣に何か用ですか?」

近くにいた若い女性が訝しげな視線を広司に送りながら言った。

「あの、今日、結衣さんと一緒に西河原公園に桜を見に行ったのですが、突然、結衣さんが帰ってしまったので・・」

「え?あ、あなた、もしかして結衣の彼氏の人?」

 若い女性が広司の言い終わる前に、急に打って変わって弾んだ声をして言葉を挟んできた。

「あ、そうです。一度、ここで会っていると思うのですが・・・」

 広司も何とか話を繋ごうと声を張った。過去の記憶を手繰りよせ、以前、結衣を送る為に玄関先まで来た時のことを思い出す。確かその時に二人とは会っていた。ただしその時は夕刊の配達がその後に迫っていたので、会話らしいことはせずにすぐに帰っていた。

その若い女性も結衣とは雰囲気こそまるで違うが、顔立ちは似ていて健康的な美人だった。だからそんな一瞬の出会いでも、その美しさが記憶に印象的に残っている。

「そうだ、そうだ。思い出した。結衣が連れてきた人だ。どんな人だろうと思って、興味持ったから、覚えてるよ。確か、名前は・・」

「岡田広司です」

「そうだ、岡田君だ。え~と、私は結衣の姉の咲で、こっちはお母さん」

「母の安藤清美です」

紹介された清美が頭を下げた。

「・・・まぁ、同じ岡田でもV6の岡田君とは、大分違うね」

咲が広司の顔をじっと覗くようにして言った。

「はぁ」

「で、その普通の岡田君がこんな時間にどうしたの?」

いつの間にか会話が咲のペースになっている。

「・・・いや、今日、一緒に桜を観に行ったんですけど、突然、結衣さんが先に帰ってしまったので、心配で来てみたんです」

「え、そうなの?結衣が桜を観に行ってたなんて、今、初めて知ったんだけど」

咲が意外そうな表情をして清美の方を見た。

「咲はいつも夜更かしして、昼過ぎまで寝ているから、気がつかなかっただけでしょ」

清美が呆れたように言った。

「なるほどそういうことか。なんだ、結衣も前もってデートに行くとか言ってくれれば、私もこっそり隠れて付いて行ったのに」

人を幻惑させるような魅惑的な表情をして無邪気な視線を咲が広司に送ると、思わず広司は視線を逸らしてしまった。

「とにかく、結衣さんがいるかどうかだけでも確認してもらえませんか?」

広司が改めて咲に言った。

「よし。じゃあ、ちょっと待ってて。今、見てくるから」

そう言うと同時に、颯爽と身を翻して咲が家の中に入って行った。そしてその場には広司と清美が必然的に残された。

「・・・ごめんなさいね。さっきは咲が失礼なこと言って」

咲の入って行った玄関を軽く一瞥してから清美が優しい声で言った。

「何のことですか?」

「ほら、咲が普通の岡田君がどうとか言ってたじゃない」

「あ~、その事ですか。全然気にしてないですから、大丈夫です。そういうの慣れてるので」

「あの子も悪気はないのよ。でも性格的に思ったことを、すぐ口に出しちゃうから」

「同じ姉妹でも、結衣さんとは性格が随分違いますね」

少し苦笑しながら広司が言った。

「そう?私から見れば二人とも似たり寄ったりよ。ただ感情の表現の仕方が違うだけなのよ」

「感情の表現・・・」その言葉が妙に引っ掛かり広司は独り言のように呟いた。

そうして広司は思いついたように意識の輪を外に広げると、まだ道路を挟んだ真正面の大きな家からは、姿の見えない飼い犬の鳴き声が継続して聞こえてきていた。なかなか根気と肺活量のある犬のようだ。そこへちょうど駆け足でもしてきたように軽快に咲が戻ってきた。しかも息ひとつ乱れていない。

「岡田君。結衣はちょっと部屋から出てこないわ。何回か声を掛けたんだけど、駄目みたい。物音はするから、部屋にはいると思うけど・・・」

「そうですか、ありがとうございます。とにかく部屋にいることだけでもわかったので良かったです。・・・とりあえず、今日は帰ります」

とりあえず?そう自分で言っておきながら広司は、自分自身に疑問を投げかけた。おまえは本当にまたこの家に来るつもりなのか?そう自分の心に再度、問いかけてみる。               本当の答えは最初から出ていた筈じゃないのか?なぜ、自分の心を偽るのだ。最初からわかっていた筈だ。もう二度とここへ来ることはないと。

本音と建前。事実と真実。自らが発する内側の言葉と外側の言葉がパレットに出した絵の具のように混ざり合い、何が本当の自分の気持ちなのかわからなくなった。

「岡田君はご飯食べたの?」

唐突に清美が聞いてきた。

「え?」

「ご飯よ。ご飯、夕飯はもう食べたの?」

「いえ、まだですけど・・・」

「そう。だったら、せっかくだから、家で夕飯食べていきなさい。これから私が急いで夕飯作るから」

「・・・あ、いえ僕は大丈夫ですから、これで帰ります」

清美の申し出に広司はその言葉の真意がわからず、戸惑うことしか出来なかった。

「さっきから気になってたんだけど、岡田君、普段からちゃんとご飯食べてる?顔色があんまり良くないわよ」

心配そうな声で清美が聞いた。

「まぁ、それなりに・・・」

「それなりって。駄目よ、ご飯はしっかり食べないと」

すぐ側にいた咲が口を挟んできた。

「余計なお節介かもしれないけど、岡田君位の年頃の子は、毎日の食事が本当に大切なのよ。将来にとっても」

清美が諭すような声で言った。

「はあ・・・」

 率直な気持ちとして、今の広司にとっては食事など正直どうでもいいことであり、あえてこの状況で広司を食事に誘う清美の考え方自体が理解出来ず、穿った見方と勝手な想像が膨らむだけだった。

「まあ、せっかくお母さんが食べていきなさいって言うんだから、食べていけば?

口では色々と私も言うけど、本当にお母さんの作る料理は美味しいのよ。それにほら、ご飯食べてればそのうち結衣もお腹空かして部屋から出てくるかもしれないし・・・あと私もちょっと聞きたいこともあるしね」

なぜか咲は最後だけ少し声のトーンを落とした。

「え?聞きたいこと?」

「まったく!それにしてもさっきからうるさい犬ね、本当に」

広司の質問には答えずに咲が言うと、いきなり右手を口元に添え、咲は見事な指笛を鳴らした。広司が驚く暇もなく指笛独特の高く鋭い音が響くと、飼い犬の鳴き声はまるでその音を待っていたかのようにぴたりと止まり、その後は嵐のあとの海のように穏やかで静かな夜が辺りに広がっていた。


忙しなく動きながらも無駄の削ぎ落とされた手順で調理をする清美の立ち姿は、広司の脳裏に実家の母親の姿を重ねさせた。そしてそこから聞こえてくる規則正しくリズムを刻みながら清美が食材を切る包丁の音に広司は鼓動を高め、フライパンで食材を炒める度に漂ってくる香ばしい匂いはいやがうえにも広司の食欲を刺激した。広司が大学に入学して約一年が過ぎようとしていたが、実家に帰省したのは数えるほどだったから、余計にそんな感傷的な気分になったのかもしれなかった。

広司は清美から勧められた椅子に座り夕飯が出来るのを待ちながら、自分が今いるその部屋をゆっくりと見回してみた。部屋の中は全体的に落ち着いた白を基調とした色合いの物で統一されていて、キッチンカウンターと隣り合わせにするように大きな木目調のテーブルが置かれていた。部屋のすぐ横は淡いグリーンのソファとテレビが置かれているリビングになっていた。

この部屋で結衣と家族はいつも食事をしているのだろう。部屋には家族と共に刻んできた生活の痕跡とある種の匂いがいたる所に散らばっていた。そんなありふれた家族の日常的な風景を想像しながら広司はやはり心の片隅では誘われるがままに家に上がってしまったこの状態を後悔しつつも、どうしても咲の発した「聞きたいこと」という言葉の持つ磁力と彼女自身の魅力には逆らえなかったことを改めて感じていた。

「さあ、待たせたわね。遠慮なく食べて!」

清美の元気な声が聞こえると同時に木目調のテーブルの上には出来たてのチンジャオロースと電子レンジで温めた肉じゃが、そして味噌汁が並べられた。お皿に盛り付けられた料理から立ち昇る湯気は清美が心を込めて作った手料理の何よりの証のように広司には思えた。

