天井裏ネズミ戦争
ぼくが子どものころに住んでいた家の話。
本当に何の変哲もない、どこにでもあるような家だった。一階部分に、それよりも二回り小さい二階部分が乗っかっており、それぞれの屋根は瓦で葺かれている。入り口の門をくぐって左手にある庭は狭く、その狭い庭には、適当な長さに切りそろえられた芝生が敷きつめられていて、その真ん中には物干し台、すみっこの方には物置が設置されていた。
家屋のも、これまた平凡だった。玄関を入って右手前の部屋はリビングで、奥は台所。左側には両親の寝室、和室、あとはトイレとバスルームが並ぶ。直進すると二階に上がる階段がある。八段目の踊り場で折り返し、もう六段上がると子ども部屋と、書斎があるだけの二階に到着する。二階にはトイレはなかったが、たいして不便だと感じたことは無かった。
これ以上は、表も裏もないちっぽけな家でも、人間が気づかないようなミクロな出来事に限って言えば、案外、日常茶飯事として事件というのは起こっているものなのかもしれない。そして、そういうものに気がつくとしたら、やはり子どもだけだろうとぼくは思う。
小学生だった当時のぼくは、そんな非日常の世界を、この家の中でほんの少しだけ垣間見てしまった。
1
夏休みも終盤にさしかかろうというころ、その日のナギは暇をもてあまして、自分の部屋で一日中ごろごろしていた。お気に入りのテレビゲームなどはすでにやり尽くしてしまっていたし、友達の家に遊びに行こうにも、親がお盆休みだとかでほとんどが旅行かなにかで留守にしている。
「ナギもどっか遊びに行けばいいのに」
そう言っていた友人は、泊りがけで山にキャンプに行くらしい。
たしかにナギの父親も家にいることはいる、ずっといる。旅行に連れて行ってくれるどころか、ここ最近働いてすらいない完全な無収入男である。ナギは、真っ黒に日焼けして帰ってくるだろうその友人の白い肌を見て、自分はこの色のままで夏休み明けの学校に来なければいけないのかと憂鬱になった。
「ナギ、いるか?」
その父親が階下から呼ぶ声がする。なんだろうか、どうせろくな用ではないだろう。ナギは放っておくことに決めた。父親とのんきに話をしているほど暇ではないつもりだ。
「宿題はやったのか」
ナギは憤った。五年生の宿題程度なら、もうとっくに済ませてしまっていたし、あの男にそんな心配をされてしまったことが我慢ならなかった。奴には、他にもっとやるべきことがあるはずだろう。もっとも、そのことで喧嘩をすると母が悲しむので面と向かって言うことは出来なかった。迷ったすえにナギはとなりの書斎に逃げ込むことにした。
書斎はすさまじく雑然としていたので隠れ場所にはもってこいだった。部屋中にはさまざまな種類の本が積まれて山となっており、その一部が崩壊し、床はほとんど見えない状態だった。机の上にはパソコンが置かれていた。もう半年も電源を入れていないくせに、あの男はナギがこの機械に触ると烈火のごとく怒り、ときにはナギのゲーム機を庭にほうり投げたりもした。机の下もプリンターが占領していたので、ナギは壁際にいくつも並べられた大き目の段ボール箱の中に身を潜めた。
「いないのか?」
父親は、ナギの部屋と書斎をのぞき、ナギがどちらにもいないのを確認すると、一階に戻っていった。階段を下りる足音が聞こえなくなるとナギは箱から体を出した。何冊もの本の上に立つナギの頭にはすばらしい考えが浮かんでいた。
この部屋を自分の遊び場にしよう。隠れるという行為が引き起こした興奮も手伝ってか、巨大な段ボール箱や重い百科事典などは宝の山に映った。そして何より、仕事場で遊ぶという背徳的な行いがなんとなくあの男への嫌がらせになるではないかと考えた
そうと決まると、ナギはパソコンには触れないように注意しながら、色々な一人遊びを試していった。本をたくさん並べてドミノ倒しをしたり、どう見てもいらないような書類を落書き帳や折り紙の代わりにしたり、段ボールの秘密基地を作ったりした。
しかし、遊び道具の数があまりに少なすぎることや、大きな音を出してはいけないことが最初の熱を冷やし、思ったよりは盛り上がらなかった。また、あまり長くやっていてはばれてしまう危険もあったので、本と段ボール箱で山を作って最後にすることにした。
まず重い本で土台を、次に段ボール箱で大きく階段を作り、最後に軽い本でところどころ細かく調整する。そして頂上まで登ればナギでも天井に手が届くほどの、巨大な山が完成した。
ナギは靴下を脱いで、慎重にその段ボール箱の山を登る。転んで崩しでもしたら一巻の終わりである。山頂に到着するとナギは思わず万歳をした。手が天井に触れる。
奇妙な手ごたえがあった。天井の触れているところに目をやると、そこの板が少しずれている。もう一度触ると、やはり簡単に動かすことが出来た。板と板の隙間からは天井裏のかび臭い空気が漂ってきていた。
