3 恋の自覚
市街地を馬で駆け抜け、アミーリアは屋敷に逃げ帰った。一人で戻ったアミーリアに目を丸くする門衛に馬を預け、ほとんど走るようにして渡り廊下を進んでいると、いつものテラスに座るユージンとジェラルドの姿が見えた。こちらに気付いたジェラルドが、切れ長の黒い瞳を不思議そうに瞬かせ、声をかけてくる。
「アミーリア殿。お出かけになったと聞きましたが、どうかなさったのですか? 顔色が優れないようですが」
「……動かないで下さい、ジェラルドさん。まだ描いています」
「ユージン殿、それどころでは……大体、もう一時間はこうしたままで――」
「動くな」
「…………」
ユージンは部屋の外でも絵筆を握るようになったようだ。がらりと変わる性格は相変わらずのようだが、ずいぶん楽しそうに、生き生きとして見えた。気遣わしげにアミーリアを見やるジェラルドも、優しく不器用で少しにぶい、という隠れた内面を知ったからか、出会った頃よりずいぶんと柔和に、親しみやすく思える。
自分でもわけのわからない、ぐちゃぐちゃな心を持て余した今のアミーリアには、自分の求めるところを知った二人はすいぶんと眩しく見えた。動くに動けないらしいジェラルドと、アミーリアに気付いてもいないユージンに小さく手を振ったアミーリアは、だからテラスに立ち寄ることはせず、廊下を進んで裏庭へと向かった。アミーリア自身も、彼らと同じく、見極めなくてはならないと思ったからだ。自分が何を望んでいるのかを。
花の溢れる中庭や前庭に比べ、裏庭には背の高い木々が多く繁っている。
目の届く範囲に人の居ないことを確かめてから、アミーリアはぽつんと建った東屋にある、木のベンチに腰を下ろした。今はただ、一人でちゃんと、この気持ちを整理したかった。
緩く吹く風に揺れた梢が、さわさわと優しげな音を立てる。こんなに静かな場所に一人で居るのはずいぶんと久しぶりだった。心地良い静けさに満ちた空間にほっとする反面、この風景を分け合う相手が傍らにいないことが、どうしてかとても寂しく思える。それに気付いたアミーリアはゆっくりと目を瞑り、自分自身に問いかけた。
(私は、誰と一緒にここに居たいのかしら。リオなの? それとも――クラムなの?)
言葉にして問えば、考えるまでもなく、答えはするりと落ちてきた。あまりのあっけなさに、アミーリアはがっかりした心地で大きく息を吐く。
(……何でこう、思い通りにいかないのかしら。私がしたかったのは、もっとロマンチックで運命的な、きらきらした恋のはずなのに。それなのに……一緒に居てほしいと思うのはやっぱりあなたなのね、クラム)
結局は、クラムなのだ。口や態度が悪くとも、からかわれて腹が立っても、今までずっとアミーリアの傍らに立ち、手を引いてくれたのは他の誰でもない、クラムだった。
頭が冷えたせいだろうか。心が出した結論を、アミーリアは自分でも驚くほどの素直さで受け入れた。元来、むずかしく考えこむような性分ではないし、気付いてしまえばそれはもう、ずっと前から知っていたことのようにも思えた。
胸にかかっていた靄が晴れ、妙にすっきりした気持ちで、アミーリアはそれでももう一度、未練がましくため息をついた。
(あーあ、でも、せっかく<運命の人>を見つけたのに……。リオは優しいし、格好いいし、私を好きだって言ってくれたのに、どうして今更クラムなのかしら。第一、もう六年も一緒にいるのよ? 気付くなら、もっと早くに気付けばいいじゃないの。本当に、私ってなんだかいつも、間が悪いわ……。これじゃ、クラムにバカにされてもしょうがないわね――って、違うわよ!)
つい反省してしまい、アミーリアは首を振る。この件に関しては、悪いのはアミーリアだけではないのだ。
(大体クラムがいつも私をバカにしたりからかったりばっかりだから、私だって気付けなくって、つまりクラムが悪い――……?)
