その6
理闘の右手にぶらさがる長方形の紙袋には鮎川儷が女子から貢がれたお宝が収納されている。今日の晩御飯はこれで決まり。一食分の金が浮いた。
明日も女生徒から運び屋の予約を請け負っている。どれだけ稼げるだろう。いひひと笑いながら頭の中でそろばんを弾いていると、聞き覚えのある声が背後を抜けていった。
オレンジ頭だった。
背が高く、見るからに運動能力が高めの女子生徒と密着して歩き、耳打ちしたり、お菓子を食べ合ったりイチャイチャしていた。
八等身の長い手足、姿勢の良い背筋、闘争心が宿る強いまなざし。ちらりと確認した面貌も端正かつ快活な造作で、美人としか言いようがない。
そんな美女がなぜオレンジ頭と密着しているのだろう。いつも一緒にいる舌足らずな彼女は恋人じゃなかったのか。あれだけ親し気に密着しておきながら? それともどちらかが浮気? もしくは二股をかけているのか?
彼女を車まで送り届けた後、取り出した携帯で通信を始める。理闘はやれやれと肩を竦めた。どうしようもない不埒者だったらしい。
「わお、新人ちゃん見っけ!」
オレンジ頭が目敏く理闘を見つけ、主人の帰宅を喜ぶ犬のように駆け寄ってきた。
新人の由来はおそらく理闘が外部入学の生徒だからだろう。理闘は待ち構えるように腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「蜜柑は蜜柑でもダンボールでキロ売りなんぼなのね」
「ん。どういうこと?」
「蜜柑でも箱入りは高いのよ。あんたは安っぽい蜜柑だって言ったの」
「けど食べてみたら甘いかもしれないぜ? 試食してみ?」
口の減らない男だ。
「ね、連絡先聞いていいかな」
「なんで?」
「せっかく知り合ったんだから仲良くしたいなって。コミュニケーション大事じゃん」
「結構です」
「そう言わずに」
きっぱりと断っているにも関わらず、オレンジ頭は挫けなかった。溜息が出る。その時理闘は閃いた。絶対にあちらから引き下がる無茶を言えばいいのだ。
くくと笑いを噛み殺す。
「わかった。教えてもいいけど、私が連絡したらすぐに来てよね。すぐよすぐ」
「オッケー!」
「えっ、いつ何時どこにいてもよ?」
「大丈夫大丈夫。一生従うぜ」
オレンジ頭は躊躇いなく即答する。
「蜜柑が寝てたらどうするの? もし夜中だったら」
「とーぜん駆け付ける。夜中なら尚更さ★」
失言した。ごほんと咳払い一つして口調を改める。
「頼み事の電話していいわけ?」
「じゃんじゃん言って」
「買い物の途中に財布を忘れたから、お金貸してって電話するかも」
「いいよ。いつでもどーぞ」
「はっ、お金貸してくれるわけ?」
「女の子が困ってるなら当たり前だろ」
オレンジ頭が不思議そうに目を丸めた。
「ちょっと意味がわかんない。もし私が誘拐されて身代金が必要になったら用意してくれるっていうの?」
「絶対に助けてあげるからね! 俺を信じて待つんだよ!」
オレンジ頭が理闘の両手をがっしと握りしめる。
理闘は眉根を寄せてオレンジ頭の表情をまじまじと観察した。嘘を言ってるとしか思えない。なのに嘘っぽく聞こえない包容力も滲ませている。
「私が財布を落として困ってたらどうするの」
「助けるさ」
「もしよ? もしもだけど、お金ちょうだいって頼んだら?」
「ありったけあげる。もしかして今困ってるん? とりま幾らあれば足りる?」
オレンジ頭が尻ポケットから長財布を取り出し、中身を確認している。理闘は彼の指先が紙幣を弾く動きを眺めながら口にしていた。
「……六万円とか?」
「持ってっかなー。あ、あるわ。はい」
あっさりと現金を理闘に掴ませる。手に馴染む喜ばしい感触。コピー偽札ではない。お互いに出会ったばかりで、保証人も立てずに、ただ会話上のやりとりだけで、たった数秒で六万円もの現金を他人に渡していいものか。日本はどうなっているんだ!
