第8話 きぼうの剣
視界から刹那的に神父が失せる。
影を縫うようにして私たちの間をすり抜け、獣の亡骸の傍らから、彼は私に一瞥をくれた。骨のようなその腕には、手のひら大の古書が抱えられていた。
「殺人を為したとはいえ、身構えられる所以はなかろう」
「この前とは随分態度が違うなって思ってね。神父サマったら、二枚舌がお得意なの?」
「今の私は泉の声の代行者だ。立場は違えど、我々は共に戦士として豚侯爵に対峙した……なればこそ、戦士として語りかけるが道理だろう?」
男は掠れた喉を唸らせて頁を捲る。
続けて足元から光が生じた。それは、彼の唱えた言霊が文字となって円環を成したもの——世俗的な言い方をするのなら、魔法陣とでも呼ぶべきか。
「очистите」
詠唱はただ一言。淡い純白の流動体が泉の辺りを駆け巡り、あらゆる不浄を薙ぎ払った。三つの遺灰はたちまち流され、水辺を汚す黒泥も、積み上げられた土くれも、全てが零に帰していた。
乾きを満たした泉は紺碧の輝きを携えて、私の記憶との距離を縮めた。
「……責務は成した。失礼させてもらうとしよう」
「待ちなさい」
語気を強めて神父を止める。
「主たる泉の意思だとしても、いち信徒が代行権限を持つものですか」
感嘆の声を漏らしながら、神父はわざとらしく瞠目する。その微笑のどん底に直黒の感情が息を巻くのを目撃した。
「貴様の背後には誰がいる。──答えろ、神父ッ!」
私がそう詰問した、まさにその瞬間だった。
「——構わんよ。聴講料は君達の魂で如何かね?」
《恐怖》。
あらゆる生類を慄然させる根源の刃が、私の本能を突き刺した。
男の穢れた白目に赤黒い血流が迸った。奇怪に歪んだ口の端は鎌のような、吊り上がった双眸は針のような鋭さを帯びていく。
斯様な圧の出処は、掴もうにも掴めなかった。分析できる余地はなく、立ち続けるが我が限界。
「……ぐら、しえ」
それでも気概では屈するまいと、私が反駁せんとした時、友が苦悶の声を漏らした。膝をついて肩を震わす友の貌があまりにも蒼白だったから、対峙を捨てて傍へ駆け寄った。
すると突然、神父の圧力が霧散した。
余韻に震える空気の中、私は奴と視線を交える。眼底に仕舞い込まれたのは、私とアディユに対する侮蔑──それに加えて、確かに尽きせぬ興味の念も根ざしているように思われたのだが、これは威圧感との落差が齎す勘違いというものだろうか。
神父は私を見下ろして、鼻を低く鳴らしてみせる。
けれど不快感が立ち上がるより早く、奴は呆れを乗せた背を向けた。
──この男は、危険だ。
理屈ではなく、心がそう語っていた。
たとえ大罪を犯すことになったとしても、ここで殺しておかなくては、どこかで必ず後悔する。私の胸に首を埋めるアディユの様を目の当たりにして、直感はたちまち確信に変わった。
つう、と地面をなぞってみる。
露を塗した草木を千切って、投擲用の釘に変える。体勢は全く維持したままで、己の指を弓に見立てて得物を番えた。焦燥のあまり手を滑らせ、親指の腹を薄く裂いた。半透明の凶器に霞んだ紅が染みついた。
「同族の紅を得物に塗るには、特別の覚悟が必要だぞ。下準備なしに試すものではない……ゆえに、手引きをひとつ与えてやる。じっくり考えてみるといい」
神父はこちらを顧みず、じっと虚空を見つめて続けた。
「《獣を屠り、境界を破り、人を殺したその時に、汝は如何なる旗を立てるか》?」
説法めいた台詞の意味の片鱗を、私は遅れて把握した。
「確かな答えを手に入れたとき、我々は邂逅するだろう。旅路の果て、お前たちが向こう岸に立つならば──このデクラン・クアーツユ、全霊を以て対決しよう」
木々の輪郭に溶け込むように、デクラン神父は消失した。