ナギは新たに浮かび上がってきた好奇心を抑えきれなくなり、思い切って天井の一部であるその部分の板を持ち上げてみた。思ったよりも軽いその板を天井の内側に押し込んで、できた穴からは天井裏の天井部分、屋根の内側を見ることができた。
なぜか暗くはない。反射しているのではなく天井そのものが光を放っているように感じられた。ナギは急いで床に下りると、もうひとつ適当に段ボールをつかんでもう一度登った。今度は計算どおりに首から上が天井裏に達する高さだった。
そこはさっき見えたように、やはり天井裏と呼ぶには明るすぎた。カーテンを閉めきり光をさえぎってごろごろしていた自分の部屋と同じぐらいの明るさだ、とナギは思った。どうやら壁や天井に光る物質が付着しているらしい。
驚いたことはそれだけではない。あろうことか奥のほうから何者かの話し声まで聞こえてきたのだ。
「スイカズラ、僕はやはり、今攻め込むのは早計すぎるように思うね」
「そうけい? 早計ですって? あらライラック、今が駄目だというのならそれじゃいったい、いつ仕掛けるのが一番良いっておっしゃるつもり?」女の、落ち着きのない声がする。
「まあ落ち着きなさいスイカズラ」三人目が言う。
「よくもそう冷静でいられたものね、スズラン。落ち着けってそれまさか本気で言っているわけじゃあないわよね。あいつは今にもここに乗りこんでくるかもしれないのよ」
「スズラン、僕はあなたの考えが聞きたいな」
「うむ、あまり隠していても仕方がないな。では話そう。だがスイカズラ、あまり驚かないで聞いてくれよ」
「わたしはとっくにいつあいつが来ても良いような心構えをしています!」
「私は、ヒューマウスの力を借りようかと思っている」
「ネズミだ!」
「ヒューマウスだ!」
薄明かりの中、目をこらしてよく見てみると、話しているのは灰色の毛並み、ピンクの手足、細長い顔に出っ歯がついて、おまけに長いしっぽまである紛れもないネズミの三人組だった。ナギが驚愕のあまり大声を張り上げると同時に、三匹はばらばらになって逃げ去っていった。
今のは一体なんだったのか。あまりの事態にナギは、頭の中でサイレンが鳴り響いているような錯覚におちいった。
ひょっとしたらこの穴は天井の穴ではなく、どこか別の場所に通じている穴なのかもしれないと考えたナギは、何度も頭を穴に出し入れしたが、間違いなく現実空間にいるのだという感覚しか得ることができなかった。もちろん絶対に夢なんかではない。
十回ほど天井裏に入りなおしたときにどこかから再び、ネズミが目の前にやってきた。一匹だけである。
「あー、その……君は今、私たちのことを『ネズミ』と呼んだね。まあそれは良いとして……君、私の言っていることが分かるかね?」
声からそれがさっきスズランと呼ばれていたネズミであることが分かる。ナギがうなずくと、頭突きでもされると思ったのか三十センチほど後退した。
「ライラック、やはりこのヒューマウスは私たちの言語を理解するらしいぞ!」
スズランがネズミにしては大きな声で叫ぶと、スズランの後ろにある梁の陰から、ライラックが出現した。どうやらもう一匹のネズミ、スイカズラもそこにいるらしい。
「ねえ、やめときなさいよライラック。いくら話ができるにしたって、ヒューマウスなんかに会ったらきっととんでもないことになっちゃうわ。ひょっとしたら食べられちゃうかも知れないわよ!」
「いや、止めないでくれスイカズラ。大丈夫、ヒューマウスと言っても見たところまだ子どものようだし、もし食べられそうになっても僕のしっぽさばきは……」
「ぼくはネズミなんか食べたりしない!」
ナギが腹を立ててそう言うと、スズランはさらに一メートルばかり背を向けて逃げ出した。ライラックは全身の毛が逆立ちながらも何とかその場に踏みとどまった。
「ほら、本人もああ言ってることだし」
ライラックがナギの方に近寄ってくる。スズランは距離を保ったままで、スイカズラは姿すらあらわしていない。
「君らはいったいなんなんだ? どうしてネズミなのにしゃべってるんだ? しかもなんでよりによってうちの天井裏なんかに」ナギがまくしたてる。
「そのようにいっぺんに聞かれても、相手を困らせるだけだ」スズランがまたナギの前に近寄ってくる。「それにさっきから私たちのことを、ネズミネズミとずいぶんと馬鹿にしてくれているようだが、君だってネズミではないのかね」
「ぼくが? ぼくは、人間だ。どうみても」
「そう人間だ。骨格が巨大で全身に毛が無いだけの、な」
「だけどネズミはしゃべれないじゃないか」
「だけど私たちはしゃべっているのだがね」
ナギはなにがなにやら分からなくなってきた。いくらしゃべることができたとしても、ネズミはネズミではないのか?