連絡先を教えるくらい屁でもない。理闘に都合の悪い事態が起きた場合は速やかに番号を変えてしまえばいいだけだ。六万でもおつりがくる。なぜあっさり大金を、大金なのに、六万が、断じて詐欺ではなく、大金だけど、あっちが勝手に。
混乱した頭で現実を解析していると、オレンジ頭の首がぐいんと玄関に曲がった。まるでセンサーが反応したような引力のある動きだった。
玄関から派手な髪の女子生徒が歩いてくる。金色に近いくるくるの茶髪を頭の天辺で結っているからか、頭部が爆発しているように見えた。しかも頭に兎の耳のような装飾が飾られている。身長が低いのに大きなトートバッグを肩に掛けていてバランスが悪い。
女子生徒がオレンジ頭に気づくと、一瞬びっくり顔したものの、すぐに冷静を取り戻して笑みを繕う。駆け寄ってくるなり、オレンジ頭の背中をばしばしと叩きながら、
「あっれマジか。新しいカノジョ? やるな」
「えっ」
オレンジ頭が動揺の声をあげた。
「あたしと別れてそんなに経ってねーのに手が早えーよ。せめてあたしが彼氏作るまで待つのが礼儀ってモンだろ?」
オレンジ頭は見るからにパニック状態に陥っていて、静止したPCのように直立不動のまま、鶏が鳴くような規則性で、えっえっえっえっと息を吐き出している。彼は脳内で彼女が何者であるか懸命に検索しているに違いない。
「えっ、と、あ、そうだ。いつもより下校時間が遅くね? 何やってたん? ははは」
オレンジ頭は知ったかぶりの術を使った。
「久しぶり、あーだけど、相変わらず元気そうで何より」
「……は?」
男言葉を口にする派手な女子生徒が不機嫌そうに目を吊り上げる。
「久しぶりに会った元カノに随分な挨拶だな! あれから二ヶ月たってんぜ! 他に言うことあるだろうが!」
オレンジ頭は曖昧に笑ったが、はっと息をのんで恐る恐る確かめた。
「プリンたん……?」
「あん? 何だよ?」
「だよね。いやあ、痩せ……いや前より美人になって!」
「そういうのいらね。元カノに媚びんな。新しいカノジョに失礼だろ」
彼女ではありませんと否定する暇もなく、派手な女子生徒が早口で捲し立てた。
「大学カフェで試食会やってて、もうこれ、吐くほど食べてきた。ハラ苦しいって。覚えてっか。いつかデートで行こうって約束してたカフェ。結局おめーの浮気で一回も行けなかったけど、ここ一ヵ月ずーっと通い詰めてるし、今じゃあ常連様に認定されたし、新作スィーツは全部カロリーオフで、使ってる材料がヘルシーで太らないものばっか。マジすげーよ。天才。そんでメインで使ってるものが砂糖じゃなくて……」
片仮名の素材や材料を並べ立てているが理闘にはさっぱり理解できない。
奇妙な縁だが彼女も先ほどまで付属大学のカフェにいたらしく、沖田美瑠が参加した新作試食会に同席していたらしい。VIP専用の個室だという。
「これやる」
プリンと呼ばれる派手な女子生徒が飴を乗せた掌を差し出してくる。見覚えのある水玉模様の包み紙だ。またこれか。理闘は六万円をポケットに押し込み、飴を受け取った。
「山盛りあったから持ってきた。やるわ。その浮気男の相手には苦労するだろうから、ガンバレという激励を込めた飴な」
彼女じゃないんだけど、と否定するタイミングを掴めぬまま、プリンは新しい包み紙をほどいた後、あーんと大袈裟に口を開けと誘導しながらオレンジ頭の口元まで運び、すれすれで取り上げて自分の口に放り込んだ。わかりやすい意地悪だ。
オレンジ頭がむうと口を窄める。
「いいもん。プリンたんが美味しいなら俺はそれでいいもん」