「ごめんなさいね。昨日の残り物の肉じゃがと冷蔵庫にあった豚肉とピーマンを適当に炒めて作ったから、あんまり味は保証出来ないけど」

「そんなこと・・・本当に美味しそうです」

清美が謙遜するように言ったので広司がお世辞抜きで感想を言った。

「お、今日はチンジャオロースか。うん、なかなか当たりの日に来たよ岡田君は」

タイミング良く部屋に入ってきた咲がテーブルの上の料理を見ながら言った。いつのまに着替えたのかスウェットパーカーにジャージといういかにも体育会系の部屋着になっている。

「ちょっと咲!あんた手伝いもしないで何やってたの?早くみんな分のご飯をお茶碗によそってちょうだい」清美の張りのある声が部屋に響いた。

「はい、はい。分かってますよ」

咲がやはり機敏な身のこなしで、キッチンの奥にある戸棚から三人分のお茶碗と箸を取り出し、皆のご飯を茶碗によそってお盆に載せて持ってきてくれた。

「はい、岡田君」そう言いながら、咲が三人分のご飯をよそった茶碗と箸をそれぞれの席の位置に置くと、咲自身は広司の隣の椅子に座った。清美は広司のちょうど正面の椅子に座っている。

「あ、ありがとうございます」広司がお礼を言った。

「それじゃ、いただきます」

広司のお礼など気にする素振りも見せず咲は元気よく言ってから食事を始めた。


口に運んだお手製のチンジャオロースは、細切りにした新鮮なピーマンとタケノコと豚肉が清美によって絶妙な味付けと火加減で炒めてあるため、シャキシャキとしたピーマンとタケノコの若々しい歯触りと豚肉の旨みが丁度良い塩梅で絡むことによって、極上の美味さのハーモニーを創りだしていた。だから広司の箸はご飯と共に夢中になって進み、大方をすぐに食べ終えてしまった。その時、左手にはめた腕時計で広司が時間を確認すると、時刻は午後八時になろうとする所だった。

時間のいつのまにか進む早さに広司は驚き、思いもよらない事の連続で結衣の家で夕飯を食べている自分がなんだか信じられなかった。だから今、こうして食事をしていること自体が映画の中のワンシーンをスクリーンから観ているように客観的に感じて、その分だけ自分の周りの景色が妙にリアリティが欠如しているように思えた。

「どう味の方は?美味しかった?」

そう清美から質問された時、自分への質問を質問と理解するのに、少しの時間が必要になった。

「・・・あ、はい。本当に普通に美味しいです」

なるべく当たり障りのないように広司は答えたつもりだった。

「そう。それは良かった」

正面にいる清美は微笑みながらそう言ったが、隣の席にいた咲が広司の言葉に敏感に反応した。

「あのね岡田君。せっかく料理作って貰ったのに、感想で『普通に美味しいです』はないでしょ!

駄目だよ、わざわざ料理を作って貰って普通なんて言葉を使ったら。それじゃ女の子から嫌われちゃうよ」

突然の咲の有無を言わさぬような言葉に広司は反論することも出来ず黙ってしまった。しかし確かに広司の発した普通という言葉はこの状況ではかなり不適切だったし思慮が足りないものだった。結局、広司の発したひとつの言葉が原因でせっかくの夕食の場が一転してちょっと重苦しい空気に包まれてしまった。

「まぁまぁ、いいじゃないの何て言ったかなんて。咲だってさっき外で普通の岡田君なんて失礼な事言ってたんだから、お互い似たようなもんでしょ。だから咲もいちいち揚げ足とるような事を言わないの」それまで様子を見ていた清美が咲を嗜めた。

「だけどさ・・・」咲が思わず不服そうな声を洩らした。広司が咲を盗み見るとその表情には明らかに納得出来ない色が浮かんでいた。

「そうだ岡田君、食後はお茶とコーヒーどっちがいい?」

清美はそんな咲の様子など気にする素振りも見せず、素早く席を立つとキッチンに歩いて行った。きっとこんな咲とのやりとりは日常茶飯事なのだろう。

「じゃあ、コーヒーでお願いします」広司が申し訳なさそうに言った。

「コーヒーね」

そう答えながら、清美は慣れた手付きでキッチンの奥にある戸棚からコーヒーカップとインスタントコーヒーの瓶を取り出すとコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、そこに電気ポットからお湯を注ぎコーヒーを作ってくれた。

「岡田君はミルクと砂糖はいる?」カウンター越しに清美が言った。

「いえ、ブラックで大丈夫です」

「そう。ブラックでいいなんて岡田君は大人なのね」

「いや、全然そんな事ないですよ。ただの気分です」

慌てて謙遜するように広司が言った。

「へぇ~、気分でブラックなんて岡田君も変わってるのね。はい、どうぞ。ちょっと熱いから気をつけてね」

清美が淹れたてのコーヒーが入ったコーヒーカップをゆっくりと持って来て広司の前に置いてくれた。

「ありがとうございます」

 お礼を言って清美が淹れてくれたコーヒーを広司が一口飲むと、ブラック独特のコーヒーの豊潤な香りが鼻を抜けていき、すぐに立体的な苦味と酸味が口の中に広がった。そしてそれらはゆっくりと余韻を残しながら消えていった。普段はブラックなど飲まないのに、何故きょうはブラックにしたのだろうか。広司は自分でもその理由を考えてみたけれど、これといってはっきりとした理由は思いつかなかった。

「どう美味しい?コーヒーは?」

隣の咲が機会を窺っていたように広司をまっすぐ見つめながら聞いてきた。その言葉には少し確認を促すような含みのあるニュアンスもあった。

「はい。とても美味しいです」今度ははっきりと広司が答えた。

「そう。そういうことよ」

広司の言葉を聞いて咲は満足したような何ともいえない表情をしていた。

「そういえば岡田君は大学生よね?どこの大学に行ってるの?」

そんな様子を苦笑しながら見ていた清美が聞いてきた。

「えっと、S大学です」

「S大学って、ここからだと多摩川越えて、川崎の生田緑地の山の中にある大学のこと?」

「そうです」

「へぇ、そうなの。で、大学では何を勉強してるの?」

「一応、経済学です」

「経済?また役に立ちそうもない分野を選んだのね」

咲が遠慮なしに言ってくる。

「まぁ、正直そこまで深く考えて進学した訳じゃなくて、とりあえず行けそうな大学があるならって感じでした」

「ふ~ん。そんなもんなんだ」咲は妙に納得した様子だった。

「そういえば、以前家に来た時に配達があるとか言ってたけど、配達のアルバイトか何かしてるの?」思い出すように清美が言った。

「あの時は、ちょうど関東新聞の新聞奨学生で新聞配達をしていたので、すぐに夕刊の配達があったんです」

「え?新聞奨学生って、何なのそれ?」咲が興味を持ったのか食いついてきた。

「まぁ簡単に言うと、学生が新聞社から大学の学費を肩代わりしてもらって、その代わりに新聞販売所で新聞配達の業務をするという制度です」

「じゃあ朝、新聞配達してから大学の授業に出て、それから夕刊の配達もやってたの?」

「そうですね。基本そんな感じです」

「ひゃあ、私には絶対無理だな。そんな生活」咲が驚いたような声をあげた。

「最初はやっぱり大変でしたけど、生活に慣れてくると何とかなるもんですよ人間は。まぁ僕の場合、一年間で新聞奨学生をドロップアウトしちゃったので偉そうなことは言えないですけど・・・」

意外なほど実感のこもった言葉が自然と出てきたことに広司自身も少し驚いた。ただそれは一年間とはいえ、それだけ新聞奨学生の生活が広司の身体に濃密な時間として沁みこんでいる証でもあった。

「それでも一年間も続けたのは偉いわよ」

そう清美が言うと、広司はそんな清美の言葉に救われた思いがした。

「でもさ、そんな生活で、どうやって結衣と出会ったの?」

改めて咲が不思議そうに尋ねた。

「う~ん。まぁ、それは色々あったという事で・・・」

「なによ!はっきりしないわね。もしかして人には言えないようなことでもあったの?」

咲の広司の内面を覗きこむような視線に一瞬ドキリとしてしまい、思わす赤面してしまう。

「いや、そんなことないですよ!だからそれは・・・僕が結衣さんの職場で声を掛けたんです」

「職場ってどこ?」

「狛江駅のオダキュウOXの食品売り場です」

「あっ、そこ私が駅でアルバイト募集の貼り紙見つけて、結衣に教えてあげた所だ。そういえば一年間くらいやってたね」

「え?そうだったんですか?」

「うん。なんか家で暇そうにしてたからね」

「暇そうにしてた・・・」

「でも声を掛けたって、それナンパってこと?」

「ち、違いますよ!ナンパじゃなくて僕の友達が結衣さんの職場で声を掛けたんです」

咲の鋭い言葉に広司は動揺した。

「それをナンパっていうんじゃないの」

あっさりと咲に言われ、返す言葉もなかった。

「・・・まあいいじゃないですかこの話は、言葉の解釈は人それぞれなんですから。それよりさっきの指笛って、あれどうしたんですか?驚いたんですけど」

広司が強引に話題を変えた。

「え?ああ、あれは正面の家の馬鹿犬がいつもうるさいから、試しに指笛を鳴らしてみたのよ。そしたら理由は分からないけど、急に鳴き止んだのよね。だからそれ以来あんまりうるさい時は、指笛を鳴らすようにしてるの」

