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第7話 ゆがんだ泉

〈Ⅴ〉


 まだ年端もいかぬ頃、家族で湖畔地方を訪れたことがあった。

 なだらかな草原をゆったり歩いて、色とりどりの花々をかき分ける。私を導く妖精の声は、いつしか小鳥のさえずりに代わっている。それに気づいたかと思えば、心安らぐ水辺の香りが鼻腔いっぱいに飛び込んでくる。


「ねえ、グラシエ」

 

 あの時目の当たりにした泉は、筆舌に尽くしがたい美しさを携えていた。、それ自体、まさしく楽園の象徴だったのだ。──だったの、だけれど。


「……これが、泉?」


「そのはず、ですが」


 そこには、寂れた自然があるだけだった。

 地図と方角は常に気にしていたので、場所を誤った可能性は低い。

 けれどその道程には、絶えず違和感が付きまとった。

 記憶の上での緑の平野が、湿気を纏った薄暗い森林に入れ替わっていた。歩き進める間にも、日陰でだらだら育った蔦や、ぶくぶく太った木の根っこに、何度も何度も足を取られた。

 挙句の果てには、至るところを竜人たちが跋扈していたのだ。


「一体、何が起こっているのです。そもそも、エルフ以外は立ち入れないという約定のはずですが……」


 泉は土くれの下で縮こまって、何も答えてはくれぬまま。

 荒れ果てた土地に刻まれた大小さまざまな足跡だけが、全てを物語っているようだった。

 

「前にグラシエが来た時期ってさ、中等科よりも前だったのかな」


 泉に浮かんだ枯れ葉を掬って、アディユが私に問うてくる。

 水面(みなも)を覗き込んでみても、首肯する私の表情は映らなかった。

 

「確か、初等教育の終わりかけだったと思います」


「魔王軍の受け入れが始まったのって、いつからだったっけ」


「中等科に入る頃だったかと。詳しい年数は覚えていませんが、人間の数世代に相当するはずです」


「数百年ってことでしょ。そんだけ絞られたらさ、泉が枯れてもおかしくないよね」

  

「魔王が関わっているのだと言いたいのでしょう。しかし、根拠に欠けませんか。資源が蕩尽(とうじん)されたとして、誰も抗議しないなんて」


 そう口に出してみて初めて、私はひとつの可能性に行き当たった。

 アディユもまた、同じ角度で事態を見ていた。

 

隠蔽(いんぺい)されてたっておかしくない。隣町のことなのに、古代兵器(ドラゴン)のことだって知らなかったんだからさ」


「泉が退廃していくのを、先代女王は認めていたのでしょうか……」


「グラシエ、悪いんだけど」


 アディユが弓に矢を噛ませる。

 速射の得物は低く唸って、明後日の方を()めつけた。


「推論は後にして。──たぶん、証拠が掴めるから」


 魔力を孕んだ流星が木々の向こうで影を射止める。

 それが敵の類だと知ったとき、アディユは既に矢の方へと飛び込んでいた。

 遅れて私が入るや否や、醜い叫び声が響く。敵は二人だったけれど、うち一人は顔を失い、物言わぬ亡骸へ化けていた。

 アディユはもう一人の男の上に馬乗りになっていた。手には射終えたばかりの矢が握られていて、その先端は男の喉仏に向いている。 


「何してんだ、お前」

 

 ぱくぱくと口を動かすだけで、それは人語を吐かなかった。人の類ではないのだろう。

 真っ黒な肌の上から眼球の内側にかけてまで、紫紺の刻印が迸っている。その足元で、(へり)に転がる壺から泉へ、黒々とした泥水が注がれていた。私は本能的な悪寒を悟って、すぐさま壺を凍らせた。


