第3話 須津湖どこ?
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午前9時30分前。
浅間古墳で結構な時間、まったり景色を眺めていたことに気が付く。
再び根方街道の喧騒へと戻った。
この街道は何度歩いても神経を使う。道幅が驚くほど狭いわりに、ダンプカーや生活道路として使う乗用車がひっきりなしに行き交うからだ。大型車が真横を通り過ぎるたび、風圧から、つい肩をすくめてしまう。
しばらく街道沿いを進んだ後、意を決して住宅街へと続く緩やかな坂を折れた。目指すは、岳南電車の須津駅だ。
時刻は午前10時を回ったところ。
静かな無人駅のホームに辿り着いた、まさにその瞬間だった。
「カンカンカン……」
遠くからどこか懐かしい踏切の音が響き、住宅の隙間を縫うようにして、赤い顔をした一両編成の電車が滑り込んできた。
「おっ、きた……!」
悠希は反射的にカメラを構え、無我夢中でシャッターを切った。
本来なら、ただの移動手段か、あるいは風景の一部として見送るはずだった。しかし、目の前に現れたその鉄の塊を見た瞬間、胸の奥に封印していた「情熱」が、ダムが決壊したかのように溢れ出した。
誰もいないホームで、悠希は心の中で(あるいは小さく独り言で)熱く語り始める。
「……これだよ。岳南電車7000系。元は京王電鉄の3000系だけど、この一両編成に改造された姿が、地方私鉄の逞しさを象徴している。ステンレスの無機質な質感と、この単線ののどかな風景のコントラスト。これぞ機能美……最高だ」
かつては「鉄道オタクだと思われたくない」と、同級生の前ではひた隠しにしてきた趣味だった。しかし、今こうしてカメラを手に一人で向き合ってみると、自分の「好き」を素直に認めることが、これほどまでに心を軽く、誇らしくさせるのかと驚く。
駅前の一昔前のような案内看板に目が留まった。
『須津川渓谷ハイキングコース:大棚の滝まで徒歩約2時間』
「2時間……」
悠希はスマホの時計を見た。現在の体力と、今日この後に予定している「まったりとした昼食」の時間を考えると、滝まで往復するのは明らかに無謀だ。
「……また今度だな。今日は深追いしないのが『探景』のコツだ」
潔く撤退を決めた悠希は、駅前の商店へ立ち寄った。
店先には、自動販売機数台と、色が少しあせてしまったガチャガチャの筐体が並んでいる。そこだけ切り取られたようなノスタルジーに浸りながら、コンビニで買っておいた静岡茶のペットボトルを一度リュックにしまい、代わりに冷たい炭酸飲料を買って喉を鳴らした。
再び歩き出した。ここで、とあることに気づく。
(あ…これ迷った…)そう、僕は、この住宅街という迷宮で、須津湖というゴールがどこにあるのかわからなくなってしまったのだ。
「須津湖どこ…」そう小さくつぶやいた。
(なんかこの言葉、ちょっと響きよくね。)
「須津湖どこ?須津湖どこ?」そう小さく口ずさみながらこの迷宮を歩き続けた。あきらかに不審者である。
ぐるぐると歩き始めて1時間たっただろうか、その時だった。
入り組んだ住宅街の路地を抜けた時だった。
「あ……あった」
家々に囲まれるようにして、静かに水を湛える「須津湖」が姿を現した。
看板には貯水池であると記されているが、周囲の喧騒から隔絶されたその場所には、どこか神秘的な空気が漂っている。
「これが、噂の……」
悠希は再びカメラを構えた。
住宅街という「日常」の中に、ぽっかりと空いた「非日常」の空間。水面に反射する春の光が、ファインダー越しにキラキラと揺れる。
湖に隣接する小さな公園を見つけると、悠希は誰もいないベンチに腰を下ろした。
時刻は午前11時前。
少し早めの昼食にするため、リュックから家で握ってきたおにぎりを取り出す。
中身はシンプルに鮭と梅干しだ。それに、コンビニで選んだ静岡茶。
「いただきます」
静寂の中で、おにぎりを頬張る。
水の流れる微かな音。春先の柔らかな風が、少し汗ばんだ首筋を撫でていく。
時折、家々の隙間を縫うようにして、ガタンゴトンと岳南電車の電車が通り過ぎていく。
(本当に、地域密着だよな。庭先みたいなところを電車が通るなんて)
一人でいると、周囲の音がよく聞こえる。
遠くで聞こえる掃除機の音、近所の犬の鳴き声、そして規則正しいレールの継ぎ目の音。それらすべてが、須津という土地の鼓動のように感じられた。
以前の自分なら、一人で公園でおにぎりを食べている姿を「寂しい奴」と思われるのではないかと怯えていたかもしれない。だが、今は違う。この静寂も、この景色も、すべて自分一人で独占できている贅沢。その満足感が、胸いっぱいに広がっていた。
おにぎりを食べ終え、静岡茶で一息つくと、時計の針は11時半を回ろうとしていた。
「……さて、今日のところは帰るとするか」
午後からは家で撮った写真の整理をしたい。
まったりとした時間を切り上げ、悠希は立ち上がった。
しかし、ここから自宅、あるいは学校方面の坂の上まで戻るには、かなりの距離がある。
「……いや、待てよ。お昼過ぎに家に着くには、今から全速力で戻らないと間に合わないか?」
急に現実に戻された悠希は、重いリュックのストラップをきつく締め直した。さっきまでの情緒的な気分はどこへやら、頭の中は最短ルートの計算でいっぱいになる。
「行くか……! 今日はいい写真が撮れたしな」
悠希は駆け出した。
行きに恐怖した根方街道を、今度は自分が風を切って進む。
山の方へ、家の方へ。
ドタバタとリュックを揺らしながら走る彼の背中を、まだ高い位置にある春の太陽が、力強く照らし出していた。
(上り坂きつすぎるて~)
お昼過ぎ。
玄関の扉を開け、心地よい疲労感と共に自分の部屋へなだれ込む。
カメラの液晶を見返し、須津湖の静かな水面を思い出す。
「独旅」は、まだ始まったばかりだ。
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