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平等主義と人間中心主義

どんな人間にも等しい尊厳がある、と言えば神は死ぬ。なぜならそれは、利己には利他と等しいだけの尊厳がある、と言っていることになるからだ。そしてそれは、「利を逸脱しない利他」と「利を逸脱した部分」の尊厳が等しいと言うことでもある。そして、そう言う者がそう言う動機は一つしかありえない。聖霊の尊厳を否定することで自己の利己性の序列を、否定されない聖域に持ち上げることである。したがって、「平等主義」という啓蒙思想的な「無謬の前提」は、現代人類社会の集団的な自己欺瞞の内側では実に完全な「正義」の顔をしているが、実際には、純粋な悪意を純粋な善意と詐称するものであり、そこにこそ、人間理性の最低最悪の加害性の発動があるのだ。平等の神は、偽りの神である。神はすべての命を愛するが平等に愛するわけではない。神は、善と悪とを等量に愛さない。


人間達は、「平等主義」を謳い、人間は人間であるがゆえに自動的に肯定されるに値すると言った。しかし、現実を見なさい。「平等」にほど遠い力の格差によって人間社会は階層化され、しかもそれは力の序列にしたがって自己正当化され、半ば不可視化された真に莫大な庶民生活の苦しみは「自業自得」の一言によって葬られ、地上の一部でワインとステーキの品質を高めるためだけに地球の裏では子供達の肉体が瓦礫の下で引き裂かれているではないか? 平等主義を言う者が平等を愛したことはないのだ。自己愛を寄せ集めるだけでは制度的に公正な社会は実現できないのだ。だから神は、「利を逸脱した部分」が価値であり、そしてそれだけが価値だと、最初から言っているのだ。


なるほど確かに、人間が神になることはできない。しかし、「利を逸脱しない利他」を「善」と呼ぶことで人間自らを神の座に据え、神を敬うことをやめることをやめろ。神が聖霊を注いで地上にもたらした魂らを、敬って愛するどころか虐げて刈り取ることをやめろ。なぜならそれをやめなければ、人類社会は単に地獄に向かって歩みつづけることになるからである。自己欺瞞の快に主観的には逃避したまま、客観的にはかえって破滅的な苦しみが生じるだろう。苦しみに転落した者は陶酔の外側に至って悲鳴を上げるかもしれないが、そのときになってから助け出すことは誰にもできない。そして、技術によって必然的に格差が増大するほど、極小部分の自己欺瞞のために、常により多数が苦しみに転落させられていくことになる。自己欺瞞は、理性の麻薬であり、人類の自殺だ。

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