9話 水神の加護と桃色の香り
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富士川楽座を後にした僕は、堤防沿いの道を南へと歩き出した。
春の川風は思いのほか強く、髪を容赦なく乱してくる。僕は眼鏡をかけ直し、リュックのストラップを強く引いた。
(……かつては、ここを舟で渡ってたんだよな)
足元を流れる富士川を見下ろす。先日の資料館でメモした「渡船」の記録が頭をよぎる。橋がなかった時代、旅人は命がけでこの急流を渡った。増水すれば何日も足止めを食らう。今の僕がこうして悠々と歩けるのは、近代という「時間」の積み重ねのおかげだ。
しばらく歩くと、道端に古びた石造りの灯籠を見つけた。かつての渡し場や街道の目印だったのだろうか。風雨にさらされて丸くなったその姿は、今もなお川の安全を見守っているようで、僕は思わず足を止めて一礼した。
僕は富士川橋に差し掛かった。トラス構造の鉄骨が幾何学的な影を落とす。ふと横を向くと、遮るもののない空の下、真っ白な雪を冠った富士山がその全貌を現していた。
「……うわ、すごいな」
橋の上から見る富士山は、街中で見るのとは迫力が違う。川の流れの音と、吹き抜ける強風。その中心に鎮座する山の姿は、まるでこの場所すべてを支配しているような神々しさがあった。
橋を渡りきり、少し脇へそれた場所に水神社が鎮座していた。
富士川の氾濫から街を守るために建てられた、治水の守り神だ。境内の空気はひんやりと澄んでいて、独旅で少し火照った体を落ち着かせてくれる。
「……無事に雁堤まで行けますように」
賽銭を投げ、静かに手を合わせる。おじいちゃんみたいな習慣だとは思うけれど、この街の歴史を歩くなら、まずはここの神様に挨拶するのが筋というものだ。
神社を後にし、さらに歩みを進めると、いよいよ目的地が見えてきた。
いや、「見えてきた」なんてレベルじゃない。かなり遠くからでも、その異様な盛り土のラインがはっきりと主張してくる。
「……なんだあれ。遠くからでもデカさがわかりすぎるだろ」
ようやく辿り着いた雁堤の土手の上で、僕は絶句した。
自作のメモには「雁がねの形」と書いてあるけれど、実際にその場に立ってみると、大きすぎてその全体像が全く掴めない。視界の端から端まで、巨大な「壁」が続いている。
(これ……重機もトラックもない時代に、どうやって作ったんだ?)
江戸時代。古郡氏親子三代。
彼らが持っていたのは、重機ではなく、鍬と、もっこ(土運搬具)と、そして数えきれないほどの人々の「手」だけだ。一つ一つの石を積み上げ、これだけの土を盛り、荒ぶる富士川をねじ伏せる。
「……先人たち、すごすぎるな。重機なしでこれとか、執念の塊じゃないか」
堤防の斜面をなぞる。現代のコンクリートのような無機質な冷たさではなく、土と石が固く結びついた力強い感触。数百年経っても崩れないその構造に、当時の人々の祈りが詰まっている気がして、背筋が伸びる思いがした。
堤防の上は「雁堤公園」としてきれいに整備されていた。家族連れがピクニックをしていたり、散歩をしていたり。
「へぇ、公園としてちゃんと整備されてるんだな……」
殺伐とした治水遺構だと思っていたけれど、今は市民の憩いの場になっている。
見上げれば、並木の桜がちらほらと花を開き始めていた。淡いピンク色が、無骨な石積みの堤防に彩りを添えている。
「……桜、咲いてるな。ええね~」
不意に、またおじいちゃんみたいな感想が口をついた。
満開もいいけれど、この「これから始まる」という感じの五分咲きくらいの桜が、今の僕にはちょうどいい。
時間はまだ午前中。
巨大な「歴史」を十分に咀嚼した僕は、満ち足りた気分になっていた。
「……さて。のんびり歩いて帰ろうか」
リュックから水筒を取り出し、温かいほうじ茶を一口。
帰りは、送り届けてもらった車の中からは見えなかった景色を、もっと丁寧に拾い集めよう。吉原の商店街を抜けて、寄り道しながら帰るのも悪くない。
僕はスマホを取り出し、歩数計を確認した。まだ旅は半分。
眼鏡の奥で、僕は少しだけ満足げに目を細めた。
先人たちが築いたこの堅牢な大地を、一歩ずつ踏みしめながら、僕は再び自分の歩幅で歩き出した。
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