「その辺にしておいたほうが良さそうだよスズラン、彼も困っている。僕たちはたしかにネズミなわけだし」
ライラックの言葉から、ナギはスズランが自分のことをからかっていたのだと知った。スズランはフンと鼻を鳴らしてライラックに前を譲った。
「君の名前は?」
「ナギ……」ナギは生まれて初めてネズミに自己紹介した。
「よしナギ、君ここに上がってこられないかな」
ライラックが天井裏のはりの上を示すと、そのはりの後ろから怒声と悲鳴が響いた。
「まて! なにを言っているライラック!」
「そうよ、なに考えてるの!」
二匹の激しい制止の声によって話し合いは一時中断となり、ライラックは作戦会議のためにいったんナギをおいて仲間たちのところに戻った。
「ライラック、あなた少し疲れているのよ。最近いろいろ忙しかったからそりゃあ気苦労もあるでしょうけど、でもやけになるのは感心しないわ」
「僕はやけくそになったわけじゃないよスイカズラ。それと少し声のトーンを落としてくれないか」
「二人ともだ。あの人間にすべて筒抜けになってしまうからな」
スズランの声を最後に、三匹の会話の内容は、ときどきスイカズラがネズミの鳴き声のような悲鳴をあげる以外ほとんど聞こえなくなった。ナギはもう頭を引っ込めて帰ってしまおうかとも考えたが、それはそれでなんだかもったいないような気もしたので、どうしようか迷っているうちに、会議を終えたライラックとスズランが出てきた。スイカズラはやはり姿を見せない。
「では少年、こちらに来たまえ。もっとも君がネズミと同じ土俵に上がりたくないというのなら、別にそのままでも構わんがな」
「いいかげんにしないかスズラン。そもそも人間の手を借りようと言い出したのは君が最初だろう」
「あれは人間の力を利用するという意味だ。私は人間に協力を仰ごうなどと言った覚えはない。しかもそいつは私たちを侮辱したのだぞ!」
スズランはまたしてもその場にいることがたえられなくなり、今度ははりの裏ではないどこか遠くに行ってしまった。
「すまない、ナギ。どうぞあがってくれ」
ナギは腑に落ちないものを感じたが、少なくとも自分の家にどこに入ろうと、特に誰かに許可を得る必要はないだろうと考え、穴の縁に手をかけて体を持ち上げて天井裏に乗り込んだ。予想していたようなほこりやクモの巣などはない。どうやら誰かが定期的に掃除をしているらしい。ナギがはりの上に座るとライラックもその向かいに立った。
「それではナギ、まずは君の質問に答えるとしようか。最初は僕たちがいったいなんなのかだけど、見ての通りのネズミだ。けれど僕たちは自分たちのことをマ族と名づけている。マウスのマだな。まあ君になんと呼ばれようが気にしない」
「わたしは気にする!」
「……じゃあ名前で頼む。僕はライラック、今大声を出したのがスイカズラ、そしてさっきどこかに行ってしまった口うるさいのが……」
「スズランだ。参謀をやっている。以後よろしく頼む」
どうやらスズランはさらに上のはりに登ってしまったようだ。ナギはネズミに見下されているようで気分が悪くなった。
「二つ目の、なぜ僕たちがしゃべることができるのかという質問に答えることは、残念ながら僕にはできない。なぜなら僕たちの耳には、君がマ族の言葉で話しているように聞こえるからだ」
ナギは目を丸くした。いつの間にか自分がネズミ語を使うことができるようになっていたとは知らなかった。
「でもぼくは日本語で話してるつもりなんだけど」
結局、世の中にはさまざまな不思議なことがあるものだということに落ち着いた。スズランは子どもにはあっちの世界とこっちの世界の区別がついていないからだとひとりごとを言った。ナギとライラックは無視することにした。
「最後の質問のこたえ。僕たちがここにいる理由は、これから君に頼むことにも関係があるんだけれど……」
ライラックがそこまで言ったとき、頭上の方からなにやら不穏な物音が聞こえた。またスズランが文句をつけ始めたのかと思ったナギが顔を上に向けると額に、弾力性のあるやわらかい物が落ちてきた。ふわふわしている。ナギが顔を下げると滑り落ちたので、やさしく空中で受け止める。ぬくもりを感じさせるその物体が何なのかを確かめようと手を開くと、そこに見えた物は灰色で全身に毛の生えた、ネズミだった。
ライラックは声にならない悲鳴をあげている。そのとなりにはまた新顔のネズミが、やはり口を大きくあけて腰を抜かしていた。ナギは、おそらくこれがスイカズラだろうと考えた。
「スズラン……?」
どちらかがそういった。ナギは我にかえり、手を床に下ろして持っているスズランを置く。
「スズラン、なんで、あんなところに・・・・・・」スイカズラが短く息を継ぎながら、つぶやくように尋ねる。
スズランの息はそれよりさらに細かい。ナギは額に落ちたときの感触からスズランの骨がいくつか折れているのを知っていた。床に吐き出される血液の量も怪我の状態をものがたっていた。ナギは、自分の手を見ると血がべっとりとこびりついていたので、あわててズボンでぬぐった。
「バカ者どもが……。見張りも立てずに、密談など……」
「スズラン! だいじょうぶか!」
安堵する二匹。しかしスズランは最後の力をふりしぼって上を指し示すと、そのまま気を失ってしまった。ナギが、今までスズランが登っていたはりのあたりを見ると、ライラックたちより二回りは大きい影がこちらをうかがっているのが分かった。
