1 父の提案
初めての社交界は、出足からして失敗だった。
まっすぐな長い髪を高く結い上げ、贅沢にレースのほどこされた淡いピンクのドレスを纏ったアミーリアがしずしずと、きらびやかなホールを一望できる螺旋階段上に現われると同時に、来賓らからはざわりとどよめきが起こった。
「ほう……アディルセン家の箱入り娘がついにお目見えですか」
「今までご領地から出したことがないという、アディルセン卿のたった一人の愛娘ですね。噂どおり、お綺麗だ。顔立ちはお父上似ですかな?」
「金の髪と緑の瞳はお母様ゆずりね。かわいらしいこと」
口々にささやかれる評価は、アミーリアの耳には届かない。口元に淡く浮かべた笑みは実際のところ引きつっていたし、切り揃えた前髪の下、堂々と階下を見下ろしているように見える目尻の吊った大きな瞳も、よくよく見れば瞬きが多く、ちらちらと揺れていた。つまりは緊張していたのだ。
(平常心、平常心よ、アミーリア。観客はジャガイモと思えってクラムが言ってたじゃない……いえ、ニンジンだったかしら? とにかく野菜、あれは全部野菜なのよ……!)
ばくばくと、心臓が激しく音を立てているのがわかる。ドレスの裾を持ち上げる手の平も、手袋の中で汗ばんでいる。けれど大丈夫だ。自分を見つめるあれらは野菜、ジャガイモニンジンあるいは玉ネギ、なんにしろ、臆する必要などない。
言い聞かせ、足を一歩踏み出した。かつて社交界の花と謳われた母と同じように、なるべくふんわりと優雅に、軽やかに、口元には笑みを絶やさずに――。
そうして微笑んだまま、アミーリアはふんわりと優雅に、たっぷりとしたドレスの裾を、思い切り踏みつけた。
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従僕の開いた重そうな扉をくぐり、分厚い絨毯の上をずんずんと進んだアミーリアは、部屋の奥、執務用の大きな机で書き物をしていたエルバートの姿を認めるやいなや、挨拶もせずにこう言った。
「ねえ、父様。何度こうして呼びつけたって、私はお見合いなんてしないわよ」
「……まだ何も言ってないのに察しがいいな、アミーリア。でもな、用件はせめて挨拶のキスくらいしてから切り出しなさい。お父さんはさみしいよ」
「だって父様、こうして私を呼び出すの、もう何度目だと思ってるの?」
「今月だけで五回目だな、たしか」
憤りも露にエルバートに詰め寄るアミーリアに答えたのは、後に続いて部屋に入ってきた痩身の青年、クラムだった。動きやすそうな簡素な衣服に、貴人の護衛の任にある者の纏う、袖に家紋を縫い取った丈の短い上衣を着崩して羽織っている。
「パーティーで階段から転がり落ちるようなドジなお子様に、よくもまあ次々と縁談が湧くもんだ。がんばってんなぁ、お父さん」
毛先の跳ねた黒髪をかきつつ、涼しげな空色の目をつまらなそうに細めてクラムは言う。六年前、『火と棘』に捕らえられたアミーリアを助け出した縁で、そのまま護衛としてアディルセン家に雇われることになったクラムは、現在もアミーリアに対して遠慮がない。
文句を言おうと振り向いたアミーリアより先に、クラムの隣に立つ、あどけない顔に無邪気な微笑みを浮かべた小柄なメイドが口を開いた。
「お嬢様が『もう社交界には出たくない』と別邸にこもってからは十五回目のお話になりますし、ほんとにがんばってらっしゃいますよねー、旦那様。キリもいいので、そろそろ受けてしまえばどうですか? お見合い話のたびにこうして本邸に呼び出されるのも、お嬢様のように暇を持て余していない身としては、仕事に差し障りますし」
「クラム! エフィ! あなたたちねえ……!」
好き勝手なことを言う従者たちに腹を立てたアミーリアはしかし、怒鳴ろうとした言葉をぐっと飲み込んだ。そして腰に手を当てて、三人を見渡しながら宣言する。