「へぇ、なんか小説とかの話みたいですね」

「確かにそうね。まあ指笛自体は、高校時代の部活のバスケで練習中とかによく鳴らしてたのよ。こう見えても私、一応キャプテンだったからさ」

 咲が少し自慢げな顔をしたが、不思議とそこに嫌味は感じなかった。

「あと、聞きたいことがあるって言ってましたけど」

広司が咲に一番気になっていたことを尋ねた。

「ああ、それは・・・」

咲がチラリといつの間にかキッチンに移動して洗い物をしている清美を見た。

「岡田君、今何時?」

「え?え~と、八時五十五分です」

広司が腕時計を見ながら言った。

「そう。じゃあ、もう帰らなくちゃいけないわね。せっかくだから私が狛江駅まで送っていくから。駅までの行き方わからないでしょ?」

「はぁ」

「お母さん!岡田君もう帰るって。なんか明日早くから大学の大事な授業があるみたい」

またもや会話が咲のペースになっていた。確かに月曜日から大学の授業があるにはあったが、だからと言ってそれが急ぐ理由にはならなかったし、狛江駅までの行き方もここら辺は新聞配達でかなり回っていたので道順は頭に入っていた。

「そう。もっとゆっくりしていけば良いのに」

キッチンで洗い物をしていた清美が微笑みながら言った。そして、その微笑みと優しい声になぜか広司は後ろ髪を引かれる思いがした。


夜も更けてゆくにしたがって車の交通量もだんだんと少なくなってゆく狛江通りの歩道を広司と咲は狛江駅に向かって並んで歩いていた。並んで歩いていると言っても正確には、咲は白色の自転車を押しながらだったので、広司がその自転車のスピードに合わせていた。

日曜日の夜だからなのか、それとも明日から始まる月曜日に向けて早々に規則正しく早寝をして寝静まっているのが狛江という街の持つ特性なのか、とにかく昼間の喧騒を忘れてしまったように辺りは驚くほどの静寂に包まれていた。そして西河原公園を出るときに見上げた満月はまだ煌々と東の夜空に輝きながら広司と咲を照らしていた。だからなのか時折、すれ違うタクシーのエンジン音がやけに大きく耳に残って鼓膜に響いた。

家を出てから咲は無言で自転車を押しているので、広司と咲の間には二人の歩く足音と自転車のタイヤが回る金属音以外は何も聞こえなかった。咲が自分から誘っておいてなぜずっと無言なのか、その理由は広司には見当もつかなかった。

「岡田君ってさ、煙草吸うの?」

唐突に咲が言った。

「え?あ、はい。一応」

「そう。今、持ってる?」

「はい。持ってますけど」

「それ一本貰ってもいい?」

「あ、はい。ちょっと待って下さい」

意外にも咲が煙草を吸うとは思っていなかったので、内心驚きながらも広司は背負っていた黒のリュックサックの中からマルボロ・ライトとライターを取り出すと、箱から一本を抜き取った。咲は歩みを止めると自転車のスタンドを立て、両手を自由にしてからマルボロ・ライトを受け取った。

「ごめん。火も貰ってもいい?」

「はい。どうぞ」

「ありがとう。家だと煙草は吸えないのよ。お母さんがうるさくて」

少し照れ笑いをするような表情をして咲が言った。

広司が持っているライターを着火させると、何か軽い小さな生物が魔法で消えていなくなるような不思議な乾いた音を立てた。それから咲がくわえているマルボロ・ライトに火を点けるとゆっくりと何かを思い出すように煙が流れ出した。その煙はまるで死んだ肉体から抜け出した魂のように広司には見えた。

 咲は片手にマルボロ・ライトを持ちながら再びゆっくりと自転車を押して歩き出した。そして何か思いを巡らせるように自らが吐き出した煙の行方をぼんやりと見ている。

「・・・一昨年にね、お父さんが死んだの」咲が呟くように言った。

「最初は身体の調子が優れないぐらいだったから、皆もちょっと疲れたぐらいにしか思ってなかったし、お父さん自身もそんなに気にしてなかったの。当時はお父さん仕事も忙しかったから、休みもなかなか取れなくてね。でも、あんまり体調不良が続いたから、不安に思ったお母さんが無理矢理仕事を休ませたの。そしてお父さんを近くの大きな病院まで連れて行って精密検査を受けさせたのよ。そしたら結果は末期の大腸癌だったの」

「癌ですか・・・」

「まぁ、よくある話よね。そこからは癌が全身に転移して、あっという間に死んじゃった」

「そんなことがあったんですか」

なぜ突然、咲がこのタイミングで死んだ父親の話を始めたのか、広司には分からなかったが、何か大切なことを伝えようとする気持ちは理解できた。

「結衣は家族の中では、幼い頃から一番お父さんと仲が良かったから、その分ショックも大きくてね、死んでから暫くの間は、もぬけの殻みたいな状態だったのよ。だからオダキュウOXの食品売り場でアルバイトを始めた時は、正直ホッとしたの。このまま家に閉じこもっていたら、お父さんを追って死んじゃうじゃないかって、本当に心配してたから」

「そんな・・・」広司は展開の速さに理解が追いつけない。

「だからアルバイトを始めて岡田君と知り合って、少しづつだけど元気になっていく姿を見て私は嬉しかったし、今日こうして岡田君と話してみて、結衣が岡田君に惹かれた理由がなんとなく分かった気がしたの」

「理由ですか?」思わず広司が聞き返した。

「そう理由。岡田君あなたお父さんに似てるのよ。それは顔とか体型とかそういう表面的なことじゃなくて、何ていうか喋り方とかちょっとした笑い方とか、全体的な雰囲気がね」

「雰囲気ですか」

「もしかしたら結衣は岡田君の中にお父さんの姿を重ねてたのかもしれない。まっ本当の所は本人に聞いてみないと分からないけどね」

結衣が広司の姿に死んだ父親を重ねていたという事実は少なからぬ衝撃を広司自身に与えた。

「それでね岡田君、ここからは正直に教えて欲しいんだけど、最近の結衣は何かおかしな所はなかった?」

「おかしな所ですか?」

「実を言うとね。つい一ヶ月くらい前なんだけど、結衣と私のふたりで新宿まで電車に乗って買い物に出掛けた時に途中の電車内で急に結衣の様子が落ち着かなくなってね。最初は私も気にしてなかったんだけど、だんだんと動悸も激しくなってくるし、不安になったから、結局途中の駅で一度降りてホームのベンチに座って様子を見てたら元には戻ったんだけど、今までそんな結衣の症状は見たことなかったし、結衣に原因を聞いても分からないの一点張りだったから、やっぱり心配で・・・だから岡田君は最近の結衣に会ってて何かおかしな所を感じなかった?なんでもいいのよ。どんな些細なことでもいいの。今日だってデート中に突然帰ったんでしょ?」

 咲の真剣な眼差しが広司に突き刺さるようだった。

「え~と、そうですね・・・突然帰った理由は分からないですけど、僕が見た限りでは、結衣さんの様子はいつもと変わらなかったと思います」

広司は今日の公園での出来事を咲に告げようかとも考えたが、それはあくまで広司と結衣の間の個人的なことだと判断して控えておいた。

「もし咲が何か治療が必要な病気にでも罹っていたらと思うとやりきれないのよ。でも本人に聞いてもなかなか話してくれないし、だから岡田君なら何か知ってるんじゃないかと思って。やっぱりお父さんのこともあるから、何か前兆みたいなものを感じたら放ってはおけないのよ。ただ、お母さんには結衣のことは黙っているの。憶測で余計なことを言って心配を掛けたくないから。お父さんの時も何だかんだ責任をひとりで感じてたのはお母さんだったから。誰の責任でもないし、誰も悪くなんかないのに・・・」