「ナギ、これが最後の答えの代わりといってはなんだが、助けてほしい」ライラックの歯ぎしりの音が大きく鳴る。
「ぼくはなにをしたらいい?」
「あの、あの、あの! ドブネズミをやっつけて!」
スイカズラの依頼にはじかれたように立ち上がったナギは、自分の身長ほどの高さのところにいる敵をわしづかみにしようと手を伸ばした。
つかまえたと思う間もなく、それはするりとナギの手から抜け、はりを伝って壁際に逃げていった。そして二度と戻ってくることはなかった。
「ナギ、奴こそが、僕らがここにいる理由そのものだ」
ナギはネズミを絵本の絵やアニメのキャラクターなどでしか見たことがなかった。それらはたいていが笑っているもので、しかも大きくデフォルメされていた。それでもライラックが泣いていること、その表情が実際のネズミの悲しみの顔であることだけは理解ができた。流れるのは涙ではなく、顔をうずめていたスズランの血だった。
2
それでもスズランは生きていた。ナギは野生のエネルギーを目の当たりにした気がした。安らかに寝息をたてるスズランの顔を見ていると、ナギの体からは力が抜け、おなかが大きくなって天井裏中にひびいた。
「だいじょうぶみたいだからぼくはもう帰るね」
天井の外はもうだいぶ暗くなっており、小学生が外で遊んでいても許される時間はとっくにすぎているように思われた。
「奴はこちらに人間がいることを知ったから、すぐに攻めてくることはないと思うけど、できれば明日も来てくれないか。詳しいことを説明したい」
ライラックのことばには答えずにもと来た穴から出てふたをする。時計を見ると七時をまわっていたのであわてて部屋を出て一階に下りると、鬼のような形相をたたえた母が待ち受けていた。ひどくしかられたが、怒鳴り声もズボンについた血を見たとたん一変し、薬箱を持ち出したり、あやうく救急車を呼びつけそうになったりと、逆に言いわけするのがたいへんになってしまった。父はそんな二人を横目に、すでに食事を始めていた。
翌日、天井裏の世界に行くべきか迷ってごろごろしているうちにまたしても父親が二階に上がってくる気配を見せた。急いで書斎に逃げこむと、ドアを開けたところにすでにスイカズラが待機していた。
「あら、来てくれたんですね! それじゃ、さっそく行きましょうか」
スイカズラの満面の笑み(ナギにはそう見えた)をまえに、もう引き返すことはできなくなった。スイカズラを手に乗せ、段ボール箱の山を登る。
「けど、どうやって下に降りてきたの? ふたは閉めたはずだけど」
「あら、わたしたちの歯にかかればそんなことぐらい朝飯まえですわ」
ナギは天井の一部がわずかにかけているのを見つけた。どうやらスイカズラは天井を朝ごはんにしたようである。
「なんか……態度が昨日とちがう気がする」
ナギが違和感を口に出すと、スイカズラの顔がすこし赤くなったように見えた。
「それは当たり前です。父親の命の恩人に子どもが敬意をあらわすのは当然のことですわ」そういいつつも、スイカズラは照れくさそうだった。
「父親って、あれが?」
「はい、あれがそうです」
「人をあれ呼ばわりするとはいい度胸だな少年」
いつのまにか天井に達していたらしい。すき間からスズランの声が聞こえる。
「や、やあスズラン。傷はもういいの?」
「フン、お世辞など抜きにして早く上がりなさい」
ナギが天井に上がるとスズランはもう一度鼻を鳴らした。怪我はすっかりふさがっているようだった。
「ナギ、よく来てくれた! 奴がまたあらわれるんじゃないかと気が気じゃなかったよ」
「私も命の恩人を心から歓迎しよう。君のあたまがクッションになってくれていなければ、全身がこなごなになってしまっているところだ。身をていして私を救ってくれて、どうもありがとう」
しかしそう言うスズランの声はあくまでとげとげしく、最後に「そもそもこいつが来なければ……」と小さく口の中でつぶやくのを、耳ざとく聞き取ったスイカズラにたしなめられた。
「父親に対しては敬語じゃないの?」ナギは場を和ませようとする。
「はい。大切なのは何であるか、じゃなくて何をしたか、ですから」
「スズランは親としてはあまり優秀じゃないんだ」ライラックが付け加える。
スズランは昨日と同じように走り去っていった。
ナギがはりに座るとライラックは前に、スズランは見張りに、そしてスイカズラはナギのひざの上に座った。三匹を見比べてみるとそれぞれの違いが分かる。ライラックは身体はそれほど大きくないが確かにしっぽが長く太い。スズランはひげが長く耳が大きい。そして暗いところに行くと目が赤くなるらしかった。スイカズラはやはり口と、さっき自慢していた歯が二匹より巨大である。
「それでは始めようか。きのうの続きになるけど、どうしてわれわれがこの天井裏に住むことになったのか」
ライラックが一呼吸おく。ナギはスイカズラが震えながら下をみつめているのに気付いた。
「ちょっと前まで僕たちはこの家のいたるところに居を構えていた。数も今よりいっぱいいて、けっこう楽しくやっていた。そこに君たち一家がやってきたんだけど、まあそれはこの家がもともと人間のものなんだから仕方ない」
ここでスズランが鼻を鳴らした。
「それでマ族のすみかは軒下や天井裏みたいな人の目にふれない隅の場所だけになった。他の家に住んでいるマ族たちも似たようなものだし、人間がいるとエサとりが楽でなかなか悪くない。けれどそうやってつつましく暮らしていた僕たちは、やがて二度目の侵略を受けることになった」