「……無駄ですよ、アディユ。恐らく、言葉というものを解していません」


「まさか。本当に解ってないんなら、こんな風に笑えるわけない」


「表情を読み取って、対応する顔を作っているのですよ。人類にしてみれば気味の悪い行動ですから、──こんな風に、隙を作るための囮にされるのです」


 氷の剣を作り出す。

 彼方からアディユの背中に至らんとする悪意の魔弾を、私は一息に両断した。

 ひゅ、と息を零す友をよそに、切っ先を暗がりの先へ向けた。


「魔王軍でしょう。出てきなさい」


 茂みの奥から現れたのは、皮膚の代わりに毛皮を有した小太りの男。その顎からは鋭い牙が突き出ていて、垂れた耳は人のそれより遥かに大きい。


「いかんなぁ、《()()》。許可証もないのに泉に近寄るなど、嬲られても文句は言えんぞ」


「この国の民たる我らエルフが、この国を好きに歩いて何の問題があるのでしょう。出ていくべきは、おまえたち部外者ではありませんか」


「生憎、お前たち《()()()》女王が魔王との間で決めたことだ。……いや、これは機密事項だったか?」


「女王陛下が決断されたのは、泉を壊すためではない。ましてや貴様のような醜い豚を、のさばらせるためでもない」


 豚は顔面を歪ませる。

 瞳の奥に醜く鎮座する慢心が、滑稽な怒りに変わっていくのが見て取れた。


「仕方ない、殺すか。聞かれた以上、どうせ生かしてはおけぬしな」


 牙の下で男の鼻息が荒く震える。

 

 ──私は、わざとらしく小首を傾げた。


「その足でも、動けるのですか?」


「は?」

 

 右手に握った氷の剣から、命の雫が滴り落ちる。

 豚の身長が足首の分だけ縮んだ。地を這う芋虫となって初めて、彼は己の敗北を知った。


「な、何。この、儂に。なにを。何を、何をッ、なにをしたッ……?」


「お喋りに夢中でしたので、その隙に少し。でも、凍らされるより痛くないと思いますよ」


 巨体を胎児のように折り曲げて、豚は唇を震わせる。

 最低限の知能を持つ相手なら、毎回直に戦う必要もない。隙を衝いて動揺させ、虚構であっても実力差を演出してやれば済む話だ。


 力で抵抗できないと解った途端、奴は私たちを罵った。


「こんなもの、ま、魔王に対する宣戦布告だ。儂を傷つけたことが知れれば、こんな小国はすぐに滅びる。そ、そう、そうだ。汚らわしい、売女の、せいで」


「もういいよ。喋んな、お前」

 

 豚の掌から血飛沫が舞う。二人分の血で汚れた得物をぐりぐりとかき回しているうちに、力が籠っていたのだろう、矢が半分に折れてしまった。片割れは掌にそのまま残った。


「……身の振り方次第では、生かしてあげても構いません。今日のこと、黙っていられますか?」


 男は首を縦に振った。 瞬間、彼は弱肉強食(けもののおきて)に屈服した。

 私は挑発的な笑みを浮かべ、アディユを連れて踵を返す。


 豚が生類たることを辞めたのは、まさにその時のことだった。

 

「この儂が、猪大公たる儂が。小娘なんぞに、敗れるものか!」


 獣は瞬きの間に私たちへと肉薄する。

 間に合わせの対応では躱しきれないと判断して、負傷を承知で前に出る。大気を凍らせ盾を突き立て、衝突の直前で私は言った。


「──《()()()()》」


 呟きに引き寄せられるかのように、光で編まれた三つの刃が着弾した。それらは悉く猪の急所を射抜いていた。

 猪は激しく横転して木々を巻き込み、大岩にぶつかって生命活動を停止した。


「あんた、は」


 呆気に取られていたアディユも、その衝撃で我に返った。

 

「何かね。如何なる場においても殺害は法に(もと)る行為だ。ゆえに泉の意思の代行者たるこの私が、君たち二人に代わって神罰を下したまでのこと」


 説法じみた言葉をつらつらと並べ立てながら、遅れて魔法の発動主が現れる。

 特徴的にしわがれた声と、雪の亡霊を想起させる背姿の男は、記憶の中にただ一人。


「しかし、私の助言を聞いてくれたのなら結構。あらゆる善行の根幹には、敬虔な心があるものだ」


 ──暗がりの中に、紅い眼が浮かび上がった。

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