 咲はそこまで話すと手に持っていたマルボロ・ライトを一口吸ってから、地面に押し付けて火を消すと吸殻をジャージのポケットに入れた。

「ごめんなさいね、勝手に色々と喋っちゃって。岡田君はやっぱり話やすいよ、そういう所もお父さんに似てる」

「はぁ・・・」

広司が頼りない声を出した。その時、電車の通過するエンジン音が遠い海岸から聞こえる波の音のざわめきように聞こえてきた。それを合図に広司と咲が前方を見ると、すでに小田急線の高架が視界に入っている。狛江駅はもうすぐ近くだった。

「さあ、もうこの先の交差点を右にちょっと行けば駅だから、私はここで帰るわ。今日は無理言って夕飯に付き合わせちゃって、ごめんなさいね」

 咲の声が辺りに静かに響いた。

「いえ、なんだかすっかりご馳走になってしまって、あの本当に料理は美味しかったです」

「ふふ、そう。じゃあ、お母さんにもちゃんと伝えておくから・・・あ、そうだ岡田君。何か書くもの、ボールペンとか持ってる?」

思い出したように咲が聞いた。

「あ、はい。ちょっと待って下さい」

リュックサックから広司が筆箱に入れておいたボールペンを咲に渡すと、咲はポケットからレシートらしき紙片を取り出し、そこにさらさらと何かを書き込んだ。

「これ私の携帯電話の番号。何か結衣のことで思い出したら、どんな些細なことでもいいから連絡ちょうだい」咲がその紙片を差し出しながら言った。

「はい。分かりました」

「それじゃ、気をつけて。さようなら」

そう言い終るより前に咲は素早く自転車に乗り込むと、颯爽と狛江通りを戻って行った。その後ろ姿を広司は目で追いながら、今日の出来事が本当は全部夢の中のことなんじゃないか。そんな想いが身体を駆け巡っていた。

             3


平成十二年の四月から岡田広司は私立S大学の経済学部・経済学科に入学した。広司の出身地である長野県塩尻市は晴れた日に周囲の山々の景色を旋回するように見渡せば穂高岳を始めとする北アルプス連峰の山々からぐるりと一周するように美ヶ原高原までを眺望出来る広大な松本盆地の端に位置する自然が豊かな人口六万弱の静かな街だった。江戸時代から中山道の宿として、また現在も名古屋方面と東京方面からの鉄道が交差する交通の要所になっていた。ただ広司が上京するまで塩尻で生活してきた実感としては特に大きな刺激があるわけでもなく、良い意味で何もない街だった。

そんな長閑な塩尻で育った広司は地元の長野県内の高校を卒業後、一年間の予備校生活を経て、大学入学の為に上京した。高校時代は勉強などそっちのけで部活のサッカーに明け暮れ、高校も進学校ではなく普通の公立校だった広司にとって憧れと自由の象徴である大都会・東京の大学に進学することは、塩尻での平凡で単調な生活をまさしく激変させる大きな出来事だった。

広司の家族は両親と兄を含めた四人家族で、両親は共働きだったが平均的な中流家庭であったと広司は思っていた。ただ会社員の父親が広司が大学入学と同時期に定年を迎えることもあり、もし大学進学をするなら関東新聞の新聞奨学生制度を利用しようと安易にも広司は高校卒業時には既に決めていたのだった。憧れと自由の象徴である東京での華やかな大学生活を淡くも期待していた広司は現実の働きながら勉学に励むことになる地味で過酷な新聞奨学生の生活を目の当たりにして、上京早々に現実の厳しさと自分の甘さを痛感することになった。


耳の中をつんざくように響きわたる目覚まし時計のけたたましいベルの音が自分を起こす為の音だと気付くのに広司は少し時間が掛かった。夢の中から現実へと意識を変えながらも、まだ夜明け前の暗い部屋の中では夢と現実の境界線が朧気に揺れているように感じた。

広司は目覚まし時計のベルを止めると無理やり身体を布団から起こし、部屋の電気を点けた。何かを思い出したように部屋が明るくなると、すぐには目がその明るさに慣れずに何度か強く瞬きをし、何冊かの本と布団しかない殺風景な部屋の中にいる自分を改めて確認した。そのまま俯くようにゆっくりと目線を下げると生活の変化にまだ身体が順応しないせいか肌着のシャツは寝汗でぐっしょりと濡れ、ひどく気持ち悪かった。しかし、出勤前は時間があまり無いのでそのまま素早くジャージとウインドブレーカーを着込むと広司は配達の為に部屋を出た。鍵を閉めると同時に隣の201号室に住んでいる裕太も眠そうな顔をして部屋から出てきたところだった。

柏木裕太は広司と同じ年に狛江販売所に配属された同期で、年齢は広司が一つ上だったけれど部屋が隣同士だったので、なぜか不思議とすぐに仲良くなった。彼は音楽の専門学校に通う学生で、見た目は地味な黒髪の広司とは対照的に、ミュージシャン志望らしく短い金髪で両耳には大きいリング型のピアスを付けていた。また目鼻立ちもはっきりしていたから、広司より明らかに存在感があり女性にも好かれた。背は広司より少し低いが、細身なのでギターを持つといかにも様になる。広司にとって裕太は上京してから最初の友達であり、同僚というよりは、むしろお互いの苦しい生活を支え合う同志でもあった。

「おう、岡田、おはよう」裕太が眠そうな声で言った。

「おはよう。今日はちゃんと起きれたじゃん」

 広司が少しからかうような調子で答えた。

「うん、さすがに二日連続で寝坊は出来ないから」

「そりゃ、そうだよ。もう、わざわざ起こしに行くのは勘弁な、俺が店長に文句言われたんだから」

「感謝してますって本当に。今度何か奢るからさ」

「本当に?じゃあ、何奢ってくれるの?」

「う~ん・・・缶コーヒー」

「はぁ?なんだよそれ、適当だなぁ」

「おい、馬鹿にするなよ缶コーヒーを。自慢じゃないけど、俺の婆ちゃんは缶コーヒー婆ちゃんて地元で呼ばれるくらい、毎日必ず健康の為に缶コーヒーを飲んでるだぞ」

 事の真偽とは別によく裕太はわざと話を横道に逸らすようなことを言った。

「缶コーヒー婆ちゃん?なんだそれ」だから広司も適当に答える。

「あ、信じてないだろ?」

「はい、はい。もういいよ」

 呆れたように言葉を発した広司は裕太を追い抜いて階段を降りはじめ、慌てたように裕太も後に続いた。階段を降りると、すぐに駐車場に停めてあるヤマハの配達用カブの濃緑の車体が目に入ってくる。一般の原付カブと違い、新聞配達仕様になっているカブは大きめの前カゴや厚めの緑シートと太いゴムチューブを後ろの荷台に配置していて、暗がりでも異様な存在感を放っていた。だから広司はその姿を見るだけで反射的に新聞配達を意識してしまうのだった。

ゆっくりと二人は、まだ薄暗い中を足早に花荘の駐車場に停めてある配達用カブの所まで行きエンジンを掛け販売所に向かった。広司はカブを走らせながら夜明け前の空をほんの一瞬だけ見上げると、そこには雲ひとつない穏やかな晴れ間が広がっていたが、風を切って顔に感じる空気は四月でもまだ肌寒くて、思わず首をすぼめた。


 午前三時半の関東新聞狛江販売所は、まだ周囲の家々やマンションが夜の帷に包まれている中、煌々と電気をつけて動き出していた。その様子はまるで夜の暗い海で大量の電灯をつけて漁をする漁船のように広司には思えた。広司と裕太は販売所の脇の駐車場にカブを停めるとそんな漁船の網に掛かり、どんどん引き揚げられる魚群のように販売所の中に入っていった。既に中では配送トラックで届けられた今朝の朝刊が所内の中央にある大きな作業台の上に山積みにされ店長や他の配達員達がチラシの折り込み作業を黙々と始めていた。毎日のことだが朝の配達前の販売所内は新聞の擦れる音だけが響いているちょっと異様な雰囲気になっている。だから少し遅れてきた二人もすぐに指サックをつけて作業に取り掛かった。

新聞配達員である広司が出勤して、まずやる作業が前日の夕刊配達後に受け持ちの配達区域の部数分をまとめた折り込みチラシを朝刊に折り込むという作業だった。

この折り込み作業を早く終えないと、それだけ配達に出発する時間も遅くなってしまう。時間との戦いである新聞配達という仕事にとって、それはとても大切な作業なのだが、狛江販売所は曜日によって折り込みチラシの量が変化し、特に週末になるほど折り込みチラシが増え、朝刊自体が重くなった。そんな重い朝刊の扱いにまだ慣れない広司は他の配達員に比べて、折り込み作業にどうしても時間が掛かってしまっていた。