予言を反芻しようとして、アディユが激しく咳き込んだ。
〈Ⅵ〉
アディユが不調をきたしたのは、神父の魔力が原因だった。本来、魔力は外気との均衡を保って循環する。そのバランスが崩れれば、伴って心身のリズムも乱れてしまうのだ。
ただ、外的要因はもういない。休息に半刻ばかり割いたところで、アディユは平生の調子を取り戻した。
寧ろ、神父の影響を今なお受けたままなのは、私のほうだと言ってもよかった。
「……らしえ、ぐらしえ。ねえ、グラシエってば」
アディユに肩を揺さぶられて我に返る。
軽い謝罪を挟んでから、これではどちらが不調なのか判りませんね、と呟いた。
「神父が気がかり?」
「ええ。あの言葉の意味を考えていたのです」
はてな、とアディユが首を傾げるものだから、私は神父の題目を諳んじた。そこでアディユが《《人ではない男》》を屠ったのを思い出し、彼女があの時、何を考えていたのか問うた。
「私にとって、昨日の殺しは、狩りと大して変わらなくってね」
「どういう意味です?」
「動物を狩るのは命を食い繋ぐため。竜人を殺すのも、畑を守るためだから──糧を守るためってことで、やっぱり、生きていくため。それと同じだよ。私が殺していなかったら、死んでいたのはこっちでしょ?」
草木をかき分け、小石を蹴飛ばし、倒木の上に飛び乗って、アディユは私を見下ろした。前髪の隙間から零れる無機質な眼光は、女の額を射抜いたあの矢と、何も変わらないなと思った。
「……殺してみなくちゃわからないけど、同胞は堪えるだろうね。グラシエが命じてくれなくちゃ、殺せないかも」
──アディユは、微笑を浮かべて答えを結んだ。
とっても、歪んでいる。
その表情が呆れるくらいに身に染みたから、私も不意に笑ってしまった。
「私が頼んだら、あの神父も殺してくれる?」
「やれると思う。グラシエが一緒なら、確実にね」
口の端を僅かに下げて、アディユは弦をそっと弾いた。響き渡った間抜けな音は、同時、命を奪える音でもあった。
だから、ヒトとはつくづく脆いものだ──こんな腑抜けた旋律にさえ、容易く殺されてしまうなんて。
二人で、また、笑い合った。
…………ははは。
芯まで凍る冬の風が、くだらない笑みを嘲笑っては彼方に消えた。
それから、意味のない愚痴を慰めにして、相当な距離を歩行した。
「ねぇ、アディユ。こっちの道でいいんですよね」
「たぶん。勘だけどね」
「当たるんですか、それ?」
「剣の在り処を隠しているのが妖精なら、考えたって仕方ないからね。でも大丈夫、直感なら誰にも負けない」
アディユは流し目に私を捉え、おどけた様子でサムズアップを作ってみせた。
「それにしても、湖畔地方と銘打っておきながら、肝心の中心地には誰も辿り着けないなんて……困ったものですね」
「この調子じゃ、剣も抜けないくらいまで埋まっちゃってるかもね」
私の半歩先を行きながら、冗談めいたことを言って、アディユはふと口を噤んだ。
遥か前方の景色を捉えるその双眸は、硝子から成る筆記具の先端——窄めた口を研ぎ澄まし、余計なものを真ん中の膨らみに蓄えた、硬い飴細工のように煌めいている。
かと思えば、彼女は突然前方に向かって駆け出した。
「ちょっと、アディユッ」
私は慌てて後を追う。
息を切らして立ち止まり、呼吸を整えてから顔を上げる。いつの間にか、私は森を抜け出していた。
目線を移せば、ひとつの光景に行き当たった。
そこで私は、アディユの天賦の才を悟った。
「……嘘、でしょう?」
青と蒼の水の狭間に、ひとつの巌が聳え立つ。
人の息吹を感じさせないその領域に、天蓋から僅かな光が差している。
──積み重なった歴史の層を貫いて、《きぼうの剣は、孤独を享受し佇んでいた。




