二百ノ八十話 霊神鬼との会合・・・
目の前には恐怖があった。圧倒的な生存本能を脅かすような、そんな恐怖である。死を予感されると言ったものではない。死そのものがそこにずっとあるかのようなものだった。
ムディナでさえ、目の前の存在への恐怖が全身に覆い被されるかのように包み込んでいる。
ただムディナには、死そのものがそこにあるような感覚は慣れている。冒険者時代に何度か経験しているからだ。だから体が動かない訳ではない。
しかし二人は違った。圧倒的な死そのものが目の前にあるせいで、二人は消滅してしまうのではないかという予感をしていた。その本能が二人をこれ以上先へと進む事を許す事はなく、口から何かを吐き出す事も到底許されざる行いのようなものだった。
ムディナには死そのものである存在に覚えがあった。それは霊老への道を聞いてきた不可思議な男性であった。眼を離す事が出来ない異様な魅力とも言える存在だったのは記憶に新しかった。
「まともに話せるのは、一つだけか………………」
玉座のような、それでいて禍々しい椅子へと腰掛けているその男性が、呆れたようなため息を吐きながらそう呟く。その男性にとっては『話し』すら出来ない愚かな存在は、そもそも意味がないように認識しているのだろう。
一つという言葉も気になる。一人や二人、そのように数えてもいい筈なのに、一つなのがムディナには気になった。ただ数える為に言っているような感じであった。そんな存在が異常的と言うべきであろうか。
「我が名は、霊神鬼・サタン。憤怒を司っており、人の大罪を見定めるものである」
それは憤怒という感情を、怒りそのものを認識するものだった。自身の司っている魂の名を口にしたとき、恐ろしいまでに周囲が歪んだ。物理的に、ここにいる宮殿が傾いたような認識すら覚えてしまった。
サタンというのは、悪魔の名前だとというのは聖都での聖書では言われている。そんな存在が、よもや死後の人の魂を見定めるとは思いもしなかった。
「そも二つは物理的に肉体が存在するのだな。次元の歪みからの来訪、さぞ苦しかった事であろう。そしてもう一つは我々が手を下した神になり得る人御霊であろうか」
その霊神鬼の感情が分からなかった。分かるつもりにもなれなかった。それ程までにムディナ達や霊老でさえ、生きている、存在を確立している時間が違い過ぎた。
何なのか、あれは一体、何なんだ。存在というのは理解出来る。霊神鬼というのも理解出来る。人を見定めるものというのも分かる。なのに、なのに奥底が分からなかった。あらゆる観点において、底が分からないというのはムディナにとって初めての現象だった。
「口が開けるであろう。その者よ。何か申し開きしてみよ」
ムディナの方を、霊神鬼は顔を向けた。その眼は朱色の輝きを示しており、邪悪な黒いものが一切そこに見えなかった。ムディナは底知れない霊神鬼の輝きに驚く。
何かを言いたそうにしていたのを分かっていたのだろうか。ムディナは一人の為に口を開く。
「ラーフォンの生き返りを所望する。俺は彼の友人だ。それに貴様らがラーフォンを殺したようなものだろうが!?」
ムディナは立ち上がり、激昂する。怒りが、ムディナを奮い立たせていく。目の前にいる存在は、世界の都合というものでラーフォンを殺した大罪人だ。ムディナにとっては、罪深き存在であるのは明白な事実として記憶にしている。
「それは主も知っている事実であろうに。人が神になるのは、世界のバランスが著しく損ねる。星が、世界が、拒絶反応を示して必死に天変地異を引き起こしていくのだよ」
そんなもの知った事ではない。天変地異が引き起こって、それで誰かが死ぬのは許容する訳ではない。それが心苦しいのも、ムディナにはよく分かる。ラーフォン一人で、それが起こらないというなら、それがきっといい事であろう。
しかしそれもムディナには飲み込めない。ラーフォンが犠牲になっていい理由として途轍もなく正当性のある解答だろう。だからって許容など、認める事などムディナには出来なかった。
「認めるもんか!? ラーフォンが、それで何をした!? いるだけで罪ってか!?」
ラーフォンはそもそも存在が罪である。直訳すると、解釈的にはそういう事である。いるだけで世界が害を及ぼそうとする。『いるだけで罪』、そんな事があっていい筈がなかった。ラーフォンという個人を蔑ろにしてしまっている。
「最初から、そう申しているであろうに………………。人の分際で、ただの我々の餌でしかない家畜が、個人を認めるなどある訳もなかろうに」
ムディナにはその一言で、肝心の琴線に触れてしまった。もう目の前の存在に対して、何を言っても通じないのだと。対話というものの無意味さを思い知った。
霊神鬼という存在は最初から、人をただの食べ物だったという認識でしかなかった。家畜がいちいち鳴き喚こうが、そんなものは知った事ではない。家畜がいちいち命乞いしようが、そんなものはどうでもいい。聞きもしない。
「そしてその者よ。其方の兄は迷える害ある魂として、我が頂いた」
サーデクスに顔を向けた霊神鬼は、淡々と感情なき冷たい言葉にてそのように言った。それを聞いた時、サーデクスは最初、何を言っているのか意味が分からなかった。飲み込む事を、脳裏が、それを拒絶の意思を示す。
「あ………………」と言葉を発する事が、サーデクスには出来なかった。それを霊神鬼は許しはしなかった。人に対して完全絶対権限とも言うべき魂の質によるものだった。
口を開く事を本能が許さなかった。恐らくそれを無視して口が開けば、魂が崩壊してしまうだろう。ムディナにはそのような効果は意味がなかった為に、簡単に口答えが出来た。
「ラーフォンのみならず、サーデクスまでもかよ……………………おい、クズが。俺が人として、貴様に沙汰を下してやるよ。消滅という名の沙汰をよ」
迸っていく黄金の粒子が、全体を包み込んでいく。闘龍気が全身を駆け巡り、龍王としての力を発揮していく。それに加えて、眼が無色へとなっていく。無限の力が発揮され、ステージが3に到達している。
概念操作すら容易に可能とする領域であり、今のムディナが出せる本気で全力だった。全力でぶつからないと、霊神鬼には勝てないとそう判断した。
「いい怒りだ。熱気が、激しい感情の波が、我を包み込んでいくようだ」
神経を真っ向から逆撫でされるかのような言葉を言い放つ。霊神鬼に人の言葉も、感情も、全てが理解出来ない、ただ怒りという自らの司る概念に対して、理解しているに過ぎない。
ムディナは痺れを切らして、一気に加速する。その手には龍剣と無限剣が握られており、霊神鬼に振り下ろしていく。
霊神鬼は座ったまま、何もしなかった。ただぼーっとムディナを眺めているだけだった。
ただ振り下ろした筈なのに、そう意識したのに、振り下ろす事が出来なかった。ピタリと霊神鬼と顔面に触れる寸前で停止していた。何か力を行使した痕跡などもなかった。
「人を見定める存在が、人に負けるというのはありもしない事であろう。魂の質が、そもそも違うのだよ。だから体が、魂が、我を傷つけるというのを許容しないのだよ。無限の司る子よ。いや…………こう言おうか………………」
霊神鬼は一拍だけ言葉を置く。その一拍が何よりもムディナにとって、長すぎるように感覚的に感じてしまった。時間が圧縮されているような、遅くなっているようにすら思えた。
「外なる世界の住人であり、世界の恩恵を授かりし転移者よ」
ムディナにとって、自身の存在を知る手掛かりを今、霊神鬼は口にした。何故かその事実をムディナはすんなりと飲み込んでしまった。
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