「浮気者にはやんねーし」
プリンがけたけたと笑う。浮気が発覚して別れた――と言っていたが、オレンジ頭に対して怒りや憎しみを抱えている態度ではなかった。どちらかといえば揶揄っている。
プリンは「じゃあな」と軽やかな足取りで去って行く。スカートから覗いたふくらはぎの動きが芸術家が創作したように美しかった。
それにしても、プリンの愛称の由来はプリンが好物だからだろうか。金髪を染めるタイミングが悪くて頭皮の部分だけ黒髪が生えてきてしまい、さながらプリンのようになるからという線も捨てがたい。
「元カノ?」
理闘はオレンジ頭の顔をじっと覗き込んだ。
「浮気ねぇ。蜜柑は蜜柑でもあんたは腐った蜜柑だったわけか。今あの子に話しかけられた時、反応が鈍かったのはなんで? あんた、過去は捨てるタイプなの?」
「何よ何よ。俺のこと気になってきた?」
「跳び蹴り食らわすわよ」
息を吸うように軽薄な口説き文句を並べ立てる人間が、短期間だとしても、おつきあいしていた異性を忘れるのが不自然で気になっただけだ。
「ちょい待ち」
オレンジ頭はスマホ画面を指でスクロールした後、「はい」と手渡してきた。動画だ。
恐らくオレンジ頭が撮影したのだろう、本人は映っていない。
白い壁、リノリウムの床、どうやら学園の廊下らしかった。どたどたと重たい走りで近寄ってくる全身むったりの女の子が映し出された。ソーセージの繋ぎ目のような腕。たるんだ顎。はち切れそうな頬。濃いアイメイク。身長が低いのに太めの体型だから余計に重心が低く見え、まるで鉄製の釜のようだ。鼻先には脂が浮き、散歩に満足した犬のようにはあはあと息を切らしながら強い生命力を解き放っている。
「それ、プリンたん」
「嘘……さっきの?」
「痩せたよな。さすがの俺も気づかなかったぜ。女の子を思い出せないなんて一生の不覚にもほどがある」
「別れたのは二ヶ月前よね? これいつの動画なの?」
「三ヶ月前くらいじゃね?」
「ええええええ、こんなに痩せるなんておかしいわよ! 病気を疑うレベルじゃない。しかもさっきまでスイーツ試食しまくったのに? 別人じゃなくて?」
無理なダイエットの末に過食症となり、密かに吐いているのか。常人ならざる運動量をこなしているのか。脂肪吸引などの整形外科クリニックに通ったか、それとも、
「やべえ薬でもやってんのかね」
オレンジ頭が珍しく真顔でぽりぽりと顎を掻く。
「心当たりがあるわけ?」
「ない。ないけど、可能性としては考えられるじゃん」
元カノのことなのに随分と冷めた態度に見えた。浮気したくらいだから、プリンは本命ではなかったのかもしれない。そういえば、むちむち短躯のプリンとは正反対のモデル美女とイチャついていたばかりだった。
理闘はふむと頷いた。
「あんた、そういった薬に詳しいの?」
「うんにゃ?」
即答こそが途轍もなく胡散臭かった。
「実は私、運び屋のバイトをしてるの。いい話があるならこっちにも回してくれると助かるんだけど……もちろんタダじゃやらないわよ?」
嘘は言っていない。駄賃を貰って宛先に届けている。ほとんど返品されただけで。
「そんな後ろ暗い世界を俺が知ってるわけねーじゃん。というか新人ちゃん、さっき飴もらった時、他にも何か受け取ってなかった?」
「え」
「何か、ポケットに仕舞ったでしょ」
「うん?」
オレンジ頭からもらった六万円のことだ。今さら返せと迫られても困る。もらったものはもらったもの。絶対に絶対に絶対に、死んでも返すものか。