第1話 はじまり
この世に生を受けてから、幾度目かの冬が来た。
生誕の日は覚えていない。
肌寒くなる頃だったか、凍えるような季節だったか、花盛りを前にした時分だったか。
とにかく、冬に生まれたことだけは確かだった。
そんなことは些事だと思ってしまうほど、長い人生を過ごしてきた。
毛布を蹴飛ばしてカーテンを開く。
露っぽい窓をそっと撫でて、濡れた指先で手鏡を弄った。
鏡像の私は、ぞっとするほどに青白い。
死んだのかもなと推し量り、ありえないと頭を振る。伸び切った髪はざらざらと、汚い雪のように流れていく。
色素の薄い髪も肌も、私たち、この国のエルフの特徴。
ごん、ごん、ごん。
朝を報せる三度の鐘は、三つの種族のためのもの。
はじめの鐘は、いちばん多いエルフのために。
にかいめは、買い物好きな人間を、仕事へ連れゆく招待状。
さいごの鐘は、まるでドワーフの金槌みたいに。
すべての音色が重なって、鐘撞き堂は大合唱。
音の出所を仰ぎ見れば、この国に住まう全ての人々の平和を願った、ひとつの記念碑が目に留まる。
『──イヴェール王国:女王即位二百年記念』
太陽を浴びて、金に煌めくその文字が、何故だか今日は銀のように、ひどく冷たく感じられた。
「講義、今日だったっけ。……ま、いいか。どうせ誰も聞いてくれないもんね」
机の上には、置きっぱなしの角帽と、くしゃくしゃに乱れたアカデミック・ガウン。それを横切った瞬間に、私は魔法大学講師としての責務を捨てた。
エルフの持つ長命を活かして、知識を積み重ねてきた。その努力を買われて、若輩ながら大学の講師に任じられた。
はじめのうちは、思いのままに奔走した。エルフと人間とドワーフと、皆が手を取り、笑い合って生きていける、この世界を、未来でも守ってほしかったから。
忘れてはならない戦いの記録。差別の生んだ迫害の歴史。そういったものも、忘れずに運んでいってほしかった。
三種族の協和が真新しかった時代には、私の言葉は皆に届いた。
けれど、時が経つにつれて、戦いというものは遠のいて、惰性が人々を呑み込んだ。
すぐ傍で眠る死者の声より、単位の取得が大事な時代がやって来たのだ。
顔を洗って私服に着替えて、部屋を彷徨って躓いた。平積みにしていた歴史の教科書が、机の下の隙間に消えた。拾うのも厭になってしまって、ため息と共に窓を開けた。
「わぷっ」
流れ着いた新聞が、私の視界を覆い尽くす。芯まで凍えるほどの冷気と、困惑を孕んだ学生たちの囁きが、耳元で小さくこだました。
「やや、ごめんごめん。手が滑っちゃって」
「……アディユ。あなたでしたか」
私の顔から新聞を剥がして、苦笑したのは三つ編みの似合う大親友。おしゃべり好きな農家の娘、アディユ・トゥータ・クー。
「ところで、農場はどうしたのです」
「ふふ、逃げてきた。王都から役人サマが来てて、親父の畑は大騒ぎでさ。ほら、来月から異種族の税率が上がるでしょ。うちの小作農、戸籍の上ではみんなエルフだから」
「税率が上がるのですか?」
「そうそう、その話をしに来たの」
こちらの疑問に答えるように、アディユは先の新聞を開いた。
私が内容を掴むより早く、彼女は見出しを音読した。
「『号外。女王ジラーチ、即位二百年目にして退位表明、新女王を指名か』……だってさ」
「少し、早すぎやしませんか。あの方は、まだ三百歳ほどでしょう」
乾きかけのインクの上に目を走らせようとして、突然紙面が翻された。
「私にゃ細かいことはわかんないよ。けど、巷で話題なのはこっちね」
印字されていたのは布告の写し。
アディユの言うように、徴税に関するものだった。
──私たちと、人間およびドワーフを、決定的に引き剥がすような内容だった。
◇
布告
新女王の即位に際し、以下の通り政務を行う。
一、全国戸籍の刷新により、民族の選別を実施する。過去三代において純血なるエルフを《《通常民族》》とする。
二、政策遂行のため、年二回の大規模徴税を恒久化する。通常民族は従来同様の額を金納せよ。純血のエルフたらざる《《異常民族》》は、通常民族の三倍の額を金納せよ。納付不能の場合には、直ちに己が血を代価と為せ。