「あのネズミめだ!」
スズランが上の方で怒鳴り、ナギにみせるそれを一万倍も強くしたような嫌悪感をあらわにして、口に出すだけでは足りないとばかりに歯をはりにうちつけている。
「スズラン、無理するな!」
「いや、そこから先は私に言わせてもらおう! あのドブネズミ、いやクソネズミのやつがなんの準備もない私たちのところに突然乗り込んできた。そして、次々と仲間を殺戮したのだ!」
スイカズラの震えが絶頂に達する。
「もうよせ、スズラン!」ライラックが制止する。
「そう、それはその娘の母親もだ! どうだ人間! そのかわいそうな娘を見捨てることができるか?」
スイカズラは今まで聞いた中で最大の叫び声をあげ、耳をふさぐと、その反動でナギのひざの上からすべり落ち、はりの上に転がった。
「スズラン! よせと言っている!」
ライラックがスイカズラを介抱している間、場は一時静まった。スズランはあらげた息をととのえると、再び話を始めた。
「すまないスイカズラ……だが、奴を打ち倒すためにはその人間の協力は絶対不可欠だ。わかってほしい」
ナギは猛烈な吐き気をもよおした。父親というのは、どうしてこうなのか。人間でもネズミでも同じだとしたら父親の本質とはいったいなんなのか。ナギは海でおぼれかけて酸欠になったときのような感覚におそわれ、めまいがした。脳みそだけがどこか別な場所にいるようで、うまく考えをまとめることができないでいた。
「わたしは、だいじょうぶ……」スイカズラがうめくようにそう言う。
スイカズラはきのうのスズランとよく似た状態にあった。息も絶え絶えで、ライラックに寄り添われている。しかしその内容は親子での違いがいちじるしかった。
親のために泣いた娘と、子を絶望のふちに追いやった父。ナギは今度はなきだしそうになった。このネズミは敬意に値しない。
「わかった、やるよ。あのドブネズミをやっつけてやる」
「本当かい、ナギ」ライラックの表情がかがやく。
「だけどスズラン。あんたのためじゃない、スイカズラのためだ。だから作戦には従うけど、ひょっとしたらあんたを見殺しにするかもしれない。そしてぼくはあんたをけいべつしている」
ナギがスズランのいるはりを見上げてそう言うと、そのネズミはかすかに笑ったようだった。
「いいだろう、なにしろこっちは君を見下しているからな」
ライラックはやれやれといった様子で肩をすくめた。スイカズラの顔はなぜか赤く染まっていた。
ここにネズミ三匹と小学生一人の奇妙な共同戦線が誕生した。
手始めにナギは、下から重い本を何冊か持ってきてきのうドブネズミが侵入したと思われる穴をふさいだ。
「あら、ダメよナギさん。そんな軽いものじゃあいつは簡単に倒しちゃうわ」
いつのまにかスイカズラの定位置はナギの右肩になっていた。ネズミを肩に乗せるというのはあまり気分のいいものではなかったが、なにやらスズランが嫌がっているようなのでナギは、こころよく居場所を提供することにした。しかしナギはライラックのするどい視線には気がついていなかった。
「ドブネズミってのは何者なんだ? きみたちはそれとはちがうのか?」
「ドブネズミといっしょにされるとは私たちも落ちたものだ」スズランががっくりと肩を落とす。
「そう言うなスズラン。知らなければしょうがないだろう」
ライラックとスズランの二人はドブネズミを倒すための作戦を練っている。そう言いつつもこの家の地図に目を落としているライラックの顔は、あきらかに引きつっていた。
「それでは私がレクチャーしてやろう。いいか人間、私たちマ族は誇り高きクマネズミの血統なのだ。より高みをめざす性質を体現しているかのごとく木登りが得意だ。だが奴のようなドブネズミはどうだ。好んでドブなどの下層に住みつき、その衛生観念といったら皆無に等しい! だからこそ奇襲などといった卑劣なまねもできるというわけだ。やつこそまさにネズミの中のネズミというべき存在、ネ族そのものなのだ!」
そういえばここはずいぶんと清潔に保たれているようだと思い、ナギがすみを指でなぞりほこりがないことを確かめるとスイカズラの顔がまた染まった。どうやらスイカズラが掃除しているらしい。
「きみたちはハムスターみたいなものか?」
ナギにはまだよく分からない。ネズミはネズミではないか。だが昨日見たあの黒いやつよりは、ライラックの方が可愛いように思える。ナギは幼稚園のころ飼っていたジャンガリアンの姿を思い浮かべる。しかしスズランにはまだ気に入らないようだった。
「は! ハムスターだと? あれは人間どもの犬だ! 汚れてはいないが誇りを失った腐った連中だ!」
ナギはもうこの問題には触れないほうが得策だと判断した。
「なるほどだいたいわかった。下層、つまり床下はあいつの領地、ってことか」
「そう、だからあいつはこの天井裏にはめったに来ない。来たとしても逃げようと思えば逃げられないことはないんだ」
「敵はあいつ一匹だけなの?」
「今のところは。けど不測の事態が生じた」ライラックがことばを濁す。
「不測の事態?」
仲間があらわれたのだろうか。だとしたら脅威だ、すくなくともスズランは一対一で完敗した。あまりに数が多いと、人間でもひょっとしたら遅れをとるかもしれない。ナギは急に気が重くなった。
「奴に、子どもが産まれたのだ」スズランがあとをつなげる。
「なんだそんなことか」
ナギはほっとする。ドブネズミがどれくらい子どもを産むかは知らないが、まさか百匹ということはあるまい。
