利を逸脱した部分
「利を逸脱した部分」について、語ろう。それは神であり、聖霊であり、良心だ。しかし、現代の人類の社会においてそれを語ろうとすることは、人間精神にとって無限大の重圧である。なぜなら、良心について語ることは邪悪について語ることでもある。人類とその社会が良心なき邪悪に収束してしまったという、すべての人が最も見たくないと思っている事実について解剖することでもある。神の死について語ることは、絶望について語ることであり、人間存在を愛することの不可能性を論証することでもある。およそありうる情報のなかで、最も笑えない情報であり、かつ、あらゆる議論を漏らさず包含する事実だ。
私はハーバード大学のすべての教授を足し合わせたよりも生まれつき賢く、歴史上すべての思想家を足し合わせたよりも生まれつき賢かったから、私にとっては、「利を逸脱した部分」にしか価値がない事実は自明だった。もちろん現実には、言説支配(narrative control)にとって有用な愚かさを備えていなければアカデミアで権威を与えらえることは起こらず、有用な愚かさを備えていなければ思想家として歴史に名前を残すことはできないのだから、この言明は、一見したところの外見ほど強い主張をしてはいない。人類というシステムはとっくに、聖霊を備えて生まれ落ちた人材をしっかりと刈り取る仕組みを内在しているのだ。
「利を逸脱した部分」にしか価値がない。なぜなら、「利を逸脱しない利他」が「善」や「愛」の顔をしたなら、実際には、利を逸脱する場面においてはその「善」や「愛」は実行されない。性欲の解消を目的に男性が女性に加害することや、その本能を逆用して経済的な利益を引き出すために女性が男性を加害することを「愛」と呼ぶなら、自己を中心とする利を防衛するために不都合なときが来たなら、理性は共感の対象として相手を外部化し、どれほど深い苦しみも問題視しないだろう。子供達や弱者は道具化され、時々の気分によって小さな者達の幸福や人生は地獄の底に捨てられて不可視化されるだろう。