三、以後、布告の更新を除き、この徴税方式は改変されない。
四、本法は、一か月後に執り行われる新女王の戴冠式当日より施行される。
◇
「冗談、ですよね?」
新聞の端をくしゃりと歪めて、私は小さく嘆息した。眩暈のするような思いだった。
「本気っぽいけどねぇ──ま、でもさ、よかったよね。私たちはさ、今まで通りなんだから」
「いけませんよ。そういう考え方が、差別をよみがえらせてしまうのです。それだけは、許しちゃいけないことですよ」
何が問題なのかを解さないまま、アディユは軽く首を捻った。
「どうしてさ?」
「中等学部の歴史でも習ったでしょう。差別はいつか迫害に変わって、社会を壊してしまうのです。……私たちは、その諍いから、抜け出せたばかりなのですよ」
「出た、大陸千年史」
「アディユ。真面目な話をしているのですよ?」
「解ってるよ。けどさ、かわいそうだって思っても、何もしてあげられなくない?」
「それは、目を背ける理由にはなりませんよ。エルフたる私たちの方から、声を上げていかなくては駄目です」
はへぇ、とアディユは感嘆じみた声を漏らした。
楽観的でものを深く考えない彼女のことだから、事態の重さに、まだ気づいていないのかもしれない。
それはそれで、否定するつもりもなかった。
なかったの、だけれど。
「だったらさ。——戴冠式、壊しちゃえばいいんじゃない?」
アディユの提案は、冗談と呼ぶには面白みを欠いていた。
世の中に叛くこと。
失敗すれば死は必定。アディユの言うように、皆に倣って人間たちを憐れんでおけば、明日も変わらず生きていられる。
けれど、ひとりが生きるその裏で、二人以上の誰かが死ぬことになるだろう。
今や何の役にも立たない私に、それほどの価値があるのだろうか。
他人の死から目を背けて、悪漢に冠が渡るのを、見過ごしてもいいのだろうか。
——見過ごせばいいじゃん。
昨日の私も、今日のアディユも、きっとそうやって答えるだろう。
けれど、歴史が叫ぶのだ。誰も読まない古びた図書に、予言の如く書かれた結末。それを避けられるのは、この活字を啜ったお前以外にはいないのだと。
誰にも届かぬ死人の声を、拾ってやれるのは私だけ。
誰もが手を取り合える世界を、守り抜けるのも、私だけだ。
「そうしよっか」
アディユは眉一つ動かさない。
色なき硝子の瞳の奥に、爛々と燃ゆる私の像が映り込んだ。
「戴冠式をめちゃくちゃに壊して、女王の冠を奪っちゃおう。悪いやつらは、みんな玉座から蹴落とそう。そして私たちの手で、理想の国をここに建てよう」
アディユに向かって手を伸ばす。
豪く強気で、子供じみた理想論だと、心のどこかで冷笑する自分がいた。
無垢な言葉に、刃を貼ったようなものだった。軍人か殺人鬼が聞いていたら、きっと一笑に付しただろう。
自らの手で殺人するのと、口で殺人を唱えるのは、全く別のものなのだから。
けれど、アディユは違った。
「面白いこと言うじゃん」
蝋燭のように曖昧で、しんしんと降り積もる雪のように、穢れを知らない白磁の指。それに包まれた私の手は、とても暖かいものだった。
「逃避行なら、どこへだって付き合うよ。それがまだ、《《生まれていない国》》だとしてもね」
その時、冷たい風が吹いた。
がたがたと窓が打ち震えて、アディユの抱える新聞が攫われる。
咄嗟に手を伸ばしてみたが、雲間に消えていくその紙切れを、私は取りこぼしてしまった。
「そう、ですか……なら、夜の鐘が鳴る頃に、広場の裏で落ち合いましょう。定刻を過ぎても来なかったら、また迎えに行きますから」
「了解。ふふ、じゃ、またね。グラシエ」
アディユが去って、入れ替わるように小雪が落ちる。
この国において、雪は珍しいものだった。だから私は、窓の外をじっと眺めていた。
ちらちらと舞っては世界を霞ませる純白の結晶。
燦々と照り付けてくる鬱陶しい太陽も、雪の前ではただ無力。
全てを覆い隠してしまうこの幕は、とても心地のよいものだった。
私は、やはり冬に生まれたのだろう。こんなにも愛おしく感じる季節、他には無いと断言したっていいくらいだ。
◆
──だから私は、その間違いを正したい。
憎たらしい銀の屑など、何の価値もないのだから。