 この日も広司が折り込み作業を終えて配達用カブを店先に持ってきたときには、所内には広司以外はもう誰もいなかった。手際の良い裕太もいつの間にか折り込み作業を終えて出発したようだ。裕太のことだからきっと出発前に広司に何か話かけたと思うが、まだ広司にはそれに応える余裕はなかった。静かになった所内を見渡すとさっきまでの騒がしさがまるで夢の中の続きのような気がする。壁に掛かっている時計を見ると、まもなく午前四時半になろうとしていた。早くしないと夜が明けてしまう。

広司は焦る気持ちを抑えながら素早くカブの前カゴと後ろの配達用シートに折り込み済みの朝刊を載せられるだけ積み込み、シートを落ちないようにゴムチューブで固定すると、ヘルメットを被り、その完全配達仕様になったカブに跨りエンジンを掛けた。ほぼ同時に低いエンジン音が耳の中に流れ込んでくると、息を整える為に深呼吸を一度大きくした。そして、朝刊で重くなったカブを体全体でバランスを取り、勢いよく今日という一日を生きる為に狛江の街に躍り出た。

広司は販売所を出発するとすぐに右折を二回して狛江通りに進入し、クラッチを踏んでギアチェンジをしながらカブのスピードを徐々に上げていった。朝の新鮮な空気を顔にまともに受けると、寒さで思わず身が縮むような心地がした。しかし、今日は天候が晴れているから良い方だった。これが大雨でも降ってコンディションが悪化すると配達の難易度が格段に上がる。

先日も早朝から降っていた大雨の中での配達に広司は本当に心が折れそうになった。自らが雨具を着用しての作業は当然だが、商品である新聞が雨で濡れないように一部づつビニールに入れるという煩わしい作業に加え、新聞をなるべく濡らさない為に一回に運ぶ量を減らすので、その分の作業時間と往復が増えた。しかもその時に広司の運転するカブの前輪タイヤがパンクしてコントロールを失い危うく転倒しそうになるという最悪のアクシデントに遭遇してしまった。運よくパンクした場所が販売所の近くだったので、まずは雨宿りの出来る場所に積み込んだ朝刊を全て降ろしてから、すぐに花荘に戻り、その日は休みで寝ていた先輩配達員の高木を起こしてカブを借りて事なきを得たのだったが、その時ほど予備校にまで通って受験をして大学に入ったのに自分は一体ここで何をしているんだ?という自問自答を繰り返した日はなかった。

新聞配達という仕事は当たり前のことだが、一度配達をスタートさせたら、晴れだろうが雨だろうが暑かろうが寒かろうが一切関係なく自分の配達区域の新聞を配達しないと終了することはない。それは単純だが明快で広司が身をもって学んだルールのひとつだった。

広治は流れてゆく景色を横目で追いながら、この生活が四年間も果たして持続する事が出来るのか不安に包まれたのだった。


関東新聞狛江販売所の一日は朝の配達業務だけではない。朝の配達が終了すると新聞奨学生達は販売所内の簡単なキッチンで食事担当の都並のおばさんが作った朝食を食べて、同時進行で部屋にシャワーがない新聞奨学生は所内にある備え付けのシャワー室で順番にシャワーを浴びた。もちろん広司の住んでいる花荘は風呂・シャワーなど無かったので、配達終了後に部屋から入浴セットを持ってきていたが、シャワーに入るのは先輩からという暗黙のルールがあるため、一年目の広司や裕太はいつも販売所を出るのは最後だった。

慌しく学生達が朝食とシャワーを済ませ、やっと其々の部屋に戻り学校に行き出すと、今度はパートの主婦達が午前中の空いた時間を利用して販売所にやって来て折り込み作業を始める。それは明日の朝刊に折り込む為のもので、販売所自体の儲けはこの折り込みの量によるところが大きいので、作業にはそれなりの時間と人手が費やされた。

正午頃になるとその作業も一段落して束の間の静けさが販売所に訪れるが、再び午後三時には夕刊が到着し、其々の学校から帰ってきた新聞奨学生達が再び配達に飛び出していった。夕刊は朝刊とは違い折り込みもなく、新聞自体も軽く薄いので天気さえ悪くなければ配達は大体一時間程度で終了した。

夕刊の配達が終わると、今度は都並のおばさんが夕食を作ってくれているので、キッチンで夕食を済ませるのだが、最初の頃はおばさん独特の濃い味付けに慣れず苦労したが生活に慣れてくると、そんなことも気にならなくなっていくのが不思議だった。

本来ならそこで一日の全ての作業は終了なのだが、販売所には店番というシステムが存在していた。これは配達ミスで新聞が届いていない場合に該当の家まで夕刊を届けにいくというもので、夜の十八時から二十時まで休刊日を除いた毎日を振り分けて、担当になった新聞奨学生が一人で販売所に残り、その業務に当たるというものだった。

店番になった日は、終了してから部屋に戻り、また翌日の朝には午前三時に起床するという日々の繰り返しがいつの間にか刷り込まれたように広司の日常になっていた。


             4


大学生と新聞配達という両極端な生活の中で結衣という女性との出会いはまるで乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨のように突然やって来た。

梅雨明けはまだ少し先の六月の終わりも近いある日曜日の夕方頃に広司は夕刊配達のない暇な午後の時間を持て余していた。夏の本格的な暑さはまだ少し先だと思うが、肌にはじんわりとその予兆のような湿り気がまとわりついてきた。特にこれといってすることもなかった広司は先輩従業員の高木から貰った十六インチ程の中古テレビの電源を点け、全く興味の湧かない旅番組をひとつの風景として眺めていた。あまりに退屈過ぎてテレビを消して耳を澄ませば、隣の部屋からは裕太がギターを弾く音が聞こえてきていた。そもそも壁の構造が薄い花荘では、そんな音漏れなどは日常茶飯事で下の階のビリヤード場からは常に玉を突いては弾ける甲高い音と客の話し声が漏れ聞こえていた。

ビリヤードにそこまで興味を持っていない広司は、毎日毎日飽きることなくビリヤード場にきて一心不乱に玉を突いている人達が何かに憑かれている人のようにも見えた。目を閉じて音だけ聞いていると、まるで下の階が特殊な新興宗教の道場のように思えてくる。真っ白な広い道場にお揃いの白装束の衣装を着た無表情の老若男女が大勢集まり平伏して座り、祭壇には長髪で髭面の教祖らしき男が大事そうに持った二つの玉を大袈裟に打ち付けている。そして男が打ち付ける度に沸く歓声。ぼんやりとそんな想像の海に浸っていた。

「お~い、岡田!いる?」

激しくドアを叩く音と威勢の良い裕太の声が聞こえ、広司は我に返った。

「はい、はい。ちょっと待ってよ、どうしたの?」

 広司が立ち上がりドアを半分ほど開けると、そこには何か思いついたような顔をした裕太が立っていた。

「ごめん。もしかして寝てた?」

「いや、ぼんやりと考え事してた」

「そっか、あのさ暇だったら、今から駅前のオダキュウOXに行かない?」

「オダキュウOX?なんで?」

「なんで?理由なんてないよ、ただの暇つぶし。岡田も特に予定とかないんでしょ?」

「まぁ特にないけど・・・」

「よし、じゃあ決まりだな。すぐに出れる?」

「え?すぐに?」

「そうだよ、今すぐだよ。だからこうして呼びにきたんじゃん」

裕太の思い付きに広司はいつも振り回されていた。

「ちょ、ちょっと待って。今、準備するから」

そう言った広司は部屋に戻ると、慌てて着替えて部屋を出たのだった。


 新宿駅には高島屋や伊勢丹があり渋谷駅にはマルイやパルコがある。東京には其々の街を代表するような店が其々の駅の近くにはあった。だからこの法則に当てはめて考えると、狛江を代表する店は規模的にも地理的にもオダキュウOXということになる。異論はあると思うが、少なくとも広司はそう思っていた。

 広司と裕太は駅前のフリースペースに各自のカブを停めると、その建造物を二人して見上げた。円筒のような形をした外観のエレベーターホールが特徴的に目に付いた。それがオダキュウOXだった。

