5 戸惑い
中庭から館の門のある前庭までを一気に走り抜けたアミーリアは、正門にほど近い、小ぶりな噴水の脇に腰を下ろした。鮮やかな色の花がとりどりに咲き乱れる庭園は春めいて明るいが、苛立ちを抱えた今のアミーリアには、その美しさもすっかり褪せて感じられる。
(何でクラムは当たり前みたいにあんなことを言うのよ。いきなり何よ。そんなの私が許すはずないじゃない)
当然の、決定事項のように護衛を辞めると言ったクラムを思い返せば、再びかっと頭に血がのぼる。けれど怒りはすぐに静まり、代わりにアミーリアの胸を占めたのは、もやもやした重苦しい感情だった。慣れない感情を持て余し、花壇の一角をうろうろと歩き回りながら、アミーリアはもしかして、と考える。
(……クラムはもしかして、『婿選び』が始まるって決まった時から、ずっとあんなことを考えてたの? 『婿選び』が面倒で、さっさと私の相手を決めたいのかと思ってたけど、そうじゃなくて……私の護衛を辞めなきゃいけないって思ってたから、あんなに不機嫌だったのかしら)
至った考えに、アミーリアはふっと息を吐く。きっとそうに違いない。そう思えば怒りも苛立ちも萎え、呆れたような、安堵にも似た気持ちだけが残る。
「ばかね、クラムは。変な気を回さなくったって、私がちゃんと父様にお願いしてあげるのに。そうすれば『婿選び』が終わった後も、護衛を辞めたりしなくても平気だわ」
「例えあなたの頼みでも、それは難しいと思いますよ、アミーリア殿」
「……ジェラルド?」
石畳を踏む乾いた音と共に現れたのは、変わらず無感情な顔をしたジェラルドだった。
「いかにアディルセン卿やあなたの信が厚くとも――いえ、それだからこそ、周囲は余計にクラム殿とあなたを勘ぐり、口さがないことを言うでしょう。卿の力は大きなものですが、それでも人の口に戸は立てられません。醜聞は、貴族にとって時に大きな痛手となるものです。卿は冷静な方ですから、家やあなたを守るためにも、そんな危険は冒さないでしょうし――あなたの<婿>もまた、クラム殿の存在を面白くは思わないでしょう」
「……それは、あなたを選んでもそうだって、そういうこと?」
「…………」
淡々とした声で告げるジェラルドをきっと睨みつける。
睨まれてなお、感情の読めない無表情を保ち続けるジェラルドにかえって煽られ、アミーリアは噛みつくように言葉を続けた。
「クラムはね、攫われた私を助けてくれた恩人なの。そりゃ、態度は悪いし口も悪いし私をばかにしたりからかったりばっかりで腹の立つことも多いけど、それでもやっぱり、大切なの。傍にいてくれなきゃ困るのよ」
六年前、『火と棘』の盗賊からクラムと共に逃げ出した後、王都の父の元へ辿りつくまで五日かかった。街道は目立つからと森や林を隠れ進みながら、ろくな食料もないまま子供の足で、いつ追ってくるともしれない盗賊に怯えながらの道筋はとても長く、おそろしかった。それでもアミーリアが歩みを止めずにいられたのは、クラムが居たからだ。夜が来るたびに怯えて泣くアミーリアを、今と変わらない皮肉な言葉でからかい、怒らせてはなだめ、最後には決まって、お姫様は俺が守ってやるからと冗談めかして言って笑った。当時の彼は今のアミーリアより幼く、心細くなかったはずはないのに、そんな不安は一切見せずに。
「……貴族社会において、何の位も持たないものは、やはり信用されません。騎士は、騎士という位によって身の証を立てられるからこそ、貴人の護衛に任じられます。目に見える証というものを、人は必要とするのです」
返ってきた言葉に、アミーリアは唇をかんだ。ジェラルドに背を向けて、花壇にむかってしゃがみこむ。精一杯の拒絶だった。
「クラムには、それがないから駄目だって、そう言いたいのね」
心を落ち着かせるため、手慰みに花を弄びながら堅い声で言うアミーリアに、ジェラルドはこう答えた。
「その通りです。けれど逆に言えば、証さえあれば人はそれを信じます」
「……どういうこと?」
謎かけのような言葉に首をかしげて振り返る。ジェラルドはアミーリアと同じく花壇の前に膝をつき、考えるような間を置いて口を開いた。
「勝手な考えですが――つまり、クラム殿が騎士位を得れば、あなたの護衛を続けることに問題はなくなります。騎士になるには出自も問われますが、アディルセンの後見があれば可能です。もちろん、我がミルズ家も後押しさせていただきましょう」
「それは――あなたは、クラムが私の護衛を続けても、かまわないってこと……?」
「優秀な騎士は何人でもほしい。それは国益にも繋がります。それだけのことです」
ぱちぱちと瞬いた後、ジェラルドの言うところを理解したアミーリアは、いじっていた花を思わずぶちりと引き抜いた。無意識に胸の前に握りしめながら、雷に打たれたような心地で、胸中で大きく叫ぶ。
(この人……いい人だわ……!)