「それぐらいならなんとかなるだろう」ナギが気楽に言う。
「わかっとらんな人間」スズランがため息をつく。「事態はそう簡単なものではない」
「なんだと?」
「あー……ナギまだ言っていなかったかもしれないが、あいつと戦うのは君じゃないんだ」
ナギにはわけが分からなかった。人間に戦わせないというのなら、なぜ自分に助けを求めたのだろうか。
「そうなんですナギさん。実際に戦うのはわたしたちで……あなたにはなんというか、その下準備を」
「どういうこと?」
「雑用をよろしく、という意味だ人間。君にあのすばしこいネズミを相手にする能力があるか?」
「つまりそれは、いま穴をふさいだみたいな仕事がぼくの役目ってわけか」
「本当ならネズミ用の毒団子をしかけるのが役目だったのだ。しかし奴にばれてしまったせいでそうもいかなくなった」
別にナギは雑用だろうと構わなかったが、ライラックたちにあいつを本当に倒すことができる力があるのかが心配になった。
「だからこそ余裕はまったくない。奴は子育てのために気が立っている。エサもいままで以上に必要になるからここにもまたすぐにやってくるだろう。そこを逆に狙うわけだが、子を持つようになった奴は最初にやってきたときとは比較にならんほどに強い。だからといって子どもの成長を待つわけにもいかん」
「正直いって、八方ふさがりなんだ」ライラックが肩をすくめる。
「猫の手も借りたいってわけか」
ナギがそう口にしたとたん三匹は金縛りにあったように動かなくなった。スイカズラなどは半分魂が抜けたようになっていた。
「どうしたの?」
「いいか人間……」スズランの歯がナギの手にあたる。「金輪際、二度とその名前を出すんじゃないぞ」
スズランは前歯の振動がひどく、うまくしゃべることができなかった。ナギはスズランのためにいつかもう一度言おうと心に決めた。
「ナギ、今日のところは帰ってくれないか……実際、作戦が決まらないと君の出番は無いんだ」
ライラックはナギの方を見ようともせず、つぶやくように言った。その顔は完全に憔悴しきっている。まだ動くことのできないスイカズラを肩から降ろすと、ナギはすこし胸に痛みを感じつつ、ふたを開け自分の世界に帰っていった。
下界はまだ明るかった。時計を見ると短針がちょうど四時をさしていた。あそこは時間の感覚が狂うような仕組みになっているらしい。
自分の部屋に戻るとそこに父親がいた。ナギは怒鳴って追い出そうかとも思ったが、別に部屋の中に見られて困る物があるわけでもないので、無視して後ろに引き返すことにした。しかし階段を下りようとしたところでつかまってしまった。後ろから肩をつかまれバランスを崩す。危うく落ちていたかもしれない。ナギが振り向いて顔をにらむと、父は視線を受け流し、のんきに言った。
「ナギ、宿題終わったか?」
「終わったよ」
ナギはぶっきらぼうに答える。ふと、スズランと自分のような関係が、自分と父の間にも生じているような感じがしてふきだしそうになった。父はけげんな顔をしている。
「自由研究もやったのか?」
ナギは痛いところをつかれたと思った。確かにまだ自由研究は終わっていない。しかしこの男に手伝ってもらうなどまっぴらごめんだった。
「やったよ」ナギはうそをついた。
「いつのまにやったんだ? 自由研究だからって、手抜きしたらだめだ。父さんも手伝ってやるからまじめにやれ」
「してるよ、ネズミの研究」
そう言ってナギは父親の腕をふりきって階下に降りる。一階に母親がいないと見ると、靴をはいて外にとび出した。がむしゃらに道を走りまわる。どこに行くつもりでもなかったが気がついたら、ナギはむかしよく遊びに来ていた公園にやってきていた。まだ明るかったので何人かの子どもが遊んでいたが、ナギの知り合いは一人もいなかった。ナギはしかたなく空いていたベンチに腰かける。息がすっかりあがっていた。
しばらくすると一人の子どもがブランコをこぎだした。さっきまで友達といっしょに砂場でお城を作っていた女の子である。まだ小学生にもなっていないであろうその少女は、実に無表情にブランコを使っている。一回こいでは足でとめ、またこいでは止めているうちに、疲れてしまったのかとうとうぼんやりと座っているだけになってしまった。いつのまにかあたりはうす暗くなっており、公園内にはナギとその少女だけが取り残されていた。街灯がともり、家々からは夕食時のだんらんの声がもれ始めてきた。
しばらくすると、少女の父親が迎えにきた。悪びれた様子もなく、すこし酔ってさえいるようだった。少女は父親の態度に落胆したのかブランコから動こうとしない。父親はいろいろなことを言って、少女をなだめすかし帰らせようとするが、決して謝ろうとはしなかった。結局しびれをきらした父親が娘に背を向けていなくなろうとすると、少女はほとんど泣きそうになりながらその後を急いで追った。
ナギは悲しい気持ちになって家に帰った。途中で母親にでくわした。どうやらナギを探していたようだった。ナギはきのうの三倍はしかられる覚悟をしていたが、母は何も言わないでナギを黙って抱きしめた。家に着くと父親は食事を終えていた。時計はきのうより三十分先の時刻を示していた。
次の日、ナギは朝起きて食事をすませると、どこかに遊びに行くふりをしてこっそりと天井裏にもどった。
ライラックとスイカズラのあいさつはどこかぎこちないものだった。きのうのあの発言がまだ尾を引いているらしい。スズランはナギの存在を完全に無視した。
