8 演技
自室に戻ったアミーリアはつかつかと、脇目もふらずにベッドに直行し、勢いよく突っ伏した。清潔なシーツに包み込まれてようやく、深々とした息を吐く。
(結局、ジェラルドも<運命の人>じゃなかったわ……)
それどころか、自覚はないにしろ、彼は彼自身の<運命の人>をもう持っていた。ああして煽ってしまった以上、アミーリアも納得済みではあるものの、結果としては最悪である。
(もう何も考えたくないわ……。まだ夕方だけど、このまま眠っちゃおうかしら……)
しかし、後についてきたクラムはやはり、ふて寝するアミーリアを放っておいてはくれなかった。
「おい、アミーリア。ドレスのまま寝ると、またエフィが怒るぞ」
「怒られたっていいもの……もう何でもいいもの……」
「……何だよ、そんなにへこんでんのか? アミーリア?」
声の調子がいつもより柔らかいのはきっと、事の顛末に同情しているからだろう。そう思えば、なおさら惨めな気分になる。
顔を上げないアミーリアにふっと息をついたクラムは、ガタガタと音を立てて鏡台の椅子を引きずり、衣擦れの音と共にベッドの傍に腰かけた。
「とりあえず起きろよ。ほら、飴やるから」
「…………」
「今ならチョコもつけてやるぞ」
「……もう、うるさいわね! 人を餌で釣ろうとするのはやめて!」
「なんだよ、いらねーのか?」
「…………飴はもらうわ」
「はいはい、どうぞ、お姫様」
「…………」
促され、のろのろと起き上がる。クラムが上着のポケットから出した飴の缶を黙って受け取り、ピンク色の飴玉を選んで口に入れた。ベッドに座り込んだまま、甘酸っぱいそれを口の中で転がしていると、乱れた髪の間から、ぽとりと白い花が落ちてきた。
(さっきジェラルドがくれたマーガレットだわ……)
この花を挿してもらった時には、ジェラルドが<運命の人>ではないか、と、あんなに楽しく浮かれていたのに。たかだか数時間前の出来事がずいぶん遠くに感じられ、アミーリアはもう一度、深々とため息をついた。
「ねえ、クラム。本当に<運命の人>なんて居るのかしら……?」
「何だよ、いきなり」
「だって、ユージンもジェラルドも、私のことなんてまるで眼中になかったもの。私に恋焦がれてる人がいるなんて、とても信じられないわ。あの時、クラムとエフィが言った通り、夢でも見てたんじゃないかしら、って」
すっかりくたびれてしまった花を弄びながら、不安を打ち明ける。するとクラムは呆れたように肩をすくめた。
「夢じゃないだろ。<運命の人>とやらは、花も侵入した形跡も、ちゃんと残してったじゃねぇか」
「それはそうだけど……でも、ぜんぜん見つからないんだもの。もしかして、あの人は<運命の人>じゃないんじゃないかしら。……そうよ、そうだわ。それだったら辻褄があうもの!」
「……どういう意味だ?」
にわかに真剣な顔をしたクラムを、アミーリアはきっと睨みつける。そして、思いついた疑惑を口に乗せた。
「もしかして――<運命の人>は、クラムだったんじゃないの!?」
「…………はぁ!? なに言ってんだお前、起きてるか!? 何で俺がそんなことする必要があるんだよ!」
素っ頓狂な声で否定するクラムに、睨む目の力を強める。
「慌てるところがますます怪しいわ……! どうせまた、エフィと一緒に私をからかおうとかそういう、性質の悪いイタズラなんでしょう!? 白状しなさい!」
「違うつってんだろ、こら、襟首つかむな! あーもうわかった、それじゃあ証拠を見せてやる、<運命の人>を再現してやるよ! それでいいだろ」
「再現……?」
「そ、再現。<運命の人>とやらと同じように喋って、同じように振る舞ってやる。雰囲気や気配は中々ごまかせないからな。やってみりゃ、そいつが俺だったかどうかって、お姫様にもわかるだろ?」
襟首を掴んだアミーリアの指から、握ったままだったマーガレットを抜き取ったクラムは、花を差し向けながら挑発するように口角を上げて笑って見せた。バカにしたような表情に煽られ、たちまち頭に血が上る。
