国際資本と言説支配
社会的な生き物である人間の理性は、認知に先立って利害を嗅ぎ取り、何を共感性の内部・外部に置くかを判断したうえで、その加害的な精神的暴力性を自己正当化する仕組みを備えた装置だ。しかしそうではない部分つまり聖霊も今なおほとんどの人々に内在していて、利を害しない範囲では人々は利をもたらしもしない親切を能動的に行うし、子供や動物が苦しめられている現実が利のために必要でないなら助けようともする。しかし、技術発展によって力の格差は増大しつづけ、利害を優先するものである人間脳は、潜在的な恐怖支配を通して世界的に組織化された。正義ではないものが「正義」と呼ばれ、幸福ではないものが「幸福」と呼ばれ、卓越的尊厳でないものが「卓越的尊厳」だと呼ばれる言説支配(narrative control)が人類社会を覆った。
言説支配の頂点としては、一言で言えば「国際資本」(global capital)を措定することができる。国際資本は古来、自由市場原理を拡大し、それに挑戦しうる思想や連帯を駆逐するため、個人主義こそが正義であるかのような言説支配を広げたのであり、その一つの画期は18世紀に起きたフランス革命と、それに伴う啓蒙思想だった。19世紀からのマルクス主義は「邪悪な権力vs善良な民衆」というフランス革命のモチーフを先鋭化したものにすぎず、個人主義を促進する意味で国際資本を利するものだ。そしてそうであるからこそ、フランス革命や啓蒙思想は「歴史的な進歩」であるとすべてのアカデミアや民衆に妄信されており、また、資本主義に対抗する正攻法はマルクス主義だとされて、「利を逸脱した部分」を自らに課すという真の挑戦に立ち返ることがないように、舞台は構築されているのだ。
現代においては、「自由と民主主義を守るため」だとか「市民をテロ犯罪の危険から守るため」といった正当化を用いて、大国による国際的な暴力が実行され、国際資本のために合理的な形で天然資源利権の確保などが行われてきた。したがって、主流報道(mainstream media)などによる国際的な言説支配が実在するとしても、その主体は権力であって民衆は善意の被害者だと見ることは簡単だ。しかし現実には、ここまで論じてきた内容からほとんど自動的に明らかなように、国際的な言説支配の実態はむしろ、人類規模での集団的な自己欺瞞にほかならない。したがって、これを「邪悪な権力vs善良な民衆」といったモチーフにゆがめて認知する行為もまた、自己欺瞞にすぎないと言わざるをえない。