第三話
グロウズ軍が蹂躙を始めたのは買い物に出かけてある程度時間が経ってからのことだった。一週間分以上のパンなどの食材を抱え込み、足早にレイチェルが市場を去ろうとした瞬間。
悲鳴が上がったのだ。
いいや、これ自体はよくある風景であった。
非常に面白くない現実なのではあるが、一つや二つの悲鳴は日常と同化していた。
けれどもいつもと様子が違ったようにレイチェルは感じた。
様子がおかしい?
早く帰って二人を――。
駆ける。
早く帰ろう。
その一心で。
背中から聞こえる悲鳴は、無情なことに、一つや二つでは収まらなかった。次第に街中へ広がっていく残酷な連鎖。さらに時折聞こえてくる怒号によって、レイチェルの恐怖心はより一層煽られた。
早く。
早く。
早く!
鼻孔を刺激する鉄の香り。
何が起こっているのかレイチェルにはわからない。
しかし早く叔母やクリスの無事を確認したかった。
頭脳を横切る嫌な記憶。
グロウズ軍。
赤い皮膚に、二本の角と緑色の軍服。
屋内で殺された両親。
隠れて震えていた幼い自身。
嫌だ!
嫌だ!
嫌だ!
走る。
記憶を打ち消すために。
よほど全力で走ったのか、気が付くと自宅はもう目の前だった。
見慣れた扉。
だが。
開いている。
高鳴る鼓動。
いつもなら閉じている扉が。
開いている。
押し殺す。
そうするしかなかった。
「無事ですかっ!?」
だがしかし。
そこにあったのは、あるはずのない緑色の軍服の背中。
そして床を占領する赤い液体。
漂う濃厚な、死の香り。
二つの、死体。
日常が。
決定的に崩壊した瞬間だった。
「おっ。まだいたか」
赤い皮膚。
潰れた鼻。
二本の角。
巨大な、身体。
「うわああああ!」
「顔を見るなり悲鳴とは、なんと無礼な奴だ。お前も死刑だな」
お前も。
奴は、『も』と言った。
お前も死刑だな、と。
レイチェルの瞳に、男の背後に横たわる、二つの死体が映った。
顔。
確認、してしまった。
そして男の片手剣から滴る赤い、血。
何が起こったのか、理解してしまった。
レイチェルは踵を返して走り出した。
荷物を放り出して、必死に。
殺される!
殺されてしまう!
ちくしょう!
どうしてこんなことに!
「ちくしょう! なんでだよ! どうして!」
自然と、口から漏れていた。
さっきまで。
さっきまで!
さっきまで笑っていたのに!
叔母の朗らかな微笑み。
クリスの控えめな微笑み。
淡く、脆い、日々。
崩れてしまった。
穏やかな日常が。
グロウズ軍によって。
レイチェルの両親と同じように。
惨たらしく。
下品に。
「待て!」
グロウズ軍。
片手剣。
追いかけてくる。
レイチェルを。
獲物を狩りするがごとく。
常備軍がこうした行動を取ったということは、この街に未来はないということだ。皆殺しにされるのかもしれないし、何かの実験に使われるのかもしれない。生産性がないと判断したのかもしれないし、飽きただけなのかもしれない。詳細はよくわからないが、一つだけわかっている答えがある。
死。
全てのものに。
それが、異形のモンスターで構成されたグロウズ軍の姿であった。
「くっ! どうしてこんなことに……!」
レイチェルは走った。
無我夢中で。
ワラをつかむ思いで。
「おい、いつまで逃げるんだぁ!?」
「鬼ごっこかぁ!?」
下卑た笑い声。
逃げる。
足が、重い。
呼吸が。
それでも。
必死に。
「ちょぉっと話を聞くだけじゃねぇかよ。んなに必死になるなってぇ」
敵。
軍服。
緑色の。
グロウズ軍。
魔王の、手先。
レイチェルは青ざめた。
息が。
もう。
どうする?
どうすればいい?
俺は、どうすれば!?
「クリス……ッ!」
欲しい返事はない。
うつむきそうになる。
叱咤し、前を向く。
走れ!
走れ!
走れ!!
懸命に足を動かしていると、剣戟音が聞こえてきた。
一人の人間と三人のグロウズ軍が剣を持って戦っていたのだ。
両者は互いに剣を持っているのだが、人間が剣を持つことなど日常ではありえない出来事であった。噂に聞く、レジスタンス、というやつなのかもしれない。
こんなヤツがいるから!
怒りがこみあげてくるが、叫び出したい気持ちを抑え込む。
今は非常事態なのだ。
レイチェルは必死に頭を回転させる。
このまま走ると集団にぶつかることになる。上手くいけば命が助かるかもしれない。
さらに思考を研ぎ澄ます。
グロウズ軍は三人が四人に。人間は一人から二人、それも木の棒しか武器を持たないレイチェルが数に入るかどうかも微妙なところだが、人数的には四対二だ。生存の可能性はあるとはいえ、グロウズ軍はたった四人ではない。すぐに増援を呼ばれ、十人、二十人と増えていくことが簡単に考えられる。ほぼ確実に死ぬ。
押し付けるか?
グロウズ軍の目的はこの男だろう。追手を押し付ける事さえできれば、自由の身になれるかもしれない。
本当にそうなのか?
逆に追手が増えることも考えられる。だとすると、待っているのは確実に苦痛の末の死だ。尊厳など何もなく、まるで子供に与えた玩具のごとく、死を撒き散らかすに違いない。
叔母。
クリス。
脳裏を横切る無残な死に様。
どうする?
何が正解なんだ?
前方の戦闘。
後方のグロウズ軍。
レイチェルは選んだ。
前に、進むことを。
理不尽を呪うように、腹の底から熱気を出して。
「うおおおおぉっ!」
「生き残りがいたか!?」
「あんたは!?」
敵の包囲網。
男と背中合わせになり、木の棒を構えようと腰に手を伸ばす。
が、血の気が引いてしまう。
木の棒がないのだ。
どさくさにまぎれて、走っている間にどこかに落ちてしまったのかもしれない。が、あれだけ頼りないと思っていたはずの木の棒のはずが、大切な何かを喪失してしまった感覚に陥ってしまった。
混乱するレイチェルをよそに、男は声を出した。
「連中の目的はコレだ!」
背中越しの圧力。
太くがっしりとした長剣であった。
「コレを持って逃げろ! 俺が道を切り開く!」
なんて勝手な!
言うや否や、男は剣を押し付けてくる。
レイチェルは男の勝手さに腹が立ったが、生き残る術がありそうだと納得させ、剣を受け取った。青く、流麗な、美術品とも思える一振りであった。
「いいか、1、2の3で行くぞ!」
「わかった!」
「1、2の3!」
「おおおおおぉぉぉぉっ!」
男が敵に向かって駆け出した。
敵は円形に二人を囲んでいたために、四人のうちの二人が男に対応しようと動く。
脇にできた隙。
すかさずレイチェルは隙を縫うように包囲網をすり抜けた。
「行け! 希望はそこにあるッ!」
グロウズ軍が慌ててレイチェルを追おうとする。
「ヤツを追え!」
「殺せ!」
後ろは振り返らない。
レイチェルは戦場を駆け抜けた。
理不尽に耐えながら。
「ちくしょう!」
勝手な、あまりにも勝手な世界であった。
「おっと! これ以上は行かせねぇぜ!」
「貴様! よくも!」
背後で発生する罵声。
結局、どこに行けばいいのかもわからないまま、荷物が増えたレイチェルは壊れた日常を踏み抜いていくのだった。