 それから裕太が先頭に立って正面扉から店内に入っていくと、まず一番最初に目に付いたのがエスカレーターだった。それは止まることを忘れたように流動的に動き続けていて買い物客を上に下にと忙しなく運んでいた。昇りは一階から五階まで、降りは地下一階までの店内は駅前の商業施設らしく各階が大型デパートのように細かく分類されていて、多種多様な客層に対応出来るようになっていた。

 日曜の夕方だからなのか、狛江駅から降りてくる乗客もどんどん吸い込み店内は思っていた以上に混雑していた。その人垣を掻き分けるように裕太はどんどんエスカレーターを昇っていくと、最上階から適当に店内を回り始め、見終われば下の階に移動するということを繰り返した。ただ何かを買うためではないようで店内をぶらぶらと歩き廻るだけだった。何のためにオダキュウOXに来たのか、裕太が言わない以上広司には見当もつかなかった。

「なあ裕太、暇つぶしって、何なんだよ?」意図が分からず広司が聞いた。

「まぁ、もうちょっと待ちなって」

そう不敵に笑いながら裕太は更に各フロアを回って、適当に店舗を見学しているようだった。そして、ようやく地下一階の食品売り場まで広司と裕太はやって来た。

「よし、じゃあそろそろ行きますか」裕太が口を開いた。

「え?行くって、どこに?」

「もちろん試食品コーナーだよ」

 この時、ようやく広司は裕太がオダキュウOXにわざわざ来た理由を理解した。そもそもは試食品の食べ歩きが目的だったのだ。適当に店内を歩き回っていたのも、そうやって少しでも動いて、空腹感を高める為だったのだろう。

「これ全部タダなんだぜ。凄くね?」

裕太が目を輝かせて言った。

「これのことか。裕太が言ってたのは」

「そういうこと。ここってさ規模の割には試食品が多いんだよ。しかも土日の夕方は特に種類が多くなるんだ」

 いつのまにそんな情報を仕入れてきたのだろうか。裕太は広司と比べて生活の知恵を確かに持っていたし、お金がない広司のような貧乏学生には無料で美味しい物にありつける試食品の食べ歩きは、まさに最適な暇つぶしだった。しかもオダキュウOXの食品売り場の試食品コーナーは、全部で十箇所近くもあり、メインディッシュ、デザート、飲み物、ご飯物から山海の珍味まで種類も実に豊富だった。

「こういう情報とかさ、裕太はどこで知るの?」

「ああ、それはほら。よく朝刊の折り込みチラシの中にオダキュウOXのチラシも入ってるんだよ。配達で余った新聞やチラシをよく持って帰ってきてるからさ」

 なんでもないように裕太は言ったが、自分の身の回りの些細なことからでも情報を集めて自分の生きる力にしようとする裕太と、仕事が大変だとか苦しいとかそんな発想しか出来ない広司とは大きな違いがあるのは厳然たる事実だった。

「ほら!あそこでなんか旨そうなステーキ配ってるから、まず行ってみようぜ」

「おう」

二人は意気揚々として、ステーキの角切りを配っている試食品コーナーに足を向けた。


 人込みの中で初めて彼女を広司が目にした時、広司はそこに視線が釘付けになり、一瞬全てが停止した。動かなかったのかそれとも動けなかったのか自分では判断出来ず、なにか説明の出来ない電流が身体を駆け抜けた気がしたが、それが何を意味するのか、すぐには広司自身にも分からなかった。

 彼女はアルバイトらしく動きやすそうな服装に前掛けエプロンと頭には白い三角巾を着けて、長く真っ直ぐに伸ばした美しい黒髪を後ろで纏めていた。そして飲み物売り場の角のジュースコーナーで、青森県産の津軽りんごで作られた産地直送のりんごジュースを小さな紙コップに入れて、それらをお盆に載せて配っていた。すぐ側には陳列棚の上に綺麗に並べてあるりんごジュースの瓶が派手なポップと共に大量に置かれていた。素肌は白く、化粧はほとんどしていないせいか、東京の人というよりむしろ青森の人と言ってもいいような混じり気のない純粋な雰囲気を漂わせていた。しかしその瞳には、何かを秘めた地熱のような力強さもあるように感じられ、そのギャップが彼女を余計に周囲から際立たせていた。

「おい、岡田!どうしたの?さっきからそんな所で棒立ちになってさ、そこのりんごジュースも飲もうぜ」

 ほぼ全ての試食品コーナーを回って、あれこれと批評をしていた裕太が広司の側に寄ってきて言った。

「え?ああ、そうだな」

 平静を装いながら広司は彼女がお盆を持って立っている場所に近付いた。

「どうぞ、青森直送のりんごジュースです。美味しいですよ」

 彼女がその他の大勢の人と同じように優しい口調でりんごジュースを渡してくれたが、広司はまともに目線を合わせることが出来なかった。

「あ、ありがとうございます」

受け取ったりんごジュースをその場で一口に飲むが味はあまり感じなかった。

「どうした岡田?なんかあった?」

その様子を機敏に感じた裕太が顔を覗き込んで来た。

「いや、なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」

「疲れただけって、試食品コーナー回ってるだけなのに?」

「うん」

「うんて・・大丈夫かよ、本当に。何か魂抜き取られたみたいな顔してるぞ」

「そうかな。自分ではちょっと、顔までわからないよ」

「そりゃ、そうだけど・・・」

 そんな広司の様子を見て、腑に落ちない顔をして裕太が彼女と広司を交互に見比べた。

「ふ~ん。なるほどそういうことか・・・岡田、ちょっと!」

突然、裕太が閃いたような笑顔になり彼女に背を向けて広司を抱え込んで囁いた。

「お前、そこのりんごジュース配ってる彼女に気があるな?なんだ一目惚れか?」

「え?いや、そんなことは・・・」

「いいよ、そんな隠さなくたって。自慢じゃないけどさ、俺はそういうの敏感なんだよ。そんなの岡田の顔見れば分かるって」自慢するように裕太が言った。

「う~ん。そうなのかな」

「それに俺の方が岡田よりは女性に対する経験値は上だろ。まあ、ここは俺に任せとけって、必ず岡田に繋げてやるからさ」

 こちらから頼んでもいないのに裕太が勇ましく言うと、軽い身のこなしで彼女の方に近付いて行った。そしてすぐに何事かを彼女と話し込んでいる。遠くから見ると、二人は初対面の筈なのに昔からの知り合いのように見えるから、裕太の心の距離の縮め方には感心するしかなかった。本当に人の懐に飛び込むのが上手いのだ。

 裕太が言ったように、こと女性や恋愛に関しては裕太の方が広司より一枚も二枚も上手だった。広司が奥手で女性との交際経験がないのに対して、音楽をやっているというアドバンテージはあるものの、人前に出て何かを表現する裕太のような人達は、押し並べてコミュニケーション能力が高く、その証左として実際裕太は地元に彼女がいるし、上京して短期間で出来た女友達も多かった。

「・・・岡田。おい、岡田!聞いてる?」

 はっと我に返ると裕太が彼女の近くから手招きしていた。どうやらこっちに来いということのようだ。指示されたように広司は二人に近付いた。

「えっと、こちら安藤結衣さん。ここの食品売り場でアルバイトやってるんだって」

 裕太が広司に結衣を紹介すると結衣は軽く会釈した。彼女の名前を初めて聞いた広司は、心の中で呪文のように安藤結衣という名前を繰り返した。

「で、こっちが同じ関東新聞販売所で働いている岡田広司くん」

 広司も軽く結衣に会釈したが、上手く目線を合わせることが出来なかった。周囲は買い物客で溢れて騒がしいのに、三人の周りだけが奇妙な沈黙に包まれていた。

「・・・おい、岡田も何か言えよ。せっかく結衣ちゃん仕事中なのに相手してくれてんだからさ」沈黙に焦れた裕太が広司をせっつく。

「ああ、うん。あの安藤さんは、ここで働いて長いのですか?」

「・・・そうですね。まぁ、約一年くらいになります」

 結衣が優しい声で答えた。

「あ、そうなんですか。実は僕たち狛江に来てまだ三ヶ月位で、あんまりここら辺のこと分からないんですよ」

「そうですか・・・あの、もっと話したいんですけど、もう交代の時間なので、すみません奥に戻らないと」

「そうですか。分かりました」

 それから結衣は名残惜しそうにしながらも他にも仕事があるのか、広司に軽く会釈すると人混みの中に入って行ってしまった。結衣との会話は呆気なく終わり、その場には中途半端な余韻だけが残っていた。

「ちょっと、お前なんだよ、あの会話。全然、弾んでなかったじゃん」

 その様子を見た裕太が呆れたように言った。

「・・・いや、でも初対面の人に裕太みたいには話せないよ」

「だとしてもさ、もうちょっと何かあるでしょ?普通さ」

 結局、こうして結衣との初めての会話は終わった。

 

