2 思わぬ特技
昼間とはいえ、訪ねるのは男性の私室だ。貞淑なレディとしては、あまり張り切って訪問するのもはしたない。
というわけで、はやる気持ちを抑えたアミーリアは、先に立つクラムがユージンの部屋の扉をノックするのを後ろで慎ましく見守った。長い指を握り込んだクラムの拳が、二度、三度と扉を叩く。返答はない。
「ユージン様。アミーリア様をお連れしました。……ユージン様?」
外向きの丁寧な言葉で呼びかけるクラムの声にも、扉は開かない。
「……居ないのかしら?」
「こいつから始めるって決めたのはついさっきだろ? なんでわざわざ留守にすんだよ」
「そうだけど……でも開かないし」
「しっ。静かにしろ、何か聞こえる」
こそこそと言葉を交わしている途中、扉の向こうから、ガタンと何かが倒れる音と、ばさばさという音が聞こえた。次いで「あっ!」という押さえた悲鳴も。
「……ユージン様。いらっしゃるのでしたらお開けください。アミーリア様がお待ちです」
黙って顔を見合わせた後、威圧的な声を作ったクラムが重ねて呼びかける。
少しの間の後、観念したように厚い扉が少しだけ開いた。隙間から覗いたユージンの顔の一部は、どうしてか煤のようなもので黒く汚れており、表情もまた普段の穏やかなものとは遠う、慌てきったものだった。
「申し訳ありません、急なお話だったもので、その、部屋が片付かなくて……。もう少しだけお待ちいただければ、お招きできると思うのですが」
切羽詰った声で言うユージンの言葉を受けて、クラムがどうする、と視線で問うてくる。うーん、と考えた末、アミーリアは首を横に振った。好奇心が勝ったのだ。
「アミーリア様はそのままで構わないとおっしゃっていますので、入らせていただきます」
失礼、と強引に扉を開けたクラムに続き、アミーリアも部屋に足を踏み入れた。そして見えた、思いがけない室内の様子に目を丸くする。
まず目に入ったのは、窓際で倒れた高いイーゼルだった。イーゼルは脇に置かれた丸椅子にぶつかったようで、床には長短入り混じった木炭とパンの欠片、汚れた布切れが転がっている。それらを覆うように散らばるのは、白い紙に描かれた、無数のスケッチだった。
「ユージン、この絵、あなたが描いたの?」
「……はい。……その……申し訳ありません」
「何で謝るの? 素敵な趣味じゃない。それにすごく上手だわ!」
床に落ちた絵の一枚を拾い上げ、本心からアミーリアは言った。
部屋の窓から見えたものなのだろう。手の中の絵には、見慣れた中庭が柔らかな陰影で描かれていた。木炭のみの素描だが、春に色付く花々の生き生きとした息吹が感じられるような、温もりのある素敵な絵だ。
思わぬ特技に感心するアミーリアに反し、困ったように眉根を寄せたユージンは、やはり「すみません」と浮かない様子だ。
「本来なら、お招きいただいたお屋敷にこんなものを持ち込むべきではないとわかっているのですが……。部屋も汚してしまって、申し訳ありません」
「だから謝る必要なんてないわ、部屋なんて片付ければいいんだし。それにしても、この絵たち、全部ここに来てから描いたものよね? 本当に好きなのね」
床に落ちた絵は軽くニ、三十枚はありそうだった。彼がこの屋敷へ訪れてまだ数日しか経っていないことを思えば、その枚数はとても多い。
「描いていないと落ち着かないんです。趣味としても度を越している、いい加減にしろと、家族にも注意されているのですが……自分でもどうしようもなくて」
情けない話なので伏せておきたかったのですが、と、小さく微笑んでユージンは言う。
その寂しげな微笑に、アミーリアの胸はきゅんと疼いた。
「わかるわ、その気持ち……! 私も『ろくに外にも出ないくせに毎日違うドレス着たり髪飾りつけたり化粧したりする必要あるのか』ってしょっちゅうクラムに言われてるけど、やっぱりおしゃれはしたいもの!」
「……お嬢様、余計なこと言ってます、落ち着いてください」
「だってクラムはいっつもそうやって私をバカにするじゃない。私はただ、どんな時だってかわいくしてたいだけなのに!」
「あーもう、いいから黙っとけ! 候補様が見てんだろ!」
思わずといった調子で怒鳴られ、双方ではっとする。しまった、つい素に戻っていた。
視線をやれば、ユージンは二人の主従らしからぬやり取りに驚いたのか、目を丸くしてきょとんとしている。
「え、ええとね……? その、クラムとは昔に色々あって、ただの護衛じゃなくってね?」
黙したままのユージンに、呆れられてしまったかと慌て、おろおろ声をかける。そんなアミーリアに、ユージンは小さくふきだした。
「な、何っ!?」
「いえ、すみません。仲がいいんだなと思いまして。お二人を描いたら楽しそうだな」
ひとしきり笑った後、ユージンはやっと明るい声を出した。
嬉しくなったアミーリアは、更に彼を喜ばせようと「それなら」とぽんと手を打つ。
「いま描いてちょうだい? 絵の道具もあるし」
「……え?」
「そういえばクラムと一緒の絵ってなかったし、いい機会よね」
「……いえ、あの、アミーリア様。今のはその、言葉のあやというか、その……僕は画家ではありませんし、ご満足いただける仕上がりになるかどうか……」
「大丈夫。ユージンの絵、私、好きだもの。どんな風に描いてくれるか楽しみだわ!」
「…………あ、ありがとうございます……」
にっこり笑ってお願いすると、やがて根負けしたように肩を落として、ユージンはやっと頷いた。
それでは、と指示する彼に従って椅子に腰掛けながら、アミーリアは胸中で呟く。
(得意なことのはずなのに、やっぱり照れ屋で慎み深いのね、ユージンは。もしかしたら、本当に彼が<運命の人>かもしれないわ!)
