その8 幕間
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とても貧しかった。暗くじめじめした部屋で黴臭いシーツにくるまり、がたがた震えながら寒さをしのぎ、来る日も来る日も、臓腑の奥にある黒い塊を育てていった。
思い出せる一番古い記憶は食事中に吐いたことだ。満腹も空腹も自覚できず、与えられるがまま栄養を摂取したせいで、許容量を超えた時にそれが起きた。顔や首にこぼれた吐瀉物が空気にさらされて急激に冷えてゆく感覚が気持ちが悪かった。布で口元を丁寧に拭われ、あたたかく優しい腕に抱き上げられた。
ああこれで助かる……。
命が尽きて神に召されると思ったのに朝がやってきた。医療を受け、体力が戻ると充分すぎる食事を与えられ、みるみるうちに魂が肥え太ってゆく。
買われたのだとすぐに理解した。主人の世話や家事や雑用をこなすのはもちろん、主人から厳しく教養を叩きこまれた。言葉遣い、目配せ、身体の揺らし方、声の濃度、そして芝居――。
自分ではない者に憑依する泡沫の夢は上質な悦楽だと言えた。舞台が漲る力を解放させ、喝采と賞賛を浴びて、毎日が満ち足りていた。稽古を重ねて芝居で稼ぎ、拍手を受けて自分を売り込む日々が続いた。流行と酒に溺れてる幸福な堕落に身を委ねていたあの頃、彼が現れた。サンクトペテルブルクの洒落た酒場だった。
神はいるのかと問われたら「神などない」と答えなければならない。
これは自分で選んだ道であり、これから歩んでゆく道なのだ。
ダラゴイ
あなたが好き。
あなたは私の他にも好きな人がいる。それは知っていた。それでもいいと思った。
傍にいられたら幸せだった。
笑って言葉を交わし、手を触れ合うことが至上の喜びとなり、あなたも私を好きだと言って大切にしてくれる。
好きになってはいけない人がいることも知らずに好きになってしまった。
私はそれを罪だと知らなかった。
けれど神はない。
神がなければすべてが許される。
愛が唯一無二であると誰が定めたというのだろう。
そして誰が本物だと決めるというのか。
決めるのは神じゃない。
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