 安藤結衣と初めて出会った日から約二ヶ月近くが経っていた八月のある日の夕方、結衣は予告もなく唐突に広司の前に現れた。その日の広司は夕刊の配達を終えてから店番の担当になっていた。東京はここ数日かなりの猛暑が続いていて、今日も夜になっても昼間と変わらないような蒸し暑さで、冷房が効いた販売所から一歩外に出れば、茹だるような蒸し暑さが広司を辟易させた。

 いつものように十八時から店番を始めて販売所内の端にある電話機の近くの椅子に座って本を読んでいると、三十分程してから再配達の電話が掛かってきた。だから広司は販売所に置いてある大きな地図を使って住所を確認して、早速その家まで夕刊を再配達してきた時だった。カブを販売所の前に停めて、所内に入ろうとすると専業従業員の堀池が広司を待っていたのか、ドアの前に立って煙草を吸っていた。

「おい、岡田。今、安藤さんという女性が、お前を訪ねて来たぞ。知り合いか?」

 堀池が目線を奥に向けるような動きをしながら言った。

「え?女性?どういうことですか?」

訝りながら広司が販売所のドアを少し開けて中を覗くと、そこにはジーパンにTシャツ姿のラフな格好をした結衣が立っていた。広司は驚いて声も出なかった。

「なんだよ、お前も隅に置けないなあ、やっぱりこれか?あんな美人とどこで知り合ったんだよ?え?」

 堀池が煙草の吸い過ぎで黄色く変色した前歯を見せながら、にやけて左手の小指を立てる仕草をしたが、その小指の先が第一関節から欠損していて思わずそこに視線がいってしまった。やはり昔はヤクザだったという噂は本当なのだろうか。

「いや違いますよ。でも、なんでここに?」

 堀池の問いかけはほぼ無視して、ひとり言のように呟いた。

「お前が再配達で、販売所を出た直後に訪ねてきたんだよ。すぐ戻りますよって言ったら、ちょっと待ちますって言うからさ、冷房が効いてる中で待っててもらったんだよ」

 なぜか自分のことのように得意そうな顔を堀池はしていたが、その言葉は広司を通過していくだけだった。

「そうですか。分かりました」

 表面上は努めて冷静な様子を装ってはいたが、ほとんど話したことがないどころか、ほぼ初対面に近い結衣が、急に販売所に来たことに一抹の違和感を感じながらも、それ以上にこれから何かが起こるかもしれない期待感の方が勝っていたのも事実だった。それから緊張した手でドアをゆっくり開けると、結衣の姿が目に入った。

「あ、こんばんわ。岡田さんですよね?」

 弾けるような声で結衣が言った。

「そ、そうです。どうも、あの覚えてますか?六月にオダキュウOXの食品売り場で、ちょっとだけ話したんですけど・・・」

「はい、もちろん覚えてますよ。あの面白い金髪の方柏木さんと一緒にいましたよね?」

面白い金髪とはユニークな発想だと思った。

「あの、でもどうして今日僕が販売所にいるって分ったんですか?」

「実は今日のアルバイト終わりで、店から出てきた所を偶然、面白い金髪の方に声を掛けられて、ちょっと立ち話をしたんです。そしたら今日の十八時から二十時の間なら岡田は店番してるから新聞販売所にいるよって教えてくれたんです」

広司の脳裏に裕太が調子良く笑顔で結衣に話しかける光景が目に浮かんだ。そう言えば、今日休みの裕太は夜から渋谷に音楽のライブに出掛けると言っていたが、広司と結衣を引き合す為に、思いつきで店番の事を教えたのだろう。全く相変わらずの人たらしでお調子者だが、やっぱり憎めない奴だった。

「なるほど、そういうことだったんですね」納得したように広司が言った。

「お忙しい所を勝手に来てしまってすみません。新聞販売所がどんな所なのか興味もあったので・・・何か思ってたより広いですね」

「まぁ、殺風景で何にもないですけど、毎日朝の配達の時だけは人が多くなるし騒がしくなりますね」

「でも新聞配達って、雨が降っても配達には関係ないんでしょう?」

「そうですね。まぁ、でも槍が降ってきたらさすがに中止になるんじゃないですか?」

「え?そうなんですか?槍で中止に?」

 精一杯広司はボケたつもりだったが、上手く伝わらなかったようだ。

「いや、あの槍はさすがに嘘ですよ。冗談です」

「あ、そうですよね。すみません、私そういうのに疎くて」結衣が呟いた。

「いや、謝ることなんてないですよ。僕が勝手に言ったんですから・・・あ、そうだ。もしこの後暇なら、せっかくだし、近くのデニーズでちょっとお茶でもしませんか?」

 この絶好の機会を活かすべく広司は勇気を振り絞った。裕太のアシストを無駄には出来ない。

「え?いいんですか?」

「いいも何も安藤さんが良ければ、僕は基本的に暇なので」

「・・・そうですね。じゃあ、せっかくなので」

 ありがとう裕太!心の中でそう叫びながら広司は結衣を連れてデニーズに向かった。


その日のデニーズは平日の午後九時を過ぎても、一時の涼を求める近所の主婦達や家族連れ、夏休みの暇を持て余している高校生達などで意外な程混雑していた。だからなのか元気な若いウェイトレスや熟年のウェイトレスが忙しなく店内を動き回っていた。少し待たされた二人は若いウェイトレスに奥のテーブル席に案内されたが、そこはちょうど隣の席を主婦達のグループが占拠していて、賑やかな話し声や笑い声がライブ会場のように響き渡っていた。どうやら会話から察するに近くの小学校に通う児童の保護者達のようだった。

広司と結衣は席に着いてからアイスコーヒーを二つ注文した。そしてアイスコーヒーは比較的短時間で熟年のウェイトレスによって運ばれてきた。

「安藤さんは、ずっと狛江に住んでるんですか?」

アイスコーヒーを一口飲んでから広司が聞いた。よく冷えていてなかなか美味い。

「はい。生まれも育ちも狛江です」

「生まれも育ちも狛江・・・」

「岡田さんは?」

「僕の生まれは中南米のグアテマラですね。そこでイタリア人のキリスト教宣教師の両親に拾われて育てて貰ったんです。そこからイタリアのシチリア半島経由の日本という感じです」

広司は賭けに出るように確信犯的に嘘をついた。

「それ、絶対嘘ですよね。さすがに私でも分かりますよ!」

 結衣が微笑みながら言ってくれ、二人の距離感が少しだけ縮まった。どうやら賭けには勝ったようだ。

「あ、やっぱり分かります」広司が笑いながら答えた。

「本当はどこの出身なんですか?」

「長野県の塩尻市という所です」

「塩尻・・・あっそこ一度行ったことあるかもしれないです。家族旅行で松本に行ったことがあって、確か途中にありますよね?」

「あります。あります。松本のすぐ隣なんですよ塩尻は。全国的な知名度は断然松本の方が上ですけど」

「そうなんですか?私地理とかあんまり詳しくないので、すみません、知らなかったです。勉強不足ですね」少し恥じるように結衣が言った。

「いや、そんなことないですよ。熱心な鉄道ファン以外は普通は松本とか塩尻なんてあんまり知らないですから・・・それよりすごい基本的なこと唐突に聞くんですけど、安藤さんて何歳なんですか?」

「えっと、今年で十九歳になりました」

「え?じゃあ、僕の一つ下ですね。僕は六月に二十歳になったばかりなんで」

「・・・あの、岡田さん。せっかくだからもうお互い敬語は止めません?歳も近いですし、あと名前も結衣でいいですよ」結衣の言う通りだと広司も思った。

「・・・じゃあ、結衣ちゃんは、今、好きなこととか何か目指してることとかあるの?」

「う~ん、私は正直、そういうことが無くて、色々迷ってるかな。岡田さんは将来目指してることとかあるの?」

「え?いや、僕も特に決まってないよ。残念ながら」

「でも、新聞配達しながら大学に行ってるんだよね?」

「どうしてそれを?」

「柏木さんがさっき会った時に岡田は大学が休みだからって、言ってたから」

「そういうことか・・・でも、一応大学には籍を置いてるけど、学生らしいことは何もやってないよ。何しろ仕事が忙しくて、大学には単位を取るため卒業のために行ってるだけです。お陰で大学には友達なんていないからね」