「……いいわ、やってもらおうじゃない……! その代わり、<運命の人>を一挙手一投足、一字一句違わずに再現してもらうわよ!」
「一字一句違わず覚えてるのかよ、お姫様。お勉強は苦手だろ?」
「うるさいわね、大体は覚えてるわよ! いい、教えるわよ……!?」
そうして教えた<運命の人>の台詞と行動に、クラムはたちまちげんなりと、後悔に満ちた顔をした。
□□□
カタン、と窓の鳴る音に、ベッドの中のアミーリアは、ぴくりと瞼を震わせた。
(やっと準備が出来たのね。待ちくたびれたわ)
再現するなら完璧にやってもらわなければわからない、とクラムを部屋から追い出したアミーリアは、自身も<運命の人>が訪れた夜と同じように、ベッドに入って目を閉じていた。さすがに夜着に着替えはしておらず、夕方のため部屋もまだ明るいが、それ以外はほぼ忠実にあの夜をなぞってある。
カチャ、という金属の触れ合う微かな音が、静まった部屋にぽつんと響く。鍵を開けているのだろう。何かと器用なクラムだが、鍵開けまでできるとは思わなかった。クラムは時折、妙な特技を持っている。
(そういえば、<運命の人>だって鍵を開けて部屋に来たのよね……? もしかして一般的なのかしら、鍵を開けられるって。私も練習した方がいいかしら……)
ぼんやり考えていると、ピン、という音と共に、風がさっと部屋に入った。窓が開いたらしい。耳を澄ませて、クラムが近くに来るのを待つ。最初こそ微かな物音と衣擦れが聞こえたが、足音はほとんどしなかった。そのため、アミーリアは内心焦る。
(……いつ目を開ければいいのかしら……!?)
たかが『ごっこ』なのだから適当に開けてしまえばいいと思う反面、こうして状況を整えてしまえば、妙に構えてしまって緊張する。第一、クラムにあれだけ厳命した以上、自分が失敗するのは避けたい。
(大体、なんで足音がしないのよ! ほんとに入って来てるのかしら? 窓の所で私を眺めて面白がったりしてるんじゃないの……!?)
いつまでも感じられない気配に焦り、苛立ったアミーリアは、至った思考に憤然と怒り、ぱちりと目を見開いた。そして視界に広がった空色に硬直する。
「ク、クラム……っ!?」
思わぬ近さにあったクラムの顔に動揺し、脈が早まる。演技も忘れ上擦った声を出すアミーリアに空色の目を数度瞬かせたクラムはしかし、いつもの軽口を叩かなかった。
「……『おや、起こしてしまいましたか』」
「――え?」
クラムらしからぬ穏やかな声音で、囁くように告げられる。近い距離にある顔をぽかんと見やると、クラムは薄い唇に淡い笑みを乗せた。
「クラム……?」
見慣れた顔に見知らぬ表情を浮かべる彼に戸惑い、半身を起こしたアミーリアは思わずぽつりと彼の名を呼ぶ。呼びかけに答えず、ただ優しげに笑みを深めたクラムは細長い指で、そっとアミーリアの口を覆った。
「『怖がらないでください。あなたに危害を加えるつもりはありません』」
「……っ!」
頬に触れる骨ばった、少しだけ荒れている細長い指は、たしかにクラムの物だ。何度も差し出され、強く引っ張って、時折アミーリアの髪をやさしく撫でる、あのよく知った手の平と同じ感触をしている。向けられれば心強く、触れられれば安堵する、あれと同じ物のはずだ。――なのに今、クラムに触れられている頬は、どうしてかとても熱かった。
せわしなく脈打つ胸と熱い頬を持て余し、手に触れたシーツをすがるように掴んだアミーリアの指を、クラムは空いた手の平で包み込むように握った。ぴくりと肩を震わせたアミーリアは、汗ばんだ指の力を、それでもおそるおそる緩める。頬が熱い。脈も早い。どうしてかはわからず、けれどその理由を知りたいと、何故かそのとき強く思った。
力の抜けたアミーリアの手を取ったクラムは、口を塞いでいた指をゆっくり外し、静かに床に膝をついた。瞼を閉じ、続く言葉を言わないクラムに、アミーリアはぽつりと呟く。