そう思い、アミーリアはうふふと笑った。
――だが、数時間も経たないうちに、その笑顔は凍りつくことになる。
□□□
秒針の音がやけに大きく感じられる。
チクタク、チクタクと鳴るその音を、もう何回聞いたのだろう。
窓の外は暗い。ランプの灯る薄暗い室内で、アミーリアはわずかに首を傾け、視線を音の発生源、壁にかけられた時計へちらりと投げた。
「動くな」
とたんに鋭い叱責が飛ぶ。
びくりと肩を震わせたアミーリアを哀れに思ったのか、横に立つクラムが、彼にしては控えめに切り出した。
「あの、ユージン様、とっくに日も落ちましたし、今日の所はこれで……」
「喋るな」
「……はい。すみません」
切って捨てるように命じられ、結局クラムもすぐに退く。
なに謝ってるのよ、と目線だけで文句を言うと、しょうがねぇだろ、とやはり目線だけで返ってくる。しばしにらみ合った後、結局そろって浅く息を吐いた。本当なら思い切り肩を落としたい気分だが、動くとまたユージンに怒られるのだ。仕方ない。
長椅子にねそべるように腰掛けるアミーリアと、横に控えて立つクラムという構図でユージンが絵を描き始めてから、もう随分な時間が経過している。はじめこそアミーリアの「いつから絵を描いているのか」だの「そのパンは何に使うのか」だのといった他愛ない質問にも丁寧に答えていたユージンだが、集中するにつれその口数は少なくなり、ついには問いかけにも答えなくなった。だが、その頃はまだ、アミーリアにも余裕があった。普段の遠慮がちで穏やかな視線ではなく、全てを焼付けようとするような熱っぽい目で自分を見つめ、紙に描きつけるユージンの真剣な横顔に胸をときめかすことすら出来たのだ。
だが、太陽が西に傾き、部屋が赤く染まる頃には、アミーリアはすっかり疲れていた。休憩もなしに同じ姿勢をとり続けるのは辛い。ひじ掛けにもたれた手もしびれている。
もぞもぞと落ち着かないアミーリアに気付いたらしいクラムは、その時もさっきのように――いや、さっきよりは若干堂々と、ユージンに申し出てくれた。
「そろそろ休憩を取りませんか? お嬢様がお疲れです」
「……黙れ」
「はい?」
予想外の返答に、思わずといったようにぽかんと問い返したクラムを剣呑に睨み付けたユージンは、彼らしからぬ低い声で重ねて言った。
「黙れと言っている。モデルになった以上、僕がいいと言うまで動かず喋らず息も殺してそのままでいろ。これは命令だ。いいな」
「あ、あの、ユージン? 私からもおねが――」
「いいな」
「…………はい」
それから更に時は経ち、今はもう、日もすっかり暮れきっている。喉も渇いたし空腹も感じているが、だからといって打つ手はなかった。エフィが夕食にでも呼びに来てくれればいいのにと思うが、気を利かせているのだろうか、この時間までついぞ扉がノックされることはなかった。――となれば、ユージンが絵を描き終わるのを、じっと待つしかない。
結局そこに行き着いたアミーリアは、同じ思考に至ったらしいクラムと、お互いを鼓舞するように静かに頷きあった。
ユージンが二人を解放したのは、それから更に数時間が経過した後だった。