その5
明峰学園付属大学の一郭に白く清潔なカフェテラスがあり、小さな噴水を囲むようにして幾つかの店舗が集まっている。壁には欧州貴族が所有するような彫刻が埋め込まれていたり、見るからに高価な絵画が飾られていた。時価総額はどれほどだろうか。
一定の間隔をあけて並ぶテーブルのひとつを陣取り、理闘はクリームとフルーツで彩られた人気ドルチェを堪能した。
支払いはロン毛の鮎川儷だ。現金の持ち合わせがなくとも学園内ならば証明カードで支払いが可能らしい。しかも限度額がない。値段を気にせず好きなだけ注文して良い代わりに、本日女子生徒から贈られた食べ物は理闘が処理するよう頼まれた。財布を落とした理闘にとって正直とても助かる取引だった。
他人の手作り料理が苦手だという神経質な人間は少なくない。だが他人の手作りが苦手なのに外食好きな自称グルメはいる。彼らは己の矛盾に気づいていないのだろうか。工程を見届けていない故に何が入っているかわからないのは同じではないか。
猛烈に食べるだけ食べて、次から次へと詰め込んで、店で売られていたドルチェをすべて更地にした。心の底から御馳走様です。
満腹の理闘はパフェ用のスプーンを汚れたガラス容器にカチンカチンと打ち付けた。
「あんた、実は甘いものが嫌いなの? 確かあの時、売店の板チョコは食べたわよね」
「ビーさん」
鮎川儷は澄ました面持ちでしゅっと挙手した。
「だから何なのBさんて」
「ぶ」
「……はあ?」
理闘は溶けたアイスクリームのように顔を歪めた。
「ぶ」
「ぶ? それで?」
「ビーさん、もしくは、ぶ……」
「ぶの続きを言いなさいよ!」
「それはまだ言えません。僕は日本人です。僕は鈴木明美です」
「あんた鮎川儷でしょうが。ったく。また英語教材の話? わけわかんないわね」
「ぶ。ぶ。ぶ。ビーユー……」
「前も言った通り私は英語が喋れないんだけど?」
頭の中で復唱し、ビーユーとは英文体ではなくアルファベットだと気づく。BU。ぶ。
理闘は苛立ちで爆発しそうな血管を浮き上がらせた。ぶが一体何だというのか! 本気でぶん殴ってやりたい。
「あんたまさか……! ブス? 豚? ブサイク? 悪口のつもりで……!」
「落ち着いてくださいビーさん」
「ビー……B組じゃないし、蜂じゃないだろうし……び、び、美人ってことね!」
「違います」
そこは否定された。
「ビー」「ユー」「シー」
鮎川儷は英語教師のように大袈裟に口を開閉させて一文字ずつ区切って発音する。
「英語? BEは命令形よね? YОU SEEは……ほらね、とかでいいんだっけ。またはBE YОU SHE? それでつまりどういうこと?」
「ビーは略してビーさん。WDB3」
「あーあーもう結構よ! お願いだから本当にやめて! 頭おかしくなりそう! 私がBさんなのね? ならそれでいいわ! ハイこの話はおしまい!」
理闘は頭を掻きむしったあと拳でどんどんと机を叩いた。
その時――正面に座った鮎川儷の肩越しに見知った顔を確認し、有無を言わせず鮎川儷の頭を押さえつけてぐぐぐとテーブル上に押し潰す。鮎川儷の顔を見られるのはまずい。理闘は彼の背後に回り込み、鮎川儷の身体をテーブルの下で折りたたんだ。処理を頼まれたファンからの差し入れ袋を鮎川儷の腹に押し込み、鋭い眼力で睨みつけて剣呑な声音で言い聞かせる。
「ここに隠れてて。私がよしって言うまで出てきちゃだめよ? 喋ってもだめ。動いてもだめ。他の人に見つかってはだめ。いいわね?」
「わかりました」
鮎川儷が素直に頷いたのでほっと息を吐く。
背筋を伸ばして白く固い床をこつこつと進んでゆくと、奥の扉から出てきた沖田美瑠が細い肢体をくねくねと揺らしてこちらに向かってきた。理闘と目が合うなり、大きく眉を跳ね上げる。
「まあ偶然ですわね。御機嫌よう」
「毎度どうも~。ええと、預かったカップケーキは本人に渡しましたので!」
すぐに返品されたことは黙っておく。