「作戦は決まったの?」
「いや、まだなんだ」
「話し合いとかできないのかな」
ナギが言ったせりふに対する反応はそれぞれ異なったものだったが、そのどれもが否定を示していた。さしものスズランもなにか言わずにはすまされず、ライラックは肩をすくめることもできないで、おそらく怒りによってプルプルと震えていた。スイカズラはこれから起こることを予感し二階に逃げていった。
「人間……言いたいことは腐るほどあるが、いくつかにしぼってやろう。やつは話すことができない。それほどの知性を持ち合わせてはいない。仮に話すことができたとしても、やつがそれをするとは思えんし、私たちにもそのつもりはない」
それだけ言われるとナギは追い出された。下にいたスイカズラさえもなにも言ってはくれなかった。そしてナギは書斎から出てくるところを父親に目撃され、その日のうちに段ボール箱の山は撤去された。ナギはもう彼らに会えなくなった。
3
ドブネズミは機会をうかがっていた。本来なら一瞬で片を付けられたところを、クマネズミたちといっしょにいた人間のためにしくじってしまっていた。のろまなはずの人間に、油断していたとはいえ遅れをとった。彼女はわずかにそぎとられた尻尾の傷口をなめ、怒りを含んだ牙を研いでいた。次はあんな失敗はしないように。だが彼女はそれほど事態を深刻にとらえていなかった。人間は夜になると活動を停止する。彼女はそのときを待っていた。いとしいわが子たちが元気に走り回るのをうっとりと眺めながら。
クマネズミたちは作戦を決定した。天井裏を、三対一で有利に勝負を運べるような場所に作り変え、ドブネズミをここで待ち受けるつもりだった。スズランはこの作戦が人間に多くを依存したものであることに、さんざん異議を申し立てたが、それでも作戦は多数決で可決され、あとは明日ナギがもう一度登ってくるのを待つだけとなった。もしも天井にできた穴をのぞいてみれば、もう人間が登ってくることができなくなっているのを知っただろう。三匹は意気揚々と眠りについた。
ナギは床下につながる穴を探していた。話し合いを提案してみたのは、いちおう彼らの意思を確認するためだった。そのつもりがないと分かった以上、自分が頑張ればなんとかすることができる。殺すことは無理にしても、この家から追い払うことぐらいはできるに違いない。ナギはなんとなく復讐を果たさせたくなかった。あのあわれなクマネズミたちに母親を殺させたくなかった。金属バットを持って家中を徘徊するその姿は明らかに異常なものだったが、ナギは急がなければならなかった。いやな予感がしていた。
話し合いを提案した日の夜、完全に日が落ちてしまい、あまりの暗さに探すことを断念したナギは、もう寝ようと思って寝室に向かった。母は仕事の都合で今日は帰ってこない。父はすでに眠っていた。
途中、最後にもう一度だけ書斎を確認してみようと思った。ひょっとしたらスイカズラがいるかもしれない。
書斎に入るとなにかがいつもと違うことにナギは気がついた。2階の天井部分がやけに騒がしいのだ。何事かと思って、穴が開いているところの真下から天井裏をのぞこうとすると、上からふわふわした物が落ちてきた。それを間一髪で受け止めたナギは状況を理解した。
「フン……またしても、助けられてしまったようだな、人間……」
血まみれのスズランはそれでもまだ生きていた。あまりにしぶとく図太いスズランにナギは思わず声に出して笑ってしまったが、まだ戦いが終わっていないことを示している天井の騒音がナギを現実に引き戻した。上に登ることのできなくなった今となっては、もはや何もしてやれないナギは、ただスズランとともに祈ることぐらいしかすることはなかった。
突然、上が静かになった。終わってしまったのだろうか。そしてそれはどちらの勝利をもって成ったのか。
「人間、私をあの穴に近づけろ、早く!」ナギはその通りにした。「ライラック! どうなった! 返事をしろ!」
「スズラン、無事なのか? よかった……」かすかなライラックの声が聞こえる。
「生きていたかライラック! やったのか?」
長い沈黙のあと、スズランが再び口を開こうとする前にライラックが言った。
「スイカズラが連れていかれた。あいつは、子どもに生餌を与えるつもりだ……」
「ライラック! 君らが使っていた入り口はどこにある?」
「ナギ? そこにいるのか? スイカズラを頼む!」
二度と声が聞こえてくることはなかった。ナギは沈黙しきったその穴に問いかけるのをあきらめ、手の中にいるネズミに向き直った。
「スズラン、入り口はどこにある? 答えろ!」
「入り口は、二つある。ひとつはどこか巨大な部屋だった、台所ではなかったと思う。もうひとつは外だ」
どこにあるのか分からない穴を探しているひまはない。ナギは昼に見つけた、家の外壁にある床下につづいているらしい通風孔を思い出した。
「まて、人間に通り抜けるのは無理だ。それよりも、私に考えがある」
「本当にいいのか?」
ナギは物置の中に入っていたネコイラズをスズランの全身にまんべんなく塗りつけながらたずねた。スズランがナギに話した最後の作戦はあまりに残酷なものだった。ナギのためらう心をはねつけるスズランの赤い目が放つ圧倒的な視線、そして時間には一秒の猶予もないことから、ナギにはただそれを実行する以外の選択肢はなかった。
「たっぷりと頼むぞ。奴はなにしろでかい」
