1 最後の候補
寝不足に目を赤くして、起こされる前に大方の身支度を整えていたアミーリアに、寝室の扉を開けたエフィは驚いたような声を上げた。
「あらあら、お嬢様がこんなに早く自分で起きてるなんて、どうしたんですー? そんなに今日は気合いを入れてるんですか?」
「……ええ、そうよ。だって、リオは最後の<運命の人>候補だもの」
抑えた声で呟くように答えれば、エフィはきょとんと首を傾げた。
「お嬢様? どうしたんですか? 元気がないみたいですけど」
「何でもないわ。いつも通りよ。……それより、リオはどう? もう起きているのかしら?」
「ええ、リオ様はいつも早起きして、お屋敷をあちこち散策していますよ。今朝も早々に起きてらっしゃって、今は厩舎の方にいらっしゃいます。何でも、今日はちょっと遠出をしたいとかで……お嬢様は嫌がると思いますと、お伝えはしたんですけどねー。ああ、でも、クラムちゃんが居れば――……」
「く、クラムの話はしてないでしょ!?」
思わず叫ぶと、怒鳴られたエフィは、冷静な彼女にしては珍しく、驚きを露にぱちぱちと瞬いた。
「お嬢様……? クラムちゃんとケンカでもしたんですか?」
「べっ、べつに、そんなんじゃないわ、いつも通りよ! それより、リオが起きているならテラスに呼んでちょうだい。せっかく早起きしたんだから、時間は無駄にできないわ!」
「はあ……?」
釈然としない顔をしながらも、エフィはアミーリアの言うとおり、リオを呼ぶため部屋を出て行った。パタンと扉が閉まると同時に、はあ、と息を吐く。吐いた息が熱い。きっと、顔もまた、赤くなっているだろう。クラムの名前を聞くだけでこんな風になるなんて、どうかしている。あんな『ごっこ』をしただけなのに。あの後も、クラムはまったくもっていつもの通りに、皮肉な笑みでアミーリアをからかっていたというのに。
(……そうよ、クラムが私をからかうなんていつものことじゃない。<運命の人>だってクラムのいたずらじゃなかったわけだし、別に何も変わってないわ。いつも通りじゃない)
それなのに、昨日のあの『ごっこ』の後から、アミーリアはおかしい。いつもなら、クラムのからかうような態度やバカにした物言いなど、長くとも一晩が過ぎればすぐに忘れられる。けれど、昨日のクラムに感じた気持ちは――<運命の人>に扮した彼に触れられた頬の熱さや鼓動の早さ、じっとアミーリアを見つめるもの言いたげな眼差しは、どうしても頭から離れなかった。
その結果、クラムを追い出した後、部屋に篭城したアミーリアはまんじりともしないまま朝を迎えてしまった。残る、本物の<運命の人>候補であるリオのことなど、少しも考えられないままに。
寝不足の、冴えない顔をした鏡の中の自分を見て、アミーリアはもう一度、大きく肩を落としてため息をついた。ちっともかわいくない。こんな顔では誰にも会いたくなかった。<運命の人>かもしれないリオにも、クラムにも。
(――って、だからクラムは関係ないでしょ!? クラムは私の寝起きの顔から寝顔まで全部知ってるんだから、どんな顔を見られたって今更じゃないの!)