花壇を見つめるジェラルドの横顔は、やはり冷たくも見える無表情だが、よくよく伺えば黒い瞳の奥に灯る光は静かな暖かさを持っているようにも感じられる。淡々とした事務的な口調は、もしかすると照れ隠しだろうか。
じっと自分を見つめるアミーリアに気付いたのか、ジェラルドは気まずそうに目線を下げた。はにかむような仕草に、アミーリアの胸はきゅんと疼く。ジェラルドはやはり、不器用で照れ屋なのだ。そして優しい。そこまで考え、アミーリアははっと気付いた。
(もしかして……ジェラルドが<運命の人>……!?)
とたんに胸が大きく高鳴る。
胸の前で組んだ指の中、むしってしまった白い花をますます強く握りしめたアミーリアに唐突に熱っぽい目で見つめられ、ジェラルドは初めて戸惑った声を出した。
「……あの、アミーリア殿? 花が折れそうですが……」
「え? ――あ、いけない!」
くたりとした花を見て、慌てて力を緩める。目に入っていなかったが、花壇に咲いていた白い花は、<運命の人>がくれたものと同じ、白い一重のマーガレットだった。
アミーリアの指から、元気をなくしたマーガレットをすっと抜き取ったジェラルドは、厚そうな掌に不似合いな細やかな仕草で茎に生えた葉を折った。
「ジェラルド……?」
何をする気かと見守るアミーリアに向けて手を伸ばしたジェラルドは、アミーリアの金色の頭に結んだリボンの結び目に、手にした花を差し挟んだ。そして静かな声で問う。
「この花の花言葉はご存知ですか?」
「……いいえ? 恥ずかしいんだけど、あんまり草花には詳しくないの」
素直に首を振るアミーリアを見て、ジェラルドは微かに口角を持ち上げる。
「『胸に秘めた恋』――というそうです。よくお似合いですよ」
「……っ!?」
柔らかな声音で告げられた言葉に、アミーリアはたちまち顔を赤く染めた。
(ややや、やっぱり、ジェラルドが……!? ど、どうしよう、何を言えばいいかしら、心の準備が……っ!)
あわあわと口を開け閉めするアミーリアに気付いているのかいないのか、再び無表情に戻ったジェラルドは「せっかくですので庭園を案内していただけますか」と立ち上がる。それに何とか頷いて、アミーリアは先に立つジェラルドに続いた。
□□□
「ごちそうさま。それじゃ、また来るよ」
館の一階にある厨房の隣、使用人たちの休憩室から軽快に出てきたのは、候補の一人であるリオだった。意外な場所から出てきた意外な人物に驚くクラムに気付いたリオは、猫のような目を細め、人好きのする笑みを浮かべて近づいてくる。
「やあ。君は、お嬢様の護衛の――クラムって言ったっけ? こんにちは」
「……これは、リオ様。このような場所になんのご用向きでしょうか? わざわざ足を運んでいただかなくとも、お申し付けくだされば――」
「そんな堅苦しいことは無しにしてよ。お嬢様が相手をしてくれなくって退屈だから、ちょっと館を見物させてもらってるだけさ」
「……満足なおもてなしも出来ず、申し訳ございません。主にも申し伝えておきます」
「だから、堅苦しいって。別に嫌味で言ったんじゃないから気にしないでよ。僕もアミーリアお嬢様と同じく、ずっと領地で暮らしていたからね。王都の館は珍しいし、楽しんでるよ。館の人もみんな感じがいいし、メイドさんもかわいいし。今もお菓子をごちそうになっちゃったしね」
「恐れ入ります」
とりあえずの謝辞を告げ、頭を下げる。
やっぱり堅苦しいなあ、と唇を尖らせたリオはしかし、気を取り直したように言った。
「お嬢様は、今日はジェラルドのお相手だっけ? 君は一緒にいなくていいのかい、お目付け役なんだろ?」
「私は護衛であって、目付けというわけではありません。ジェラルド様は騎士ですし、お二人とも庭にいらっしゃることは分かっていますから、私が居らずとも問題はないかと思い、外させていただきました」
実際は、二人の後を追う口実が浮かばなかったのと、追えばまたわけのわからない癇癪を起こしそうなアミーリアをうまく諌める自信がなかったのとで追うに追えなかったわけだが、事実を伝える必要はない。前庭には門番も、巡回の衛兵もいるから人目は多く、何にせよアミーリアに危険は及ばない。下手に首を突っ込めば墓穴を掘ることになるだろう、と、クラムは一旦退くことにした。アミーリアの頭が冷えた頃に迎えにいけばいい。