美瑠は奥ゆかしく口元を隠してはにかんだ。頭頂部をカチューシャでまとめているからか、ボリュームのある髪が耳から首にかけてふわふわと揺れている。
「あなたもこのカフェにいらっしゃるなんて……興味がおありならお誘いすれば良かったかしら。我が家の生業はご存じ? 精糖も製糖も政党も手がけておりますの。本日はこちらのカフェで販売される新作商品の試食会にご招待いただきました。カフェに通われるお得意様のみに限定した特別な試食会ですのよ?」
「い、いいなー。お、美味しかったですか?」
「もちろん、と言いたいところですが」
美瑠は意地悪く笑う。
「残念ながら本日の試食品は当家が卸した製糖を使用しておりませんのよ。珍しい新種ですって。ですから本日は企業スパイとでも言いましょうか。新種を舌で盗んで当家でも独自に試作してみようかと」
砂糖を食べ比べる技術などない貧乏舌である理闘は曖昧に笑った。
美瑠の左後ろに東欧風の女性が黙然と付き添っている。一目で釘付けになる強烈な容姿だった。東欧独特の細くしなやかな金髪を後ろでゆるく一本にまとめている。
かさついた白い肌は、今にも肉が弾けそうなほどぱつんぱつんに膨張していた。豊満なのに胸に曲線がないので寸胴鍋と同じ形をしている。
色素の薄い欧州系の人間は皮膚が弱いのか、顔の皮膚になだらかな凹凸がある。身長は一七〇センチを超えるだろう。体重は百キロ以下だと信じたい。
くっきりした二重なのに瞼の肉が目尻の端に乗っかっている。高い鼻梁は細くまっすぐ伸びている。見たところ年齢は三〇代後半くらいか。
理闘が露骨に分析しているからか、美瑠が苦笑した。
「ご紹介いたしますわ。彼女はアポリナリアさん。こちらのカフェで売り出されている商品を作っているのは彼女です」
「全部? 一人で?」
「ええ」
美瑠がアポリナリアの背に手を添えて会話に参加するよう促すも、当人は愛想笑いの欠片もない真顔でじっと理闘を見下ろしている。
「アポリナリアさんはウクライナの生まれで、若き十代の頃は舞台で歌ったり踊ったりお芝居したりのそれはそれは人気スターでしたのよ」
「えっ芸能人!」
「美人でしょう?」
若い頃はそうかもしれない。
「日本にやってきてからは洋服モデルのお仕事をしていた時期もあるみたいですけれど、十年くらい前から明峰学園付属大学敷地のカフェテリアに勤めております。最初はウエイトレスとして雇われたらしいのですが、独自に商品の試作と研究を繰り返して見事プロブレッシブ……いわばメインパティシエールの座を射止めたのですわ」
青味のある灰色の瞳は瞬きもしない。強心臓の持ち主だと自負する理闘でもあまりの反応のなさにたじろぐ。言語が通じないのかもしれないが、理闘は英語もウクライナ語もロシア語も範疇外だ。助け船を請うように美瑠に目をくれるとくすくす笑われた。
「アポリナリアさんは日常会話に不自由ありませんわ。ただ漢字が割と苦手かもしれませんわね」
「わかります、私も漢字は嫌いですよ。漢字は難しいですからね。ねー?」
「かんじ? むずかしい。わからなーい」
外国人特有のイントネーションで答えて軽くかぶりを振る。
「あなた、おやつ、たべた? おやつ、すき?」
「すごく美味しかったです! 甘いのに後味すっきりで幾らでも食べられちゃう」
勢いに任せてアポリナリアの手を両手で包み込むと、ふっくらした質感の手は熱く湿っていて大所帯を切り盛りする母性の度量を感じさせた。
「あとあじ? こうみ? あとあじ? イクラ?」
「えっ、こうみ? えっ?」
理闘は慌てふためいて美瑠に解釈を窺った。美瑠はくすくすと笑う。
「こうみは後味のことですわね。アポリナリアさんは音読みと訓読みを使い分けられない場合があるのです。食べ物のことや日常的な単語は初心者向けの書籍も使っていたせいか、混乱して、時折単語が不明瞭になるのですわ」
「なるほど。誕生日月だと月はヅキなのに、生年月日だと月は、一月二月みたいにガツに変わりますもんね。確かにややこしい」