必死で自分に言い聞かせるアミーリアの心とは裏腹に、鏡の中の情けない顔は、ますます赤くなるばかりだった。
エフィに先導され、いつものテラスに赴くと、動きやすそうな衣服と乗馬用のブーツを履いたリオが待っていた。アミーリアを認めた彼は、猫のような琥珀色の瞳をすっと細め、人懐こい笑みを浮かべて立ち上がる。
「おはようございます、アミーリア様。やっと僕の順番が巡ってきましたね。他の男にあなたを奪われてしまうのではと、内心ひやひやしていましたよ」
冗談めかして言いながら、リオは自然な所作で椅子を引いてくれる。
心配そうなエフィに下がるよう促し、引かれた椅子に腰を下ろす。対面に座りなおしたリオは、きょろりと視線をさまよわせ、ふと気が付いたように言った。
「今日は、クラムとかいう護衛さんは居ないんですね?」
「なっ、なんでそんなこと聞くの!?」
リオの口から出た名前に、ぎくりと背中が強張る。
上擦った声で問い返すアミーリアに、リオは不思議そうに首を傾げた。
「なんでって……ほとんどいつも一緒にいるじゃないですか。今日は姿が見えないから、どうしたのかなーと……素朴な疑問というか」
「そそ、そうよね! それだけよね! いつも一緒にいるからよね!?」
「はあ……?」
妙な後ろめたさのまま、そう言い募るアミーリアに目を瞬かせたリオはしかし、少しの間の後で再びにっこりと笑みを浮かべた。
「まあ、それならそれで好都合です。僕のお願いを聞いてくれたのかな?」
「……お願い?」
「ええ、先日、彼と話す機会があったので、お願いしたんですよ。『どうせならお嬢様と二人きりにしてほしい』、とね」
「……そう、だったの……」
普段なら、アミーリアはまだ夢の中にいるような時間だ。起きた頃を見計らって、クラムは部屋を訪れる。今日は何も知らせておらず、だから今、クラムがここに居ないのはアミーリアが避けているせいだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
(やっぱり、クラムは私にちゃんと<運命の人>を見つけて、結婚してほしい……のね)
リオに協力するというのは、つまりそういうことだろう。
そんなことは『婿選び』が始まる前からわかっていたのに、どうしてか今になって、胸にもやもやとした感情が広がる。不可解な感情の名前を見つけられないまま、アミーリアは俯いて黙り込んだ。
「アミーリア様、どうしました? ご加減でも?」
「……っ、いえ、何でもないわ! 大丈夫、元気よ!」
心配そうに問われ、慌てて首を振る。それを見て、リオは安心したように笑った。
「それならよかった。今日はあなたをお連れしたい場所があるんです」
「連れて行きたい場所……?」
「ええ。この館から少し馬を走らせた場所に、開放された庭園があるのはご存知ですか?」
「行ったことはないけど……たしか、父様のお友達の、マクドウェル卿の庭園よね。ご自分の趣味で造園されているとかの」
エルバートに何度か誘われたことがある王都の名所の一つだが、散歩にかこつけて見合いの相手が出てきそうな気配を感じたこともあり、断っていたのだ。
「『婿選び』以降、ずっと館にこもりっぱなしでしょう。庭園は貴族街の端ですから馬を使えば一時間もかかりませんし、護衛の彼が居なくても危険もありません。何かあれば僕がお守りしますしね。どうですか?」
にこにこと、リオは無邪気な笑顔を浮かべている。
その明るい表情をしばらく眺めた後、心を決めたアミーリアは頷いた。
「……わかったわ。行きましょう」
市街地とはいえ、クラムを伴わずに外に出るのは気が進まないが、アミーリアがリオと過ごすことはクラムの希望でもあるのだ。そう遠くに行くわけではないし、何よりリオは捜し求めていた<運命の人>かもしれない。断る理由は無かった。
頷いたアミーリアに、リオはたちまち嬉しそうに破顔して椅子を立った。その笑顔に促されるように、廊下に控えるエフィを呼ぶ。
「エフィ、ちょっと出かけてくるわ。馬に乗るから、靴の準備をお願い」
「お出かけするんですか? じゃあ、クラムちゃんを――」
「――呼ばないで!」
「お嬢様……?」
とっさに叫ぶと、エフィは心配げに眉を寄せた。はっとしたアミーリアは取り繕うように続ける。
「ええと、その……近くだから大丈夫よ。リオも一緒だし、心配ないわ」
「そうですよ、エフィさん。僕が責任もってお嬢様をエスコートしますから」
エフィはしばらく逡巡したが、重ねて言ったリオに圧されたのか、結局は「はい」と頷いて廊下の奥へ姿を消した。
