利を逸脱しない利他
「利を逸脱しない利他」は、「善」の顔をすることで、邪悪ではないという偽りの証明を与えるが、実際には力の現実に迎合している。では、力にとっての利のために合理的な嘘によって弱い者や善良な者の幸福や尊厳が踏み潰されるとき、それに対抗しうる因子は何か? 「利を逸脱した部分」でしかありえない。したがって、真に「善」であることは、損失や痛みを引き受ける動作と不可分だ。究極的には、死を覚悟する意思と不可分だ。逆に言えば、国際資本(global capital)が古代に産み落とした個人主義は、損失を引き受けるという要件から分離した偽りの「善」の定義を人間理性に埋め込むものであった。
強者に脅されて弱者を見捨てるなら、そこに何の美徳があったと言うのだろうか? つまり正義は、弱者よりも前に死ぬことによって初めて正義なのだ。しかし人々は、自らの生活や利益を優先し、「これ以上は無理だ。ごめんね。私はよく頑張った」と言って満足する。そして、自分達よりもより自己犠牲的に振る舞った人々が自分達よりも倫理的に上位の尊厳を有する事実を、承認しない。より多くの聖霊を与えられた人々が目の前に実在しなおかつ死んでいく現実を無視して、「人間とは利己的なものである」という虚構を呟いて満足する。あるいは「原罪」として、反省しているふりをしながら自分達の利己性を承認する。
「利を逸脱した部分」に尊厳を見ることは、究極的には、涙する孤児や貧乏人が天下にいる限り、その痛みに寄り添って死ぬことを要請する。そしてそれは、神そのものの姿だ。しかしそれは、ただちにすべての人間にそれそのものを実践することを何ら要請してはいない。単に、天に浮かぶ最も高きgoalの位置を知れと言っているのであり、社会における人間というものの最も本質的で実は唯一的な序列を知れと言っているのだ。その現実は、人間の人格や行動を聖霊の豊かさによって序列するものにほかならない。しかし、古代においてこの現実は、金融業者のidentityにとって不都合だった。力が自己増殖を始めるためには、他者を道具化することが生得的に悪徳であるという現実認知にヒビを入れる「無謬の前提」を論理に導入する必要があった。そして、まずは金融業者にこそ有用だった「利己性は恥ではない」というプログラムは、資本主義を通して今やすべての人間の理性に焼き込まれた。