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「腐敗世界のアミューズ・ブーシュ」  作者: 怪人工房


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第一話「腐敗世界のアミューズ・ブーシュ」

世界が終わったのは、月曜日の朝だった。

 坂本凛さかもと・りんは当時、都内某所のフレンチレストラン「ル・シャトー」で働く二十六歳のスー・シェフだった。出勤途中の電車の中で、隣に座っていたサラリーマンがいきなり自分の腕を噛み始めたとき、彼女が最初に思ったのは「食欲というのは理性の外にあるのかもしれない」という職業病的な感慨だった。

 その五秒後、その男が彼女の首元に食らいつこうとしてきたとき、ようやく「これはまずい」と思い直した。

 あれから一年。

 東京はもはや別の都市になっていた。

 高層ビルの窓ガラスは軒並み割れ、そこから蔦が這い上がり始めていた。道路には車が無造作に放棄され、その間を縫うように亡者たちがふらついている。腐臭と黴の混じった空気が、かつてはグルメな香りで満ちていたこの街を支配していた。

 坂本凛は廃墟となったデパートの屋上、かつて営業していたビアガーデンの跡地に作った小さな畑の前にしゃがんで、鼻先に指を当てて考え込んでいた。


「……窒素が足りない。もう少し分解が進んでからにすべきだったか」


 呟きながら、彼女は傍らの大きなバケツに目をやった。

 バケツの中には、黒ずんだ液体が溜まっている。

 正確に言えば、ゾンビから採取した体液を独自の方法で処理したものだった。

 発見したのは、感染から三ヶ月目のことだった。

 生き残りのグループが立てこもっていたコンビニに食料が尽きかけたとき、凛は捨て鉢な気持ちで一つの実験をした。

死体の一部を、かつてシェフとして培った保存・発酵の知識を応用して処理し、培地として使えないか試したのだ。

 結果は、驚くべきものだった。

 ゾンビの体内では、死の直前まで活性化し続けた特殊な消化酵素が、死後も分解活動を続けている。

この酵素を適切に中和・抽出すると、有機物の分解を著しく促進する「触媒」として使えることがわかった。

同時に、ゾンビ体内で増殖する変異菌の一部が、植物の根に共生することで成長を劇的に加速させることも判明した。

 噛み砕いてしまえば、つまり。


 ゾンビは、最高の肥料になる。


 凛はこの発見を、誰にも言わなかった。


 理由は、単純だ……


 人間は、理解できないものを恐れる。恐れたものを、排除しようとする。

 終末世界のコミュニティでは、この傾向がより強く、より速く、より暴力的に表れる。「ゾンビを料理に利用している」などと言えば、感染者と見なされて追い出されるのが関の山だろう。


最悪、殺される。


 凛は三ヶ月間で五つのグループを渡り歩いた。どこでも、力を持つのは武器を持つ者か、多数決で動く者だった。調理師免許持ちの若い女など、せいぜい「飯係」として使われるだけだ。

 

 だから凛は、決めた。

 地道に、静かに、誰も気づかないうちに、自分だけの「城」を作り上げる。

 食べることが、この世界での最大の権力だ。

食料を安定して生産できる者が、最終的に場を支配する。武器は消耗する。弾は尽きる。しかし食べ物がなければ、人間はどんなに強くても三週間で死ぬ。

 調理師は、武器を持たなくても戦える。


 「凛さん! また一人で何やってんすか」

 屋上へ通じるドア口から、声がした。

 振り返ると、小柄な少年が顔を出していた。名前は岡部蒼太おかべ・そうた、十七歳。このデパートを拠点とする「港南グループ」の最年少メンバーだ。人懐っこい目と、よく動く口が特徴だが、不思議と嫌味がない。

「水やりですよ」

と凛はバケツを指した。

「植物は正直だから、毎日見てあげないと」

「でも肥料、ここだけすごい育ちがいいっすよね。なんか秘密でもあるんすか?」

 凛は少し微笑んだ。

「企業秘密」

「シェフっぽい答えです…」

蒼太は肩をすくめて、本題を切り出した。

「あの、佐久間さんが呼んでます。会議、始まるって」

 港南グループは現在、二十三人。

 中心にいるのは元自衛官の佐久間哲也さくま・てつや、四十一歳だ。体格がよく、指示を出すのが得意で、確かにこのグループをここまで引っ張ってきた功績はある。ただ、凛の目には

