三百ノ三十一話 とある出会い・・・
夜光がガラスを通じて、廊下を照らしていた。ムディナはふと、それを眺めながら今日の事を思い返すように振り返っていた。中々有意義な訓練内容、学科研修などもあり、肉体的にも、精神的にもそれなりに充実した一日となったことであろうか。外は真っ暗であり、もうそんな時間が経っているのかと、あっという間に時間が過ぎ去っていたと気づいてしまう。
それにしても龍界に居た時のような、山登り訓練をするところがある事に驚愕してしまうし、懐かしい想いに駆られていた。そして何回か往復出来た事から、自分がそれなりに実力が付いていた事を実感していた。
――――――龍界を出てからも色々とあったからな。
天井を眺めながら、想いに耽っていると、何か衝撃が体に伝わってくる。ドンという体がぶつかったような衝撃であり、ムディナ自身が前を見ていなかったからだった。
前を見ると、そこには黒髪のこの学院の制服を着ている男性だった。眼鏡を掛けており、大人しそうな真面目な人と言った印象をムディナは最初に受けた。
その男性は尻餅を付いており、痛そうに顔を歪めていた。
「大丈夫か?」
ムディナはそうその男性に手を差し伸べる。そんなに力強さや威圧が感じない筈なのに、不思議な違和感のようなものを感じてしまう。まるで息を吸う事すら出来ない海底にいるかのような、そんな圧迫感を覚えていた。
これは何だろうと思いつつも、そこまで気にするものでも無いだろうと開き直る事にした。そもそも自分がよそ見をしていて、辺りを警戒していなかったせいである。
「すみません。急いでいたもので」
男性はムディナが差し伸べた手を力強く握り、立ち上がる。何かに追われているような顔をしていたので、ムディナはそうなのではないかとは察していた。
もうだいぶ夜遅いというのに、何をそんなに必死に急ぐ事があるのだろうかと疑問を感じてしまう。普通なら自室でゆっくりと過ごすような気がするものである。何ならムディナ自身はもうゆっくりとあのふかふかとしたベッドに横になりたいくらいだ。あんなに心地よいベッドは初めての事であるからだ。
「おい、なんだよ………………これは………………?」
ムディナがその男性の袖の隙間から肌が霞んで見えた。そこにははっきりと黒血のような痣が多数あり、まるで誰かに本気で殴られたようなものだった。
それなのにヘラヘラと顔を引き攣るように、必死な笑みを浮かべている男性がそこにはいた。それは何かを抑えていて、偽るのが当たり前であるかのようだった。
「すみませんすみません!? 外部の方々には言えないんです!?」
そう言って、男性は気まずいような思いに駆られて走り去ろうとする。そこには怯えと恐怖、死という根源的な恐れが震えとしてあった。何か胸糞悪いような、気持ち悪い感覚をムディナは覚えていく。
ムディナは脚を強く踏み締めると、魔力が床を通じて流れる。そして半径数メートルであるが、即座に結界を張る。その男性を逃がさないように、強引な手段を講じた。
このまま逃してしまったら、この気持ち悪い感覚のまま寝る事になってしまうからだった。それだけはムディナはしたくなかった。何か嫌な予感が脳裏を過っているからだ。
「詠唱も、魔法名も言わずに、こんな高度な魔法式の魔法を即座に発動するなんて………………」
少し観察しただけで、何の魔法であるのか即座に見抜いていた。やはり知識量や洞察眼は、ここにいる生徒であるから培われているようだ。
隔離結界であり、普通の結界とは違い、中の方が強度が高くなっている。これはよく逃走や抵抗を防止する為に発動する事が多い。
「それで事情を話して貰おうか。それは何だ?」
この俺に眼を付けられたのが、運の尽きと言ったところである。それにあれは意図しないで出来るような傷跡ではなかった。ムディナは冒険者時代に培っていた観察眼は、それなりのものになっているからだ。
ムディナは逃げようとしている男性の元にゆっくりと歩きながら、近寄っていく。何かきな臭いような話に思えてならなかった。
「いえ、これは転んで出来ただけです!?」
その男子生徒は、そのように虚言を吐いていく。そこにあった瞳は、恐怖により何が何でも誤魔化さないといけないと言った使命感に似たもので彩られていた。身を震わしているそれは、ムディナは哀れにしか感じなかった。
小動物のようなその姿は、『可哀想』、そう思うしか出来なかった。自らの全てに自己嫌悪、自己否定、自分に関する全てに絶望している、そんな顔付きをしていた。
「嘘だな…………。その怪我の痕は転んだりとかなどでは出来るもんじゃないぞ? 殴られた若しくは、何らかの鈍器で殴られたような傷痕だ」
ムディナは淡々と考察した事を口にする。その男子生徒の腕にあった傷は、何かしらの暴力により形作られた代物だった。それもだいぶ男子生徒の様子を見る限り、日常的に起こっている事のようである。
そうでなければ、ここまで恐怖と震えが滲み出る事はなかった。恐怖によって男子生徒は、そのように体に染み付けられてしまっているだろうか。
「いえ!? そんな事はないです!? そんな事は……………………」
男子生徒の眼から、自身が意図しない形で一粒の雫が流れ出てくる。男子生徒自身すら、何で涙を流しているのか理解出来ずにいた。だって、それが男子生徒にとって当たり前だったからだ。自分の心そのものを全て内部に窮屈に押し込んでいるに過ぎないからだ。
苦しい、辛い、悲しい、悔しい、その全てが煮詰まりに煮詰まり過ぎて、それを吐き出す事すらする事が出来なかった。もう男子生徒は限界に近かった。限界なのに、それすら自覚する事をやめていた。
「別に俺は他生徒だしな。本来なら関わる事をするのは烏滸がましいんだろうけどな。お前自身が望み、願うならば、俺は手を貸す事をしよう」
龍とは願い、叶える事をする事が多い。それは龍神達が信仰の対象になっている理由でもあった。人の、生物の、あらゆる願い、望みを、本当の意味で苦しんでいるものに対して助力する。恩恵、恩寵を与えるのが龍神達であるとされている。
ムディナも龍王という肩書きがある為であるし、龍神達に少しでも近づく為に、このように苦しんでいる顔を目の前にすると、どうしても何か手助けしたいと考えてしまう。
それがムディナなりの願いの叶え方である。苦しんでいる者を助ける。それを信条としているところはある。
「断る事も構わない。君がそう望むのであれば、俺は何もしない。君自身が、現状でいいと言うなら否定はするつもりはない。ただ『それ』で、本当に、本心から思っているので有ればだがな」
ムディナは徐に手を差し伸べる。それは立ち上がる為であるし、手助けをする意志であった。その手を握ったら、了承するという意図でもある。
男子生徒は涙が溢れ出てしまう。
もう………………もう苦しみたくない………………。もう何もかも嫌なのは、嫌なんだよ。どうして………………どうしてこんなに悲しい思いをしないといけないんだ。一日、一日がずっと苦しい。もう明日なんて来なくていい。未来なんて来なければいい。明日が来る度に絶望と苦痛が押し寄せてくるのが辛かった。
もう救いなんてあるとは思いもしなかった。助けてくれる事を期待する事をやめていた。それが当たり前、それが普通、心を殺せば何も気にしなくて済むんだから。そうした方が楽であるからだ。
――――――――――青年は涙の中、その目の前にある救いの手を取った。
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