「いい? 私はお見合いなんかじゃなくって、私だけの<運命の人>と出会って恋をして、そうして結婚するって決めてるの。結婚っていうのは、父様と母様みたいに、反対されても思いを貫いて、その果てに結ばれるっていう、そういうロマンチックなものなの。お見合いなんかで簡単に相手を決められるものじゃないのよ。わかった?」
背中に下ろした金髪を揺らし、努めて厳かにそう言い放ったアミーリアは、得意げに首を傾げて見せる。だが、返ってきた反応はやはり冷ややかだった。
「貴族としてまっとうなのは見合い結婚だろ。そこのおっさんがイレギュラーなだけで」
「年上の、婚約者のいる美貌のご令嬢に一目惚れして、強引に奪い取ったあげくご婚儀の前に子宝にも恵まれてしまっていましたからねー、旦那様は。結果的には丸く収まったからよかったものの、あまり参考にされるのはどうかと思います」
「……いや、俺も当時は十代だったしな? 娘ができてようやく、義父上が俺を殺さんばかりに怒っていた理由がわかったが……と、まあ、それはそれとして、今はアミーリアの話だ」
ごまかすように咳払いを一つして、強引に話を戻したエルバートは、仕切りなおすように椅子に深く座りなおした。腹の前で指を組み、言い含めるように続ける。
「実際問題、社交界には出ない、見合いは嫌、では、お前の言う『運命の相手』とだっていつまでも出会えないだろう。お前もじきに十六だ。アディルセンの名を継ぐ娘として、婚約者の一人もいないことには、周囲だって落ち着かない。わかるか?」
「それは……わかってるけど……」
エレクトル王国有数の高位貴族であるアディルセン家には、アミーリアを除いて子供がいない。アミーリアの婿とはすなわち、次代のアディルセンの当主となるということだ。世情には疎いアミーリアだが、次々と持ち込まれる見合い話からも、自分の婿の座を得たい若者が多いだろうことはわかるし、それで父が頭を悩ませているのも知っている。だが、やはり<運命の人>と出会って恋をしたいという、自分の夢は諦めたくない。
もごもごと口ごもるアミーリアに、エルバートは不意に表情を緩めた。
「まあ、とはいえ俺もお父さんだ。愛する娘の望むことは、出来る限り叶えてやりたい。というわけで、一つ、いい企画を考えた」
「企画……? またいつもの見合いじゃないのか?」
急に砕けた口調で言ったエルバートに、クラムが怪訝な声を出す。
問いを受けたエルバートは、見せ付けるようにゆっくりと、顔の前に指を三本立てた。
「今回の相手は三人だ。お前を妻に望む三人の貴公子の中から、お前自身が自分にふさわしい相手を選び出せ。名付けて『アディルセンの婿選び』だ。どうだ、アミーリア?」
「婿……選び? 三人の中から、私のお婿さんを……?」
意外な内容に、エルバートの顔をきょとんと見つめ、考える。
――三人の、父の選りすぐったであろう貴公子の中から、ふさわしい相手を探す。アミーリアの<運命の人>を、アミーリアが――自分自身で。
「なんだよ、見合い相手が一人から三人になっただけじゃねぇか。ただの見合いと大して変わらな――」
「――やるわ!」
「……は!?」
企画の内容をようやく理解したアミーリアは、憮然としたクラムの言葉をさえぎって叫んだ。正気かと言いたげな目でこちらを見やるクラムを無視し、顔の前で指を組んで、うっとりと続ける。
「麗しいレディに求婚する複数の貴公子なんて、物語みたいでロマンチックじゃない……!父様、私、その企画に乗ったわ。絶対に<運命の人>を見つけてみせるから、安心して! そうと決まればドレスを新調しなくっちゃ。エフィ、急いで帰って仕立て屋さんを呼ぶわよ! じゃあ父様、今日はこれで失礼するわね、愛してるわ!」
「お嬢様、待ってくださーい。運動不足なんですから、急に走ると転びますよー?」
一息に言い切ったアミーリアは、父の返事も聞かずに扉へ向かい、エフィを伴って慌しく部屋を出て行った。