「有事に強いが、平時の設計が苦手な人間」

と言う評価である。

 会議室代わりの婦人服売り場に全員が集まった。

「近隣グループから使者が来た」

と佐久間は言った。

「渋谷方面を牛耳っている『シブヤ連合』だ。合流して規模を大きくしようという提案だが……条件がある」

 場に緊張が走った。

「食料の七割を連合に提供すること。代わりに武力による安全保証を得られる」

 どよめきが起きた。

「七割は多すぎる」

誰かが言った。

「こっちが飢える」

「でも武力がないと、暴力グループに狙われたときに……」

 議論が始まった。凛は聞きながら、腕を組んで壁に背を預けていた。

 佐久間がちらりとこちらを見た。

「坂本、お前はどう思う?」

 全員の視線が集まった。凛は一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。

「断った方がいいと思います……。」

「根拠は?」

「食料を差し出した時点で、交渉力を失う。武力に頼ったグループは最終的に武力に滅ぼされます。歴史が証明してる」

「じゃあ武力なしでどうするんだ?」

 凛は少し間を置いた。

「食料を、武器にする…。」

 誰かが失笑した。佐久間は難しい顔をした。

「綺麗事だ。飢えて死ぬよりマシだろう?!」

「飢えないようにするのが、私の仕事です…。」

 凛はそれだけ言って、視線を戻した。

 夜、凛は一人でデパートの地下食品売り場に降りた。

 もとは高級スーパーだった場所だ。今は凛が管理する「倉庫」になっている。棚には凛が一年かけて調達・加工・保存した食材が並んでいる。瓶詰めにした発酵食品、乾燥させた野草、屋上の畑から収穫した野菜、そして。

 奥の冷暗所に、鍵のかかった棚がある。

 凛が鍵を開けると、中にはずらりと小瓶が並んでいた。透明な液体から黄みがかったもの、どろりとした黒いものまで、様々だ。凛は一本を手に取り、光にかざした。

「第十七番」と呟いた。「低温抽出、中和剤B型。成長促進係数、通常比で四倍強……」

 一年前の自分が見たら、悲鳴を上げるかもしれない。

 しかし凛は料理人だ。料理人は素材を選ばない。使えるものはすべて使う。死骸から出汁を取ることを、人類は有史以来ずっとやってきた。それの何が違う。

 違うのは、その素材がかつて人間だった、ということだけだ。

 凛はしばらくそれを見つめてから、棚に戻した。

「でも今夜の仕事は別の話」

 

彼女は別の棚から材料を取り出し始めた。

 翌朝、グループの全員に振る舞われたのは、野草と乾燥豆のスープだった。具は貧しくとも、出汁は深く、香りは豊かで、誰もが黙ってスプーンを動かした。

 蒼太が「うめえ……」と目を細めた。

 佐久間でさえ、しばらく無言で椀を見つめていた。

 凛はその様子を、離れたところから観察していた。

 食べ物は、確かに人を黙らせる。そして黙った人間は、考える。考えた人間は、動かせる。

 シブヤ連合への返答は、まだ三日ある。

 三日あれば、凛にはやれることがある。

 夜が深まるにつれ、デパートの外では亡者たちが低く唸り続けていた。

 凛は手帳を開き、小さな字でメモを書き足した。

 第十七番、改良の余地あり。第二十二番、来週試験。屋上東区画、来月収穫見込み。蒼太、使えるかもしれない。

 最後に一行、付け加えた。

 この世界で生き残るのは、強い者でも賢い者でもない。一番うまいものを作れる者だ。

 窓の外で、月が雲間から顔を出した。

 廃墟の都市が、青白い光の中に浮かび上がる。

 坂本凛は手帳を閉じ、明日の仕込みに取り掛かった。

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