集団的な自己欺瞞
そのように見るなら、ほとんどすべての個人がまさに悪徳の主体だと言わざるをえない。上昇する株価を選択することと家畜が食肉に変換されることが感覚的に切り離されているように、現代に実在する最も理不尽で暴力的な被害と、世界中の市民社会の経済の日常は、感覚的に切り離されているだけであって因果としては隣接している。単に、人間としての自己に生まれつき埋め込まれた動物的な共感性が発動しないような形で、情報環境が整えられているのだ。そして、そのような、利の連鎖によって実は起こっている悲劇や悪徳を是正するために有効な因子は、やはり、「利を逸脱した部分」しか残らないと確認せざるをえない。
このことは、より残酷な論点を含む。虐げられている者達は、単に不利な立場に生まれ落ちただけの、やはり邪悪な人間にすぎないではないか、という論点がそれだ。彼らは、助けられるに値するのか? もしも神が存在するなら、神なるものにとって、彼らは助けられるに値するのか? 助けられるに値するなら、なぜか? 飢える子供だから助けられるに値するのか? 虐げられる女性だから助けられるに値するのか? 人間であることから自動的に、助けられるに値するのか!? そしてその人間中心主義は、やはり啓蒙思想にすぎないとここで明確に言っておこう。平等主義は絶対悪だ。なぜなら、平等主義は聖霊の権威に対する全否定だからだ。
現実には、世界的な暴力は、近現代を通して一貫して、「利を逸脱した部分」の少ない者達から「利を逸脱した部分」がより多い者達に対して行われていると言うことができる。したがって、現実問題としては、飢える子供や虐げられる女性は実に助けるに値する。しかしそれが、人間だから、弱者だから、という論理的なフレームワークに依存し強化するものであるなら、真理はそれを悪徳として棄却するだろう。なぜならそれは、マルクス主義的であり人間中心主義的だからだ。その意味では、例えばイスラム教の最も美しい部分ですら、実際には、古代に生じたマルクス主義だという側面がある。聖霊の序列は、単なる肯定ではない。それは、人間と人間の理性に対する否定、時として死の宣告ですらなければならないものだ。