「ふーん。そんなものかい? けっこう適当なんだね、護衛って言っても」
しれっと答えるクラムの事情を知っているわけではないだろうが、リオはどこか嘲るように口角を上げて首を傾げた。見透かされたような気がして、思わず眉をしかめたクラムに気が付いたのか、「ごめんごめん」と手を振って謝る。
「咎めたんじゃなくて、安心したんだよ。僕の番になった時、君がべったり傍にいるんじゃやり辛いと思ってたからさ」
「候補様はあくまで婿『候補』です。人目を憚るようなことをされては困ります」
「ほんっとに堅苦しいなあ、もう。『婿選び』って厳めしく言ったって、つまるところは誰がお嬢様を落とせるかっていう、色恋の話じゃないか。少しくらいは気を利かせてくれると嬉しいんだけどな」
ひらひらと手を振って立ち去るリオの背中が廊下の角に消えてから、クラムは殺しきれなかった呟きを低く漏らした。
「……ガキが、かわいくない成長しやがって」
ざっくばらんな物言いに悪気はないのかもしれないが、先ほどからのもやもやが募ったクラムには、リオの態度はいちいち癇に障った。
苛立ったまま休憩室の扉を開くと、思い思いに休憩を取る数人の使用人から「お疲れ」と声がかかる。適当に手を上げて答えるクラムの耳に、一際聞きなれた声が届いた。
「クラムちゃん早いじゃない、どうしたのー? お嬢様とジェラルド様は?」
隅の机で茶を飲んでいたエフィが、相変わらず間延びした声で問うてきた。足を向けつつ、ぼやくように言う。
「庭だよ。お姫様がいきなり癇癪起こしてな。俺がいない方がよさそうだから、先に外した」
「あらあら。ジェラルド様相手に癇癪なんて、何があったの? 頭の固そうなお坊ちゃんだものねー、『婿選び』なんてくだらない、とか言われちゃったのかしら? でもそれだったら、クラムちゃんがなだめないとダメじゃないー」
「候補様じゃなくて、俺にだよ。候補様との会話を立ち聞きしたあげく、護衛を辞めるなんて許さないとかなんとか言い始めてさ。そんなの最初っからわかってることだろうに、何を今さら怒ってんだか」
エフィの向かい、簡易な木の椅子にどさりと座り、うんざりと頭をかく。そんなクラムに、エフィはどうしてか呆れた声を出した。
「何言ってるの、クラムちゃん。クラムちゃんこそわかってないわねー」
「わかってないって……何がだよ」
「お嬢様を買い被っちゃいけないわー。婿取りしたらクラムちゃんが護衛をやめなきゃいけないとか、そんなややこしいこと、お嬢様がわかってるはずないじゃない」
「……はぁ!?」
ややこしいも何も、そんなのは少し考えればわかることだろう。いかにアミーリアが世間知らずとはいえ、婿を取る女がいつまでも、若い男を傍に侍らせておけないことくらいは普通――。
そこまで思い、気付きたくないことに気付いてしまったクラムは、深々とため息をついた。……つまりはそう、認識の違いだ。
「……なるほど。お姫様にとって、俺は『男』じゃなかったってことか」
「性別はわかってるとは思うけど、ほとんど家族みたいに育ってきたものねー。お嬢様は鈍いから、仕方ないといえばそうだけど」
「なんっか、こう、何つーか……馬鹿らしくなるな、いろいろと」
クラムが何を思い悩んだところで、アミーリアにとっては結局、クラムは家族の延長線上に居るだけなのだ。それだって軽んじられているわけではないのだろうが、自分の感情とのあまりの差異に、落胆を感じずにはいられない。これではまるで、クラムが一人芝居を演じているようではないか。
脱力し、机につっぷしたクラムを見て、エフィは楽しそうにふふふと笑った。相変わらず人が悪い、と更に肩を落としたクラムの無造作に伸びた黒髪を、慰めるようにかきまぜる。
「お嬢様はね、気付いてないけど、わかってるとは思うのよ。もう少し時間があれば、きっと自分で気付けたわ。でも、ゆっくり大人になるだけの時間は、お嬢様にはなかったのね。……それが残念なことなのか、幸せなことなのかは、私にはわからないけど」
「……エフィ?」
珍しくしんみりとした声で意味深なことを呟いたエフィに顔を上げる。しかし、クラムの目がエフィの表情を捉える前に、慌てふためくメイドの呼ぶ声が部屋に響いた。
「エフィさん、クラムさん! あの、ちょっといいですか」
「なあに? また鳩が逃げたの?」
「……鳩? なんだそれ」