「あなたは……誰……?」
問えば、クラムはすっと目を開き、アミーリアをまっすぐに見上げた。気だるげに細められていることの多い涼やかな空色の瞳は、こうして正面から見つめられれば存外に大きく、窓からこぼれる夕日を受けてきらきらと光っていた。その光に思わず見とれた時、彼は不意に口を開いた。
「『あなたを恋い慕うあまり不躾に参上してしまった、哀れな求婚者です。今宵のことは夢と思って――……』」
そこで言葉を止めたクラムは、アミーリアを見上げていた目の力をふと緩めた。
眩しいものを見た時のように微かに瞼を震わせた彼は、やがてゆっくりと、何かを振り切るように目をつむる。
「……夢と思って、お忘れください」
顔を伏せ小さく言ったクラムは、アミーリアの手の甲に顔を寄せ、乾いた唇を一瞬だけ触れさせた。
「――っクラ……きゃっ!?」
掠めるようにして離れた熱を知らず追いそうになったその時、唐突に、視界が白い何かで満ちた。目を白黒させるアミーリアの耳に、一転して軽い声が届く。
「――はい、お疲れさん、お姫様。なかなかの演技だっただろ?」
「……っ、クラム!?」
アミーリアの視界を覆っていたのは、見覚えのある白い一重の花だった。
避けるように花を掴めば、いつの間にやら立ち上がったクラムが、いつもの皮肉な笑みを浮かべてアミーリアを見下ろしている。
「どうだ、お姫様。お探しの<運命の人>は俺だったか?」
「あ……あなたねぇ……っ!」
にやにやと、からかうように笑うクラムに、たちまち頬に血が上る。
「……いいわよ、もう、違うわ、違ったわよ、私の勘違いだったわよ悪かったわね! これでいいんでしょ、わかったらもう出て行って!」
「おい、ちょっと、何だよお前、怒ってんのか謝ってんのかどっちかにしろって」
「そんなのどっちでもいいでしょ、もう、早く出て行ってってば!」
「ちょっ……わかった、わかったから押すな!」
腹立ちのまま怒鳴り散らし、クラムを追い出すようにしてバタンと扉を閉める。
閉めた扉を背に、アミーリアはその場にしゃがみこんだ。抱えた膝に顔を埋め、何なのよ、と蚊の鳴くような声で呟く。
(なんで私、こんなにドキドキしてるのよ……!?)
言葉にして思ってしまえば、なおさら顔が熱くなる。
わけのわからない感覚に、アミーリアは一人、声にならない叫びを上げた。
乱暴に閉まった扉を前に、クラムは深く、大きなため息をついた。胸の中は苦い後悔に満ちている。厚い扉に背中を預け、固く目を閉じたクラムは、力の抜けるままにずるずると腰を落とし、結局廊下に座り込んだ。
(何やってんだ、俺……)
片方だけ立てた膝の上に、ゴン、と額を打ちつける。
<運命の人>の正体がクラムだ、などと妙な邪推を始めたのはアミーリアだ。けれど、あんな挑発をしなくても、疑いを晴らす方法なんて他にいくらでもあった。なのにどうして<運命の人>を再現するなどという、一番まずい方法を取ってしまったのだろう。
今しがたの自分の行動を思い返せば、今更ながら、伏せた顔が熱くなる。何が「あなたを恋い慕うあまり」、だ。恥ずかしい。けれど、そんな茶番を演じることを選んだのは、紛う方なく自分なのだ。全く、わけがわからない。
(……ほんと、何がしたいんだよ、俺は)
けれど、自分に問いかければ、返ってくる答えは明らかすぎるものだった。結局は、そう。諦めきれていないのだ。
わがままで見栄っ張りで内弁慶で、けれど純粋で真っ直ぐなアミーリアに惹かれたのはきっと、守ってくれと言われたあの日が最初だ。本当の名前を捨て、『火の棘』の一員として略奪の片棒を担ぎながら漫然と過ごしていた日々を抜け出すきっかけと、彼女を守るという目的をくれた少女に、クラムは一種の恩義を感じていた。アミーリアを守るという目的を得てからは、大げさでなく、世界の色が変わって見えた。暗澹としていた夜の闇も、希望を浸した静謐な色に見えたのだ。――この感情を覚えるまでは。
