人間理性の射程
現代の人間達は、神や聖霊が存在しないと言う。神や聖霊が存在しないと認知している。なぜなら、そう思いたいからだ。そしてそう思いたいから、彼らは、実は日常の道端に神や聖霊が転がっていても、単に「馬鹿」だと認知して嘲笑し無視する。なぜなら、そう思いたいからだ。なぜ、そう思いたいのか? それは、そう思うことが自己の利のために好都合だと理性が判断したからだ。しかしその自己欺瞞は実際には全世界的に結合していて、客観的には、部分の利のためにすら合理的ではない。つまり、理性が判断を行っている射程がひどく短いのだ。これではまるで、「馬鹿」だと認知された対象が馬鹿なのか、認知した主体が馬鹿なのか、わからなくなる。それはまるで、貧乏人が富裕者を眺めてそのみすぼらしさを嘲笑っているようなものだ。すなわち、現代における自己欺瞞と言説支配の動的平衡は、人間という生き物の知的能力の限界の反映にすぎない。そして人間達のその構造は、人間達自身の幸福のために「そこそこ合理的」な妥当性からどこまでも遠ざかっていく運命にある。いつか自動的に「目が覚める」理由は、これまでそうだったように、これからについても何も見当たらない。
神はいつもそこにいた。なぜなら、「利を逸脱した部分」そのものが神だからだ。そして神はいつも、すべての人間達を愛してくれていた。神が人間達を見捨てたのではなく、人間達が神を裏切ったのだ。神の愛に感謝し尊敬することをやめることによってである。人間達は、神が自分達を助けてくれたことなど一度もない、と嘆いてみせながら、今日も聖霊を注がれて地上にもたらされる者達の首をその手で刈り取っている。まさに愛されていながら、「いやあ私って愛されてないなあ」と呟くことに酔っている。最も美しい者達に最も大きな苦しみを注ぎ込みながら、自分達こそが最も善良でかつ哀れであると涙を流す。自己憐憫のなかで腐敗しきった魂、それは客観的には、加害的な暴力性の結晶だ。
このような状況下では、「利を逸脱しない利他」という感情的な反応には、もはや事態を打開する力はないと断言せざるをえない。そして逆説的に、感情的な認知に先立って理性が作用するという人間脳の構造は、人類幸福を防衛するための最大の武器にもなる。なぜなら、「利を逸脱した部分」こそが社会的な価値の重大な核心であるとする理性的な線引きを自らの認知に課すなら、人間存在における自己欺瞞と人間存在の集団的な自己欺瞞の可視化を引き起こすような、「神の目」をその者に授けるからである。神の目は神を目撃させ、魂の豊かさにおける人類の貧困を目撃させるだろう。そしてそのような視座からすれば、現代の人類のほとんどが認知できていないような世界と世界史の現実を、かくも網羅的かつ論理的に言語化できる。そして私は断言しよう。もしも神の力に心底から謙虚に頼るならば、紛争地の貧しい孤児一人の意志によってすら、腐敗しきったこの世界を一変させることができる。