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「まぁぁぁすぅぅぅたぁぁぁぁぁぁー……」
たとえるなら、地の底から這いでるような声。きっと私の背後には、どろどろと暗雲が渦巻いているに違いありません。
いつもならバターン! と勢いよくあける扉も、今日は何故かぎぎぎぎぎぎぃぃぃっと、激しく軋む音を立てています。
おどろおどろしく登場した私に、マスターは一瞬顔を強張らせましたが、すぐにごまかすようにこちらをみて微笑みます。
「どうしたのだ、リン。なにがあった?」
ふっふっふ、マスター、冷静な振りしてびびってますね! しっぽでてますよ! ふくらんでますよ! みました、私はみましたよっ、マスターの尻尾がぶわわっと膨らむ瞬間を! むふん、と妙な笑いを漏らして顔を緩めた私に、おや、マスターってばなんですか、ひいてますか? ひくんですか?! いいですよ、いいですけどね、別にっ。
そんなことはさておいて。
私は、どうしても、どうしても、どうしても! マスターにお願いしたいことがあるのです。
我慢に我慢を重ねて――もう、もうもうもうもう、限界なのです!
うるりと潤む瞳をそのままに、じっと見つめればたじろぐマスターの姿。けれどそれを逃さぬようにじっと見つめて――。
「まぁぁすぅたぁぁぁー…・・・お出かけしたいです」
じっとりと呟いた言葉は、ぽつんと、どこか頼りなく響くのでした。
とどのつまり、私は、この世界に来てから、ろくに外に出てないことに気づいたのですよ。
そりゃもう、ミルティちゃんや他の子達が居れば満足だし、皆さん優しいし、庭でみんなでかくれんぼとか、すんごくたのしいし! いいの、いいんだけれども、ですよっ。
町にいったこと、ないんですもの。
屋敷と周辺の敷き地内しか、いったこと、ないんですもの。
――悉く妨害されてるよねっていう!
――確かに、落人って貴重で危険って習ったけど、でもでもでもっていう!
少しだけでも外に出たいって、この世界を見たいって、思ってもおかしくないですよねっ?!
わがままか、なぁ、と、思わないわけでは、ないんですよ?
でも、でもね。――もう少しだけ。そう、もう少しでもいいから、この世界を知りたい。この世界を見てみたい。
マスターや、ミルティちゃんや、ほかの仲間たちや、そして、同じようにこの世界へ来たらしい落人さんたちの暮らす、この世界をもっと知りたい、と。
そんな風に、ちらっと、思ったりしちゃったわけなのですよ。
――帰りたい、気持ちは消えないけれど。
でも、でもね、優しい人たちと優しい獣人たちの暮らすこの世界を、もっと好きになりたいな、なんて。
そんな風に思っちゃったわけなのですよ。
いつものテンションはどこへやら、とうとうと途切れ途切れに、整理のつかないまま語る私をじっと見つめるマスター。
――なんですか、なんなんですか、その嬉しそうな顔は。なんですか、緩んで崩れて、とっても残念な顔になってますよ、マスター。
じとっと睨み付ければ、こほん、と咳払い一つ。
そっと伸ばされた手が、一瞬、ためらうように空中で止まって。それからゆっくりと私の頭の上に触れて。
ぽんぽん、と、まるで幼子をあやす様な仕草に、わずかに眉が寄ります。むう、なんですかそれは。
でも、でもまぁ、今日は許してやろうじゃないですか。――なんとなく、です。なんとなくですよ?
わずかに上目で伺えば、どこか優しい表情のマスター。
「すぐに、は、難しい、が。必ず出かけられるように手配しよう」
「――本当、ですか?」
「ああ。そうだな――約束しよう。森へ、湖へ、街へ。綺麗なものやいろんなものを、お前にみせてやろう」
そういってもう一度ぽん、と頭に触れると、マスターはさらに笑みを深めて。
つられるように笑ったら、なんだか少し、ほわりとした。
なんだかすごく、幸せな気がした。
――だから。
「悲しくないの?」
静かに問われた言葉に、私は静かに笑うのです。ただただ、静かに静かに、微笑むのです。
目の前でブルネイちゃんが、ソマちゃんが、息をのむ音が聞こえるような気がするけれど。
私はただ、静かに笑うのです。
――何も答えずに、答えることもできずに、ただ、微笑むことしか、できないのです。
本当の願いは、言葉になどできずに、静かに胸の奥で眠っているのですから――。