第2話 青く、あおく、凍れるみち
〈Ⅰ〉
その夜は、酷く寒かった。
野ざらしの耳は冷たくて、ひりつく痛みが頭を揺らし、思考力を鈍らせる。
「まだ、来ないのかな」
広場裏の街灯に身を預けて、私はアディユが来るのを待った。
もう雪は降っていないけれど、それが訪れた形跡は残っている。立ちっぱなしで疲れた足を動かすたび、濡れた草木がべちょべちょと抗議の声を上げた。
夜の帳が下りる頃、鐘が鳴った。
広場にだって通りにだって、人っ子一人見当たらない。
外には害獣が湧いて出るから、遅くなってもこの時間には帰宅すること。それがこの町のルールだった。
そんな折、雑草が再び足蹴にされた。
「遅刻ですよ、アディユ」
「はは。ごめんごめん、畑に竜人が入ってきちゃってさ。駆除、やらされてたんだ」
弓を携えたアディユの頬は、害獣の血に染まっていた。薄暗い光のもとに浮かんだ笑みは、どこか妖しい様相を呈していた。
「こんな夜に、災難でしたね。血は拭っておきなさい。後で病気になっては困ります」
懐から出したハンカチで友の頬を拭いてやる。くすぐったそうに目を瞑って、アディユは笑った。
「優しいね、グラシエは。いい王様になれるよ」
「そう、ですか。期待には、応えなくっちゃいけませんね。魔王にだって負けないくらい、強くて優れた王にならなきゃ」
「魔王っていっても、海の向こうの王様でしょ。そんなに意識することかな」
「貴方の畑を荒らした竜人も、昔は国を持っていたのですよ……魔王に滅ぼされて、獣になってしまうまでは。奴がもたらした災いの跡は、確かに残っているのです」
魔王。
世界統一戦争を引き起こし、千年後の今に至って、確固たる連邦制を築いた王。あらゆる国に対して影響力を持つ者。
この国に、奴が関わっていないはずはない。
旅路の何処かで彼の影を追うことになるのだろうと、私はある種の確信を持っていた。
「なら、尚更変えていかなきゃね」
アディユは微かに顔を曇らせる。
けれど少しの沈黙の後、その込み入った感情は、一つの意識となって収束した。
「どうせなら、農民丸ごと変えてやるんだ。あんなクソみたいな親父は、私の代で終わりにする」
古びた木弓を強く握って、アディユは怒りを露わにした。なお輝かない無色透明の瞳には、確かな決意の色があった。
「歩きながらでいいから、ひとつ、訊かせてもらえますか」
ランタンの内で蝋燭を灯して、深いふかい森の奥へと歩き出す。
アディユは矢筒を揺らして数を確かめ、私を追って駆け寄ってきた。
「いましがたの貴方の決意は、魔王の話を聞いた後に思い浮かべたモノですよね」
「うん。そうだね」
「だとすれば。どうしてあの時、貴方は戴冠式を壊そうなどと?」
「言わなかったっけ。私にとって、この旅は逃避行だからさ。クソみたいな今の生活を捨てられるなら、正直、なんだってよかったんだ」
薄氷を踏み砕き、アディユが私に並び立つ。
視界の端を影が走った。
「それで友達の願いも叶えられるなら一石二鳥。もっともらしい理由も見つかったしね」
「……私は野望に命を賭ける。私の隣を征く限り、死は常に隣にいるのですよ」
「長いだけが人生じゃない。グラシエのためなら、何を捧げたって惜しくないよ」
平然と告げられたその言葉は、やはり冗談にしては面白みを欠いていた。
決意など、口にするのは簡単だ。
けれど、青く無謀な選択には、修正の利かない残酷な後悔がつき纏う。
幾戦幾億の歴史が、物語が──栄光の陰で事切れた英霊たちの魂が、その事実を体現していた。
「いいんだね、アディユ。私、二度と止めないよ」
茂みが乾いた音を立てて、足蹴にされた大地が震える。人の形をした獣が二匹、四方を素早く駆け巡る。
頼れる灯りはひとつだけ。
アディユは迷わずに矢を番えた。
「いいよ、グラシエ」
竜人の吐息が近づいてくる。
凍えて感覚のない耳に、死の足音が割り込んだ。
「私は二度と止まらない」
──ひゅん、と闇が夜を裂く。
草木が赤い雨を啜った。頭蓋を貫かれた哀れな獣は、間抜けな遺言を残して息絶えた。
「そう」
耳を掠める死の一振りを軽く躱す。
宙を舞った竜人の棍棒は、凍りついて動かなくなった。
「なら、今日は隣町の教会に泊まりましょう。明日からの方針を立てるのです」
獣は四肢を氷に繋がれ、凍った喉で軋んだ悲鳴を絞り出す。
その殺害は、胸を針で突かれるよう。
苛立ちを全部誤魔化すように、肺にめいっぱい冷気を取り込み、一息で竜人に吹きかけた。
そうして出来上がった氷像を、邪魔だとばかりに蹴り倒した。
竜人は嫌いだ。
歴史に押しつぶされたのに、自分が人だった時のことを、微塵も忘れてはいないから。
下賤な咆哮で傷を隠している癖に、殺されそうになった時だけ仮面を外して。
いつまでも、いつまでも。
私の旅を止めようとするから。
「一撃で仕留めちゃえば、お互い痛くないのかな。その点、アディユは上手だね。……どうかした?」
友人は曖昧に誤魔化した。
けれど、その頬を汗が伝い、瞳が曖昧に震えたのを、私は確かに、この眼で捉えたのだった。
◇
教会に入るのは容易かった。
森で逸れた行商の娘と偽れば、お人よしの神父はすぐに、寝床と食事を設けてくれた。
灯りもなく薄暗い聖堂の中で、今後のことを話し合った。
第一に、予想される戴冠式の状況について。
当日はきっと、無数の護衛が厳戒態勢で王都を守護することになる。
女王の首に喰らいつくためには、彼らのうち少なくとも三割以上を蹴散らさなくっちゃいけないだろう。
第二に、必要とされるもの。
護衛を壊滅させるに足る戦力。
それも襲撃を悟られないように、単体で異次元の力を誇る何者か。或いは、それに匹敵する魔法。
兵力が整ったら、次は民衆を惹くカリスマ性。伝説的なエピソードが要る。
教会に着いたのが遅かったので、ここまで話す頃にはもう、夜闇も深まりきっていた。
続きは明日に回すことにして、私たちは会議を終えた。
「そろそろ寝ましょうか。二段ベッドだって聞いてるけど、アディユはどっちがいい?」
「もちろん下で。グラシエはさ、女王様らしく──」
誰かの気配を察知して、咄嗟にアディユの口を塞ぐ。聖堂の木扉が重い音を立てて開かれて、誰かの革靴と教会のカーペットが接吻した。
異様な緊張が私たちの間に迸る。
燭台に照らされた男の白髪は、歳のためにか乱れている。荒んだ肌に落ち窪んだ眼は暗がりの中に浮かび上がって、一層不気味の念を引き起こさせる。
けれど男は、穏やかな微笑をたたえて言った。
「君たちの旅路に、絶え間なき祝福があらんことを」
真紅の瞳が、月さながらに煌めいた。