「旦那様との連絡用の伝書鳩が一羽いなくなっちゃったのよー。よく慣れた子だったのに」
唐突な話題に眉をひそめたクラムに、エフィは肩をすくめて答えた。
しかしメイドは「違います」と首を振り、視線を窓の前庭の奥へ向けて言う。
「そうじゃなくて――……門のところに、お客様がお出でなんです」
「……お客様? お嬢様に? 珍しいわね」
アミーリア個人への来客など、王都に来てから初めてだ。ほとんど出歩かないアミーリアは王都に知り合いなどいないし、家絡みでの客ならば、エルバートを通し、事前に約束を取り付けてから訪れる。そもそも今は大々的に『アディルセンの婿選び』が行われている最中だ。余程の用がない限り、来訪は慎むはずなのだが。
顔を見合わせたクラムとエフィに、若いメイドは困り切ったように眉尻を下げた。
「お嬢様にではないんです。その……候補様のお一人の、ジェラルド様に、フィール家のキャロル様とおっしゃるご令嬢が……」
「ジェラルド様に……」
「…………ご令嬢?」
ますます意外な来客に、二人は顔を見合わせたまま、揃って首を傾けた。
□□□
アミーリアのために建てられたこの別邸の庭は美しい。
噴水やアーチを備え、花々の植わる花壇がそこかしこに配置されている。花の種類も多岐にわたり、観賞用のものはもちろん、薬草や香草の類も多く植えられていた。
「ラベンダーは安眠を誘います。香りもいいですしね。体調が優れない時は、マジョラムやローズマリーがおすすめですよ。カモミールやセージ、フェンネル等は美容にもいい効能があるそうです」
言いながら、ジェラルドは庭に植えられたそれらを少しずつ摘みとってはアミーリアに手渡していく。少量ずつとはいえ、数が増えれば量もかさむ。庭園を半分も回らないうちに、アミーリアの両手は摘み取ったハーブでいっぱいになっていた。
「あの、ジェラルド……? 教えてくれるのは嬉しいんだけど、こんなにたくさん採っても、どうすればいいのかわからないわ。私、使い方もあんまり詳しくないの」
にぎわう手の中、どの草がどの名前なのかもすでにわからないアミーリアは、更にハーブを摘み取るジェラルドに遠慮がちに声をかける。すると、ジェラルドははっとしたように動きを止めて後ろに立つアミーリアを振り返り、手の中を見て、ああ、と納得した声を出す。
「――失礼しました。一緒に居るのはあなたでしたね。つい、いつもの癖で」
「いつもの……?」
恥じ入ったようなジェラルドの語尾を拾い、アミーリアは首を傾げた。
「私の幼馴染の屋敷にも、花やハーブの類がたくさん植えてあるんです。彼女にはよく採取を手伝わされるので、ついそこに居ると錯覚してしまった」
「幼馴染……って……その、どこかのご令嬢――なのかしら?」
ふと頭を過った疑問をおそるおそる口に乗せる。
「ええ。古くから懇意にしている、フィール家の令嬢です。あまり社交を好まない、少し変わった女性なのですが、気立てのいい、優しい人ですよ」
「そ、そう、なのね……?」
柔らかな声音で言うジェラルドに、アミーリアはぎくしゃくと頷く。不自然なアミーリアに気付いたのか、ジェラルドは訝しげに瞬いた。
「アミーリア殿? どうかしましたか?」
「ジェラルドは……その人と仲がいいっていうか、その……た、大切に思ってたりとかするのかしら……?」
まさかと思いつつ、勇気を振り絞って問いかける。
緊張するアミーリアに反し、ジェラルドは特に構えることもなく、あっさりと頷いた。
「はあ、まあ。幼馴染ですから」
「いえ、そうじゃなくて、その……女の子として、っていうか……」
「はあ、まあ。キャロルは女性ですから」
「だからそうじゃなくて、女性という前提のもとに大切なのかってそういう……!」
埒が明かない問答に苛立ち、思わず声を大きくしたその時、背後からクラムの声が割り込んだ。
「アミーリア様、ジェラルド様。お話し中に失礼します」
「何よ、クラム! 今はキャロルっていう令嬢について大事な話を――」
「そのキャロル様がお見えです。何でも、ジェラルド様に火急の用があるとか。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「は……?」
思わぬ来客に目をみはったアミーリアは、そのまま視線をジェラルドへ移す。
視線の先のジェラルドはどうしてか、戸惑ったように目を伏せて、手の中に残るハーブを見つめていた。