そこで、アミーリアははたと気が付いた。悪いもなにも、別にクラムはアミーリアに気付いて欲しいなどと思ってはいないだろう。なぜなら、彼はアミーリアの婿候補でもなんでもない、ただの護衛なのだ。前提として、アミーリアを妻に望んでいた候補者を選ぶのとはわけが違う。勝手に選んでみたところで、彼が素直に喜ぶとは思いがたく、皮肉な笑みを返されるのがせいぜいな気がする。それにそういえば、彼はアミーリアがこの『婿選び』で婿を得ることを望んでいたのではなかったか。――それらを総合すると、つまり。
(これは、もしかして……いえ、もしかしなくても――)
至った事実に、アミーリアは愕然と、声に出して呟いた。
「私、クラムに片思いしてるってことなのかしら……!?」
プライドをいたく傷付けられた心地で肩を震わせたアミーリアの耳に、かさり、と芝を踏む音が届いた。はっとして顔を上げると、ちょうど廊下から庭に下ったリオがこちらに歩いてくるのが見えた。
「リオ……」
「よかった。無事に戻ってらしたんですね」
人好きのする笑みを浮かべ、東屋に歩み寄ったリオは、アミーリアの眼前で立ち止まった。
見下ろしてくる琥珀色の瞳に、先ほどの彼の告白を思い出して思わず目を伏せたアミーリアを見て、リオは困ったように眉を寄せる。
「……さっきは、すみません。怯えさせるつもりはなかったんですが、不躾でした。つい、気持ちが逸ってしまって」
「私こそ……いきなり帰ってしまって、失礼だったわ。ごめんなさい」
生真面目に頭を下げてみせたリオに、アミーリアは首を振る。そう、彼は別に、何も悪いことはしていない。アミーリアを喜ばせようと庭園の湖を見せてくれたし、多少強引とはいえ、気持ちを伝えてくれただけだ。
(悪いのは、リオじゃなくて私だわ……)
あんなにはしゃいで<運命の人>を探していたくせに、蓋を開けてみれば、想っていたのは別の人だった、など、笑い話にもならない。自分がそうされたなら、相当に傷付く。
心底申し訳なくなって、ぎゅっと唇を噛みしめる。その表情をどう捉えたのか、リオは慌てたように手を振った。
「あなたが謝ることは何もありませんよ。まあ、あの護衛さんには、ちょっと謝ってほしいですけどね。彼のおかげであなたの唇を逃しましたし――ずいぶん怒られましたしね」
「クラムがあなたに、怒ったの……?」
意外な言葉に瞬けば、リオはつまらなそうに頷いた。
「ええ。ま、いろいろ言ってましたけど、彼の内心を要約すると『俺の女に手を出すんじゃねえ』、ってところですかね。身の程知らずもいいところですが」
「え……!?」
告げられた言葉に、アミーリアの頬はかっと熱くなった。
(ってことは、え? クラムはリオに協力してたわけじゃないってことよね? ということは、もしかして、その……私の片思いって決まったわけじゃないんじゃないかしら!?)
たちまち鼓動が早くなる。
にわかに持ち上がった期待に我知らず頬を緩めたアミーリアを訝しく思ったのか、リオは腰を折るようにして、座るアミーリアの顔を覗き込んだ。
「どうしました? なんだか急に顔色がよくなりましたけど」
「いっ、いえ、なんでもないわ!」
思わず否定してしまってから、アミーリアは思いなおす。なんでもないことはない。リオはアミーリアにきちんと気持ちを伝えてくれたのだ。だから、それに対するアミーリアもまた、誠意をもってリオに答えなければならないだろう。
そう決意したアミーリアは、大きく深呼吸をしてから、前に立つリオの目をまっすぐに見上げて口を開いた。
「……あのね、リオ。私、ずっと<運命の人>を探してたの。『婿選び』のずっと前から、いつか素敵な、私だけの<運命の人>が現われて、そうしたら情熱的でロマンチックな恋が出来ると思ってたの。でも……でもね、私の恋は、そういうものじゃなかったわ」
父と母のような、天啓のように惹かれあって落ちる情熱的な恋も、たしかにある。そういうものだけが恋だと思い、憧れていたけれど、アミーリアが本当に欲しいものは違った。アミーリアの恋は、もっと身近で、地道で、ちっとも華美ではないけれど、それでも強くて暖かいものだった。ちょうど、リオの連れて行ってくれた、あの庭園のような。
「……アミーリア様……?」
驚いたように呟くリオに、なおさら罪悪感が募る。ベンチを立ったアミーリアは、きょとんと目を瞬かせたリオに向かって、勢いよく頭を下げた。
「あの、だから――ごめんなさい! たった今、気が付いたの。私、私ね、好きな人が――」
「――はい、そこまで。顔を上げてください、お嬢様」
「リオ……?」
伏せた頭をぽん、と叩かれ、アミーリアは目を丸くした。
促されるまま顔を上げると、そこには困ったように眉を寄せて笑うリオが居た。
「あなたにそうまで言われては、仕方ない。残念ですが、あなたのことは諦めるほかないようですね」
「……ごめんなさい」
しんみりとした言葉に、また顔を伏せる。そんなアミーリアに、リオは何故か声を上げて笑った。そしてやけに陽気な、楽しげな声で言う。
「だから謝らなくていいよ。君が悪いわけじゃないし――これから謝らなきゃいけないことをするのは、俺の方だからさ」
「――え?」
急に口調を変えたリオを思わずぽかんと見上げたアミーリアの視界が、白い色で満ちる。
相変わらず人懐こい笑顔を浮かべた彼が差し出しているのは、数日前のあの夜にくれたものと同じ、白い一重のマーガレットだった。
「リ……オ……?」
差し出された花からは、ねっとりとした甘い香りが漂っている。その香りが鼻腔に届いたとたんに、頭の芯が、ふわりとした靄に包まれた。ぐらぐらと足元が揺れる。
(……あの時と、同じ――?)
どうして、という声を発する時間もなかった。
力の抜けた四肢が地面に倒れる寸前、アミーリアの意識はかつての夜と同じく、ゆるやかな闇に沈んた。