三百ノ五十八話 この国の深淵へと・・・
ムディナは立ち上がり、その無機質な石の部屋を後にしようと扉に手を掛ける。エリナスも一緒に父親の凶行を止めるという目的あっての動きであった。ただ久しぶりに自らの脚で動くという事に、エリナスは慣れてはいなかった。
「そんなに無理しなくてもいいんだぞ?」
ムディナはエリナスの辿々しい足取りを見て、そのように心配していた。未だに病み上がりであるという事実があり、エリナスが戦闘について来れるのかという問題点もあった。
だからこそ無理をせず、後の事は自分に全て預けて欲しいというのが本音でもある。むしろエリナスは、命を狙われた身。安全地帯である学院の敷地内へと誘導するのが筋であろう。
しかし彼女の眼が、それを物語っていた。その眼にあったのは決意であり、使命感。それが揺るぎない強くて、強固な意志の表示に見えてしまった。
「大丈夫です。決して足手まといにはなりません。父上の元に、行かせてください」
それを聞いたムディナは、それ以上の心配の言葉を発さなかった。発する事など出来る筈もなかった。それ以上何かしらのエリナスに対する心配する言葉を言ったら、彼女の意志を否定する事になってしまいかねなかったからだ。
そしてムディナは石のように重たい扉を開けると、ふと床に眼が向かった。そこに居たのは、可愛らしい使い魔である猫だった。
その猫には見覚えがあり、リルナ・ローゲルの使い魔であるがムディナには何でここにいるのか理解が出来なかった。既に情報屋としての仕事は完了していて、リルナが関与する余地などないからだ。
「何故、ここにいるんだ? 既に依頼は完了しているのに」
ムディナは首を傾げながら、使い魔である猫に向かって話しかけた。
「いや、妹に頼まれてね。ムディナ君のサポートをしてくれとね。だからそれは無償の協力というわけだニャ」
妹であり、ムディナからすると先輩による、シューレナの手配だったようだ。やはり姉というのは、妹に甘々な関係もあるようだ。ただムディナからすると、妹を過剰に護っているような様子から何かしらの事があるように思えてくる。
ただそれに触れるべきではないとしてムディナは疑問点を飲み込み、猫に向かって口を開く。
「サポートって言ったって、何をするんだ?」
シューレナの姉という事は、戦闘能力は高いとみていいだろう。しかしそれは本人が出張っているという事に限る。今まさにムディナの目の前にいるのは、使い魔である戦闘能力皆無の猫。単なる戦闘支援という訳ではない様子であった。
「この国の地下に案内するニャ。戦闘なんて事はあたしには無理だからニャ。情報としての支援を約束するニャ」
確かにムディナには地下の入り口も、地下からの道中も分からない。手探りで探そうとしていたムディナからすると、それは有難いものであった。この国の極秘に存在している地下は、入り組んでいる。道案内役がいるのは、嬉しくもあり、短時間でこの国の事態に対処出来そうだった。
こんな事をムディナがふと考えていたら、後方にいるであろうエリナスが飛び上がってきた。右肩に手を置き、身を乗り出すようにして猫を凝視していた。
「何この子――――――かわいぃ〜」
エリナスは、嬉々とした表情を浮かべていた。猫のような小動物が好きのようであった。確かにこう見ると可愛いには変わりないが、使い魔だしなとムディナはあまり同意出来なかった。使い魔という事もあり、主人であるリルナと同期するようにして話し出す。普通の猫なら喋らず、可愛い仕草をするものである。
「確かに可愛いけど、使い魔だぞ? ていうかそれより……………………少し…………離れてくれないか?」
ムディナは言いにくそうにしながら、エリナスに話した。友達になるという事を承諾はしたが、こんなに親近感と距離感を近づけてくるとは想定していなかった。
同い年に近く、それでいて異性だ。異性に簡単にボディタッチなんてしてるのは、ムディナからすると関心しなかった。ムディナも一端の男性。あまり異性にそうされると、気恥ずかしさがあるものだった。
「ああっ!? ごめんなさい!? 嫌でしたか?」
エリナスはそう驚きながら、ムディナと距離を取る。初めて出来た友達という事で、エリナスは距離感が掴めなかった。友達の気分を害してしまったという罪悪感がエリナスの内から湧き出てくる。
眼はうるうると涙目になっており、今にも泣きそうだ。流石にそれを見たムディナは、やってしまったと後悔していた。
「嫌ではないけど……………………そうだな………………あまり異性の体に触れるのは良くないんだぞ」
エリナスは良くも悪くも純粋である。濁った事すらない透き通った水のように純度が高い。幼い時から、病気によりあまり他者との関わりが無いに等しかった。勿論、友達なんて関係すら出来た事がない。隔離された少女が唯一接する事があったのは、父親とその召使いの面々だろうか。
だからこそ友達であるムディナがこうやって、良いところ、悪いところを教えて吸収させないといけないだろう。
「だって、ムディナ君だからこそでしょ。ムディナ君以外にこんな事はしないですよ」
エリナスはキョトンとした顔で、そのように呟く。そこには悪意も何もなく、さも当たり前であったかのように言っていた。
本当に良くも悪くも純粋。ムディナは少し照れくさそうにしながら、エリナスから眼を逸らす。
「初々しいねぇ〜。今イチャつく場合でない気がするけどニャ」
そう猫は吐き捨てるように言いながら、そっぽを向き歩き出す。猫は目配せしながら、ついて来いと合図していた。ムディナはそれに従うようにして、猫の後を歩く。
「イチャついてないんだが!?」
ムディナは照れながら、大きな声を発する。猫はそれを聞き、「ふっ」と笑みを零しながら階段を降りていく。それを見ていたムディナは悶々と言い表せない気持ちになっていた。
どうやら、地下への入り口は一階にあるようだ。それもそうかと納得するが、ムディナも冒険者の端くれ。地下室特有の空気の漏れが無いことで魔法により隠されているものであると認識していた。
「しかし魔力感知にすら、そんな反応が無かったぞ?」
ムディナの経験則には、隠し扉のようなものには、魔力によるものと技術的な側面のどちらかである。ただムディナがこの屋敷に訪れてから、そんな反応の一つすら無いのがもどかしかった。
地下が存在しているのに、道の一つすら途切れている。そんなムディナの冒険者としての経験が役に立っていない事に苦い思いをしていた。
「エリナスちゃん、君の父親は世界を滅ぼす歴代屈指の犯罪者であると同時に、世界レベルで類を見ない程の魔法、科学の両側面に於いて、彼以上の研究者はいない」
リルナはそう賞賛しながら、エリナスに語り掛ける。それが意味する事は、ムディナが今から相対する存在の巨大さを物語っているようであった。
そして猫についてくると、扉の前に辿り着く。そこは高価な扉に思えるが、至って他の部屋と何ら変わりないものであった。ムディナが扉を開けると、本棚が列を成して並んでいた。
どうやら書斎であり、仕事場のような雰囲気であった。そこにも魔法や地下の道がある雰囲気がなかった。ムディナの勘が何一つ反応してないところを見ると、今妙に隠されている。
「私も深くまで情報を調べなかったら、辿り着く事すら出来なかったニャ。とりあえず準備するから、待っててニャ」
リルナの使い魔である猫は、魔力を放出する。それは莫大な魔力量であり、本来の使い魔での魔力の許容量を超えている。無理やり使い魔と主人としての繋がりを強固にして、魔力量の伝達に耐えているのだろう。
ムディナにはリルナが構築している術式に見覚えが無い。それはこれから起こるであろう事が予測出来ない事でもあった。