アポリナリアの手がわしわしと理闘のつむじを撫でる。
「あなた、いいこ。おかあさんどこ」
「え、いやあの、私は高等部の生徒です」
「あ?」
「私は明峰学園の生徒なんですよ。母親は来てません」
「こども、ひとり、あぶない」
理闘は身長百五十センチほどしかない小柄な体格で、髪は肩口で切りそろえたボブヘアだ。欧州圏の人間から見れば子供も見えるのかもしれない。けして悪意で馬鹿にしているわけじゃないと自分に言い聞かせ、理闘はすーはーと深呼吸した。
「ウクライナは何が有名なんですか?」
「あ?」
「ウクライナ、どんな国?」
「Украина? たべもの、たくさん」
アポリナリアは肩を使って両手で大きな輪を作りながらようやく笑みを見せた。美瑠が補足するように説明をくれる。
「ウクライナは農業大国ですのよ。肥沃の大地に豊富な水資源で欧州やロシアに農作物を輸出していますわね。大麦や小麦、とうもろこしなどの穀物が盛んで畜産にも力を入れております。他に有名なのはひまわり種子油。その昔、四旬節で制限される品目一覧にひまわりの植物脂は入ってなかったらしいのです」
「四旬節?」
「キリストの復活祭はご存じかしら。ロシア正教では復活祭の準備のための四十日間を四旬節と呼んでおりますの。その時期に信徒は祈りを増やしたり、食べ物を節制する習わしがありますのよ。欧州では観賞用とされていたひまわりが植物油脂になると知らなかったロシア正教は禁止品目に含めていなかったので、四旬節にはひまわり油が使われました。そこから大量に栽培されるようになり、今ではロシアとウクライナが生産するひまわり油は世界の半数を占めていると言われております。ひまわり油は飽和脂肪酸が少なく、多価不飽和脂肪酸を高水準で含んでおり、リノール酸やビタミンEといった成分を多く含んでいて……そうですね、日本ではマーガリンなどに使用されていますわ」
アポリナリアは身動きひとつせず硬直している。
長文の説明をすらすら述べられても聞き取れているのかどうか怪しい。ちなみに理闘は何となく理解できた。半分くらいは。多分。マーガリンはわかる。
「アポリナリアさんはおひとりで日本に来たんですか? 家族は?」
「かぞく、こども。ようこ? さとし?」
「まさかの日本人!」
理闘は大袈裟に背を仰け反らせて驚いた。
結婚相手が日本人でもアポリナリアさんから産まれたのなら東欧とのハーフなわけで、さぞかし恵まれた容姿をしていることだろう。なのに、至って平凡でありきたりな名をつけられるギャップ。西洋名をもじったキラキラした名前を敢えて子供に命名する親がいる中で、アポリナリアさんは時代を逆行したわけだ。
「せっかくですからこちらをお持ち帰りください」
美瑠からレトロな水玉柄のビニルに個包装された飴玉を手渡された。それを合図にふたりは軽い挨拶を残し、美瑠が腰をくねくね揺らして去っていった。
急いでテーブル下に隠れた鮎川儷の元に戻ると、本人は掌に収まる小さな手鏡で自分の顔を覗き込んでうっとりしている。茫然と立ち尽くす理闘を無視して、鏡を右上に、次に左の角度から、続いて正面へ、飽きることなく自分の顔ばかり見ていた。
「何してんの」
「ビーさん」
「気持ち悪っ」
鮎川儷が美少年であることは認めるが、ここまで自己愛が強いのは尋常ではない。人目を気にせず自宅で寛いでいるならまだしも、退屈だからといって鏡を見ている人間がいるだろうか。
「あんたね、スマホ検索やアプリでゲームでもしてなさいよ。まさかずっと自分の顔を見てたわけ?」
「鏡があると飽きません」
「どうでもいいけどさっさと帰るわよ!」
帰宅を促しても鮎川儷がテーブル下から一向に出てこない。
「いいのね? 帰るわよ? 本当に帰るからね? 本当に置いていくわよ?」
理闘は買い物先でぐずる子供を脅す母親のような台詞を吐いたが、鮎川儷が意地でも床から離れないので、口にした通り、彼を残して先に帰ることにした。
お母さんはもう知りません。