第二話
1時間前。
それはとても平穏な日だった。
自由はないけれど、生活は約束された日常。
レイチェルは落ち着いた毎日に、多少の幸せは感じていた。
「じゃあ行ってきます」
「いつもすまないね」
「いいえ。お互い様です」
叔母との会話。
魔王の支配によって、治安は以前よりも荒れてしまった。常備軍は魔王の手下だ。当然、盗難はよくあることで、強盗や強姦、殺人なども掃いて捨てるほどであり、それらの重犯罪は身近な隣人であった。
ゆえに、たかが買い物一つであっても、現在、一世帯にとって非常に重要な作業であり、男手であるレイチェルはこうした用事を叔父や叔母から任せられることが度々あった。女性が外に出て買い物をすることすら困難な時代なのだ。
「お金はちゃんと懐にしまっておくんだよ? 剣は所持……、できないか。取られちゃったものね。せめて木の棒ぐらいは」
「大丈夫ですよ。剣がなくても戦えます」
「おぉ……、神よ。あんなにも優しかった子が、このような言葉を使わなければならない日がくるとは。あんなことさえなければ」
叔母の嘆き。
慌ててレイチェルはさえぎった。
「叔母さん。それ以上は」
「そうね。誰が聞いているのかもわからないのだから」
「通報されてしまったら……」
「えぇ……。嫌な時代ね……」
「叔母さん」
「あら、ごめんなさいね」
薄く、叔母は笑った。
本当に嫌な時代だ。
けれども心の中では同意しつつ、レイチェルは、極力笑顔を作った。
「行ってきます」
「気を付けていくんだよ」
「えぇ」
「レイ、行くの?」
クリスだった。
叔母の後ろから、レイチェルの声をかけてきたらしい。
不安気に、眉尻が下がっていた。
「早く帰ってきてね」
「大丈夫さ」
肩をすくめる。
「これでも俺、強いんだぜ?」
「でもミコは帰ってこなくなったわ」
ミコライオ。
クリスの、弟。
血の気の多かった彼は、買い物に行ったきり、世界から消えた。
この街ではよくあることだった。
いいや、この世の中、なのかもしれない。
とにかく凶悪な犯罪は誰にでも微笑んでいるのだ。
「俺は帰ってくるよ。必ずね」
「ありがとう」
「私は早く二人に子どもを作ってほしいわね」
「お母さん!」
「叔母さん、俺たち付き合ってもいないのに……」
「いいじゃない。私はね、笑顔を見たいのよ。笑顔は人を誇り高く、強くするわ。クリスだってレイの笑顔、見たいでしょ?」
「それはまぁ……。レイの優しい笑顔は好きだけど……」
「レイもそうでしょ? だから問題なし。さぁ、行っておいで。寄り道せずにすぐに帰ってくるのよ。じゃないとクリスが悲しむわ」
「お母さん!」
「ふふふ。いい顔よ、クリス」
「もう」
長引かせるわけにはいかない。
買い物できる時間だって限られているし、なにより、クリスがへそを曲げてしまったらたまったものではないからだ。そう考えてみると、やっぱり、笑顔は大切なのだなぁ、とレイチェルは一人頷いた。
「では、行ってきます。早く帰ってきますが、二人も気を付けて。叔父さんも仕事が終わればすぐに帰ってきますし、暖かいスープが飲みたいものですね」
「クリス特製の?」
「お母さんったら」
「そうですね。クリス特製の」
真っ赤なクリス。
自然と浮かんだ笑顔から、活力を感じる。
よし、と気合を入れて、扉を開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気を付けてね」
それが、最後の会話になると知らずに。
レイチェルはしっかりとした足取りで歩を進めたのだった。