「それでも勉強するために大学に通ってるなんて凄いよ。私は高校卒業してからブラブラしてるだけだから・・・」

「でも、ちゃんと食品売り場で働いてるじゃない」広司が言った。

「家にいると余計なことを色々と考え過ぎちゃうから、働いてるだけで、特にしたくてという訳じゃないの」

「でも、そのお陰で裕太と僕は結衣ちゃんに出会えた・・・」呟くように広司が言った。

 それから広司と結衣は夜のデニーズでお互いのことを語り合った。育ってきた環境や現在の状況、そして漠然としている将来について。

 時折、結衣が微笑むと広司には広隆寺の国宝・宝冠弥勒像の特徴的なアーモンドアイとアルカイック・スマイルの微笑みが浮かんだ。当時中学の担任の先生が数ある仏像の中でも特に好きな仏像だと言っていたのが、印象深く記憶に刻まれているからだろうが、どうして結衣と話している最中に、その記憶が甦ってきたのか自分ではわからなかった。きっと記憶の深い部分で宝冠弥勒像の微笑みと佇まいが結衣の醸し出す空気とどこかでシンクロしているからだろう。

「あの、そろそろ私は帰るね、もう遅いから。なんか色々と下らないことばかり話しちゃって、ごめんなさい。でも楽しかった」

 結衣がそう言って広司を見つめた。今度は広司も目を逸らさないで見つめ返した。

「いや、僕こそ結衣ちゃんと話せて楽しかった・・・あの、また今度、こうやって会ったりすることは出来るかな?」

「もちろん。岡田さんと話してると楽しいから」

 こうして広司と結衣はお互いの連絡先を交換して、この日を境に度々このデニーズで会うようになった。次の日の朝、広司は黙って裕太に感謝の缶コーヒーを渡した。


              5


秋の深まりと共にその目と鼻の先には冬将軍が足音を忍ばせてやって来ているようだった。街の至るところにある街路樹も徐々に紅葉が色褪せ始めて、これから迎える木枯らしの季節を人々に暗に示している。広司は大学からの帰り道を自転車を押しながら歩いていると、夕暮れ時の冷たい北風が冬の到来を知らせるように、身体を吹き抜けていき、思わず身を縮めた。そして朝アパートを出る時にすっかりマフラーを忘れてしまったことを改めて後悔した。

安藤結衣と最後に会ってから既に半年以上の時間が過ぎ、季節は十二月になろうとしていた。四月に結衣と西河原公園で会ってからは、その後彼女とは連絡が途絶えており、広司は大学と一人暮らしのアパートとバイト先のコンビニを往復する単調な生活を相変わらず繰り返していたが、いつもふとした瞬間には結衣のことを考えていた。

その日、近くのスーパーで夕食を買ってから、どこにも寄り道せずアパートに向かって坂道を登っていると、ポケットに忍ばせた携帯電話が誰かの着信を受けて振動を繰り返していることに気付いた。最初はどうせまた裕太から飲みの誘いでも来たと思い、高を括っていたら、着信相手は結衣だった。思ってもいなかった相手からの着信に気持ちがついていかず、全身に緊張が走り携帯電話を持つ手に気持ちの悪い汗が滲んだ。

「もしもし、結衣ちゃん?」

 広司の声が緊張で微かに震えた。

「・・・広司くん、あの、久し振り。元気にしてた?」

 結衣の声も心なしか緊張しているようだった。

「うん。もちろん元気だよ、結衣ちゃんの方は?」

「私はそうね。実は少し体調を崩してたの」

「体調を?」いつかの咲の言葉が蘇ってきた。

「そう。まぁ、話すと少し長くなるんだけどね」

「そっか・・・でも、今日はどうしたの?」

「あの、直接会って話したいことがあるんだけど、明日の夜は時間あるかな?」

「明日は・・・大丈夫だよ。授業は午前中だけだし、その後の予定なんてそもそも無いから」広司が少し自虐的に言った。

「良かった。突然電話しちゃったから、無視されたり断られたりしたら、どうしようかと思ってたの。前の時も私から誘っておいて、私が勝手に帰えちゃったし・・・広司くん怒ってるでしょ?」

「いいんだよ、もうそんなこと。それより会うって、場所と時間はどうするの?」

 広司が念を押すように聞いた。

「そうね・・・明日の夜十七時に場所は四月と同じ西河原公園のあのベンチでどうかな?」

「いいよ。分かった」

「じゃあ、明日またね」

「うん。それじゃ」

 通話は不自然なほど唐突に切れ、結衣の言葉の亡骸がその場に残っていた。


 十一月の西河原公園は四月に来たときよりもずっと寂しい印象を受けた。それはきっと、四月は生命力溢れる桜が咲き誇り、それに引き寄せられるように元気な子供たちが遊び回っていたからだと思う。しかし、今の公園は閑散としていて、生命の躍動は微塵も感じられなかった。広司は約束の時間より十五分ほど早く到着してしまったが、結衣の姿は見当たらなかった。約束のベンチに座り、広司は結衣が話したいということについて、あれこれと想像を膨らませる。しかし、いくら想像してみた所で、彼女の考えを完全に理解することなど不可能なのだ。だから諦めてひとりベンチに座り、目を閉じて結衣を待つことにした。

「ごめんなさい。待った?」

それから何分後かにその声は広司の耳に届いた。結衣の筈だが、その確信はない。このまま目を閉じたまま、いっそ違う世界に入り込んでしまったら、そんな安易な想像をしてしまう。

 広司はゆっくりとその声の方に目を開けてみた。そこには確かに結衣が立っていた。それは間違いない。しかし、自分の中にあるイメージと現実の結衣の姿には微妙な誤差が生じていたが、その正体がすぐにはわからず広司は混乱した。そしてやっと気付く。黒髪だった。あの長く美しい肩まであった黒髪が、今はバッサリと切り落とされ左右の耳が完全にその姿を表に出していた。

「結衣ちゃん、髪切ったんだね」

 それが最初に出てきた言葉だった。

「うん。なんか邪魔だったから、お姉ちゃんに切ってもらったの。どう似合う?」

「・・・そうだね。似合ってると思うよ」素直にそう答えた。

「今日は昨日突然、電話したのにわざわざ来てもらってありがとう」

 そう言って、結衣はゆっくりと広司の隣に座った。

「いや、いいんだ。そんなこと、それより話したいことがあるんでしょ?」

急だとは思ったが広司は先に進んだ。

「・・・そうね。まず、最初に私は広司くんに謝らなくちゃならないの。四月のあの時、私、他に好きな人がいるって言ったけど・・・」

「裕太・・・」広司が呟いた。

「あれは、本当は嘘なの。ごめんなさい」

「じゃあ、なんであんな嘘を?」

「実は私、病気に罹ってしまったの。それを広司くんに悟られたくなくて、それで・・・」

「その病気って?」

「パニック症って言うんだけど、知ってる?」

「いや、ごめん。初めて聞いた・・・」本当に初めて聞いた病名だった。

「まあ、一種のメンタルを原因とした病気で、分らないことも多いのよ。私の場合も一年位前に電車やバスに乗ってたら、突然息苦しくなることが多くなって、最初はただの気のせいだと思ってたんだけど、だんだん動悸が激しくなってくるし、息も出来ないから、途中で降りることも多くなってしまって、すぐに専門家に診察してもらえば良かったんだけど、私もパニック症についての知識なんてほとんどなかったから・・・」

「症状は自覚していたけど、そのまま放置していたってこと?」

広司が先を読んで答えた。

「広司くんの言う通り。実はあの四月のデートの日も広司くんが飲み物を買い行った時に突然、動悸が激しくなってしまって、でも乗り物に乗っていた訳じゃないから、すぐに治まると思ってたんだけど収まらなくて、焦りからそのまま帰ってしまったの。本当にごめんなさい」

「・・・初めから、隠さずに病気のこと言ってくれれば良かったのに」

 広司の素直な気持ちだった。

「ごめんなさい。素直に言う勇気がなくて、逆にそれがパニック症を悪化させたみたいで・・・」

「専門医の診察は受けたの?」

「うん。姉の咲が私の様子をよく見ててくれて、あれからすぐに病院に引っ張って行かれたの」

「・・・そっか、それは良かった。で、原因はわかったの?」

「いいえ。もしかしたら、死んだお父さんがいなくなったことによるストレスが原因かもとは言われたけど、絶対ではないし・・・この病気は現代に生きる人なら誰にでも起こりうる現代病なんですって、だから、症状が出た人はなるべく早く専門医の診察を受けることが、早く治す第一歩になるらしいのよ」

 そう言った結衣の顔は以前よりも、逞しくなっているように思えた。


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