その背中を見送りながら、アミーリアは思う。
(クラムが居たら、きっとうまく考えられないもの。私がいま考えなくちゃいけないのは、リオが<運命の人>なのかどうかってことなんだから。――<運命の人>を見つけることが、私にとってもクラムにとってもきっと、いいことなんだから)
言い聞かせ、隣に立つリオを見る。
視線に気付き、にこりと笑んだ彼の表情にも何故か、胸の靄は晴れなかった。
すでに厩舎と話をつけていたらしいリオは、アミーリアが靴を履き替えるなり、早々に馬に乗せた。アミーリアの後ろに跨り、背中から抱き込むようにして手綱を握ったリオに、戸惑いながら振り返る。
「リオ、私、これでも馬には乗れるわよ?」
「そんな冷たいことを言わないでください。せっかくの口実なんですから」
「……口実? なんの?」
困ったように眉を寄せたリオに首を傾げると、彼はふっと微かな声を上げて笑った。
「あなたを抱きしめるための、ですよ。男というのは案外、奥手なものなんです。大切な女性に対しては特にね」
「そっ……そう、なの……?」
耳元で囁かれ、アミーリアはどぎまぎと視線を馬の鬣のあたりでさまよわせた。そんなアミーリアにもう一度吐息で笑いかけ、リオは馬を歩かせる。
門を出て、豪奢な屋敷が立ち並ぶ石造りの街を横切り、庭園へ向かう。アミーリアを気遣ってだろう、ゆっくり馬を歩かせたリオはあれこれとよく話しかけてくれたが、アミーリアの思考はやはりクラムに戻ってしまう。
(クラムは私を後ろに乗せるのよね……前が見えないのが嫌とか言って。レディは前に乗せるものでしょって怒っても聞いてくれなくて、ちゃんと捕まってろってスピードも結構出して。最初は怖かったけど、結局つられて楽しくなって騒いでいたら、危ないしはしたないってエフィに怒られたこともあったわね)
領地の屋敷では、敷地内に乗馬用のコースがあった。屋敷にこもりがちなアミーリアを、クラムはよくそこへ連れ出した。護身の一環として、馬の乗り方をアミーリアに教えたのも彼だ。逃げ足にもなるし、何もなくても馬上の景色はいいもんだろう、と楽しげに教えてくれた。
(考えてみれば、私の記憶にはほとんど、クラムが居るのね)
愛妻家で子煩悩との評価の高いエルバートだが、やはり父は多忙だった。母は体が弱く、空気のいい地方の荘園で療養していることが多い。物心ついたアミーリアの傍にいつも居てくれたのは、傍仕えであるエフィと、護衛のクラムだった。特にクラムはその仕事柄、屋敷の中でも外でも、いつもアミーリアと一緒だった。クラムが護衛として家に現われてからというもの、幼い頃はよく感じていた寂しさを感じる暇はなかった。からかわれて怒り、たまに褒められれば喜び、結局最後はいつも笑っていたような気がする。
そこまで考えて、アミーリアはようやく気が付いた。さっきからずっと、今もなお、胸にもやもやと渦巻く感情の正体。久しく感じていなかったその感情の名前は、寂しさだ。
(私は、寂しいの……? クラムが私に<運命の人>を見つけてほしいと思ってるのが――クラムが私に、結婚してほしいって思ってることが。そうだとしたら、どうして?)
ちらちらと、答えはもう見えている気がした。昨日クラムに覚えた、胸の高鳴りと頬の熱さの理由もそこにあるように思えた。その先にあるものを知りたい。昨日のアミーリアは、たしかにそう思ったはずだ。
その心のまま、胸の奥にひそむ、未だ知らない感情に手を伸ばしかけたその時、不意に視界が暗く翳った。
「うーん、熱はないみたいですね」
「……リオ? どうしたの?」
探るように額に触れた固い指先に驚き、持ち主に声をかける。
「黙り込んでらっしゃるので、具合が悪いのかと。大丈夫ですか? 馬を止めますか?」
「いえ……大丈夫よ。ごめんなさい、実は昨日、あんまり寝てないものだから」
心配そうな表情に申し訳ない気持ちになって、言い訳じみたことを言ったアミーリアに、手綱を握り直したリオは一転して明るい笑顔を作った。
「そうですか。それは僕のことを考えてくれていたからだって、自惚れてもいいのかな?」
茶化すように言って片目をつむったリオに笑顔を作って見せながら、アミーリアはそうよ、と思いなおした。
(そうだわ。今は、リオについて――リオが私の<運命の人>なのかについてだけ、考えるべきよ。クラムだって、きっとそれを望んでるんだから)
胸にはやはり、ごまかしきれない寂しさがある。
それを努めて心の隅に追いやって、アミーリアは向けられるリオの言葉に答えた。