(知らなければ楽だったのにな。何で気付いちまったんだろう)
クラムの正体も知らず、無邪気に懐き、頼ってくる妹のようなアミーリアが『妹』でなくなったのはいつだったろう。それはひどく漠然としていて、明確な答えを出すことは出来ないが、おそらくはそう、昼間に語ったキャロルと同じく、いつか訪れる別れの気配を感じ始めた頃だったように思う。子供だとばかり思っていたアミーリアがいつの間にか、ドレスの似合う美しい少女に成長したと気が付いた時、クラムの世界は再度、その色を変えた。
(恋とか愛とか<運命の人>とか。そんな夢物語についてあいつが本格的に騒ぎ始めたのも、その頃だったよな……)
そう遠い過去の話ではないが、おそらくは恋と呼ばれるものであろう感情を自覚してからの日々はひどく疲れるもので、もうずいぶんと長い間、クラムはこうしてアミーリアに振り回されている気がしていた。今まで生きてきた年月の中で、火遊びの一つも覚えなかったわけではないが、嗜好品のようなそれらとアミーリアに抱くこの感情には大きな差異があった。第一、こんな疲れる思いを、誰が好き好んでするものか。恋がしたい、などと言うアミーリアは、果たして彼女の夢見る『恋』が、こんなにままならない、面倒なものだと知っているのだろうか。こんなにも、自分の無力を思い知らされることばかりだと。
(……いや、知らなくていい。あいつはあいつの夢見る『恋』だけを知ればそれでいい。俺はそれを守ってやる、そう決めただろう)
そしてクラムはそのために、暴かなければならないことがあった。<運命の人>――<侵入者>についてだ。
(ジェラルドも違った。なんたって騎士だ、『火と棘』と内通するにしろ奴らが接触するにしろ、危険すぎる職業だろう。第一、女の前で腹芸の一つもできない男が、内通なんて出来るわけがない。――それに、進入路の問題もある)
<運命の人>ごっこのおかげで、<侵入者>が通った道筋を辿ることができた。それだけは収穫だ。
登ってみてわかったが、部屋の窓辺に生えた木はまだ若かった。丈の割に枝は軟いし、よくしなる。潜入に慣れたクラムの痩身を支えるのがやっと、騎士らしく鍛えた体をしているジェラルドが、細い枝を辿って部屋まで登るのは厳しいだろう。
そう考えれば、<侵入者>がアミーリアを攫わなかった理由に合点がいく。あの足場では、二人分の体重は支えられない。
そこでふと気が付いたクラムは、自身の思考に頭を振った。無意識に、アミーリアの言う<運命の人>が、危険な<侵入者>だと決め付けている。その可能性は、おそらくほとんど無いというのに。
(ユージンは違った。ジェラルドも。残る『候補』は一人しかいない。――でも、あいつは違うだろう。少なくとも、<侵入者>ではないはずだ)
腹の立つ成長を遂げてはいたが、それでも疑いたい相手ではない。
まとまらない思考のまま、ふっと息をついて顔を上げたクラムは、自分を追い出したきり物音一つしない室内に、努めていつもの調子で呼びかけた。
「おい、お姫様―。そろそろ入れてくれよ、まだ怒ってんのか?」
「……うっ、うるさいわね、クラムなんかもう、ずっと入れてあげないわよ! ばか!」
上擦った声で返された言葉に、クラムはやれやれと肩を落とした。そんなにクラムが<運命の人>でなかったことが気に入らないのだろうか。偽者でなかったことを喜ぶならまだしも、乙女心というものは、どうにもよくわからない。それとも、単に負けず嫌いなのだろうか。
(あんなに顔赤くして怒ってたもんな……。しばらくはご機嫌ななめだな)
大きな目を丸くして、頬を染め、驚きのためだろう揺れる瞳でクラムを見ていたアミーリアを思い出す。諦めたはずの恋心が疼くような顔だった。怒りのためと知らなければそれは、恋に戸惑う表情にも見えた。
(ま、そんなはずは無いけどな。お姫様にとって、俺は男ですらないみたいだし)
未練がましい自分に苦笑して、クラムは再度、沈黙した部屋に向かって声を投げた。