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尊敬と感謝

現代の人類の社会で、「利を逸脱した部分」を実践した者は、どうなるか? 「世間知らずのナイーブな馬鹿」だと思われる。「子供のように幼稚な警戒すべき異常者」だと思われる。なぜか? そう思いたいからだ。人間という生き物がする認知については、理性が先立って「そう思いたい」ものを認知させる。そしてその自己欺瞞は、集団的に実行され社会的な文化として累積する。いかなる親切を受けても、「利己的な下心を隠して近づいてきたから跳ねのけてやった」ということにすれば、恩を仇で返した恥辱を自ら背負う必要はなく、むしろそんな行為を行った他者に恥辱を背負わせることができる。富裕者に親切にされても貧乏人に親切にされても、「私を利用しようとしてきただけ」だと思えば、人間は、誰一人に対しても尊敬も感謝もせずに生きられる。客観的にはどんなに莫大な慈悲を注がれても、実は最もみすぼらしい自分を、主観する認知の内側では、玉座に座らせておくことができる。


その意味では、人間は、尊敬や感謝をすることをやめた。「利を逸脱した部分」によって関与を受けたとき、自らも「利を逸脱した部分」によって返礼する習慣をやめた。利を逸脱して他者の尊厳を尊重し、つまり尊敬や感謝をすることで、「利を逸脱した部分」について社会的なネットワークを形成して連帯を維持する文化を放棄した。一方で、「利を逸脱しない利他」としての尊敬や感謝は、外見的な儀式として継続している。例えば、富裕な成功者への迎合を表明する意味でだ。だから人々は今や、貧乏人や孤児から親切を受けても尊敬や感謝の感情をほとんど催さない。利他的な貧民に利己的な自己よりも上位の尊厳があるという事実を認めることは、玉座に座らせてきたはずの利己的な個人主義を否定することであり、利に迎合する者の尊厳をいかなる富裕者すら含めて道化のように劣位に配置することになるからだ。


あるいはある者は、自らの周りには「利を逸脱した部分」において尊敬や感謝をすべき対象など一人もいない、と言うかもしれない。しかしそうだろうか? 今まで生きてきた人生においてただの一度も、打算に由来しない親切を受けたことがなかっただろうか? すべての親が子を道具だと見なしているだろうか? すべての教師が単に賃金のために生徒に接し、すべての図書が打算のための手段としてだけ書かれているだろうか? あなたは哀れかもしれないが、より哀れな境遇のなかで人生を終えた魂はないか? あなたに劣らない困難を前にして、なお勇敢に戦いつづけた戦士達は、歴史上一人もいなかっただろうか? 言説支配においては理念上は人々の行動が打算で説明できるとされているが、現実の人間行動の大半は手段的には説明しきれない。聖霊は実在であり、聖霊と遭遇したことのない人生なるものはほとんどありえず、したがって、「尊敬や感謝をすべき対象などない」人間はいない。独房に幽閉されてもなお人間は、神を尊敬し神に感謝すべきだ。なぜならそれが、「利を逸脱した部分」を実践する生の形式だからである。

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