スズランがドブネズミに食べられる。すると、スイカズラは助かる。スズランは娘を救うことができる。親を失ったドブネズミの子どもたちはこの家から逃げていってしまうだろう。それでなにもかもが解決する。スズランはそう言った。
「残念だよ。あんたのわがままな態度は嫌いじゃなかった」
「皮肉はよせ人間。よし、そろそろいいだろう。穴に近づけてくれ」
嘘ではなかった。スイカズラに対する発言はともかく、たとえ命の恩人であろうと人間を徹底して見下すというその姿勢にナギは、マ族の誇りのようなものを感じ取っていた。
「これで終わるさ」
スズランは床下に入っていった。ナギはその後ろ姿を見守っていると、床下の壁も天井裏と同じようにぼんやり光を放っていることに気がついた。明るいうちには分からなかったがやはりなにかが付いているらしい。そのせいでドブネズミが出現する瞬間もはっきりと目撃することができた。
スズランはそれがどこにいるか知っていた。まっしぐらにその地点を目指す。入ったところからは死角になっている柱の陰。それはそこにいた。
子どもに狩りの訓練をさせるための練習台は一匹でいい。それ以上の不確定要素はいらない。ならば今、新しく入ってきたしつこい老いぼれは自分で食い殺してしまおう。尻尾の一本も残さないぐらい完全に。
タイミングを見計らって垂直に飛び出してきたドブネズミは、スズランのわき腹にきれいに頭突きをきめた。一番恐ろしいのは手負いであることをよく知っていた彼女は、相手に反撃の機会を与えるような隙をまったく見せることなく、するどい前歯をネズミの心臓がある部位に突き立てた。スズランはこときれた。
作戦は完了した。ナギはスズランが死んだのを知った。
しかしドブネズミはなお生きていた。心臓からしたたり落ちる血液と同時に致死量を越える猛毒を喰らいながら、それでも動くことができた。気化する毒を吸い込みながら、その空間にいることが危険だと感じた彼女は外に出ようと考え、ナギのいる出口にむかってよろよろと歩を進めた。
4
ナギは作戦が失敗したのを知った。ドブネズミが穴から這うようにして出てきた。そこに人間が立ちふさがっているのを見た彼女は、もときた穴へ引き返そうとした。しかし本能が毒の充満する床下への退避を許さなかった。彼女はもうひとつの入り口へ向かうことにした。
ナギは開きっぱなしだった玄関から家の中に入るそれの後を追った。いまだすばやくはあったが、人間でも見失わないことは簡単そうだった。玄関の脇に立てかけておいた金属バットを手にとり、ナギは彼女との差をつめる。
彼女の逃げる先はナギには分かっていた。昼間、調べられなかった部屋は両親の寝室だけだった。案の定ドブネズミはそっちに向かった。
ドアは開いていた。ドブネズミは中にするりと入り込む。しかしナギには関係なかった。
「猫」
ナギがそうポツリとつぶやくと、ドブネズミの動きがけいれんしたように一瞬停止する。
ナギはバットを振りかぶり、叩きつける。見事に標的に命中し、フローリングの床が赤黒い血に染まる。ナギは骨の砕ける音に混じって「助けて」という声を聞いた気がした。
ぼくの経験した非日常の世界はこれで全てが終わった。スイカズラやドブネズミの子どもたちがどうなったのかは知らない。これ以上には表も裏もない。正直な話、ネズミが何匹か死んだくらいでは一人の人間に与える影響はたかが知れている。幼稚園のころに飼っていたハムスターが死んだときのほうが、もっとずっと悲しかったに違いない。
ただスズランの墓は建ててやった。死体を床下から回収することはできなかったが、なけなしの小遣いをはたいてすずらんの花を植えてやったんだから、あいつにはどれだけ感謝されてもし尽くされるということはないだろう。もっともあとで知ったところによると、すずらんは有毒植物だったらしい。まあ、あいつにはふさわしいんじゃないだろうか。
ライラックの墓はない。翌日、物置にあったはしごを使って天井裏に上ってみたら、ネズミの死体は発見できなかった。ひょっとしたらドブネズミの子どもに食べられてしまったのかもしれない。スイカズラがやったのではないと信じたいところだ。
あの日以来なぜか父親の様子が変わった。急にぼくの話を聞くようになり、ぼくの言うとおりに就職もした。ひょっとしたらぼくがドブネズミを叩き潰した瞬間を目撃していたのかもしれない。そうでなくても、朝起きてその日初めてみた物が無残にもぐちゃぐちゃになったネズミの死体だったら、と考えると人生観ががらっと変わってもおかしくはないと思う。あの日、家にはぼくと父の二人しかいなかったのだから下手人はあきらかだ。そしてそのおかげでぼくは今年、大学を受験することができるような経済状態の家庭を手にすることができたわけだが、こうも面倒くさいものだと知っていたら、あのときバットは止まっていたに違いない。
勉強だけではない、最近になって母の自分に対する接し方が、非常にわずらわしく思えてきた。子どもの時には気が付かなかったが、それは世間では溺愛とよばれるような性質のものだったのだ。
「なんだか近頃ネズミを見ないわねー」
母がそう言うのを聞くたび、ネズミに対処する分の時間をぼくにまわしているのではないかとさえ思う。だとするとあの事件はぼくにとってマイナスにしかならなかったことになる。
こんなことならおとなしく自由研究に打ち込んでおくべきだった。ぼくは勉強をしているとき肩をすくめつつ鼻を鳴らして、心の底からそう思った。