表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/32

その4

* *


 一九××年、非加熱ワクチン投与によって数千人にも及ぶ重篤な薬害被害を出した施設【芹和の府】が社会的に糾弾され、芹和の府に属する主要な経営陣がメディアを通して患者たちに謝罪し、薬害に関する補償を大々的に約束した。

 日本の公害歴史と同じように、芹和の府も補償金に苦しめられ、最終的には組織を畳むだろうと誰もが予想していたにも関わらず、患者たちから和解の声が上がり始めたことで破綻を免れた。しかし膨大な和解金を巡って起こされた訴訟によって強制捜査が入り、芹和の府は追い詰められ、業務上過失致死の容疑で経営陣が次々と逮捕されてゆく。

 芹和の府で扱っていた製剤やワクチンや研究データは一部上場の製薬会社が引き継ぎ、勇退した大物官僚などを社内に招いて更に研究や輸入や販売や広告宣伝の手を広げていったことで、毎年季節が来れば定期的に摂取すべしと国民に周知されたワクチンも多く、今や国民からの信頼度も厚い。

 その組織には、かつての陸軍軍医学防疫研究室に所属していた者もいたという――。


 芹和製薬創始者の子孫であることを過剰に誇るわけではないし、誰に強制した記憶もないのだが、物心ついた時から、学園に通うほぼ全員から芹和様と苗字で呼ばれている。そこに疑問を持ったこともないし、ましてや不満などない。自分は芹和の人間であることを常に自覚できる分、むしろありがたい対応かもしれなかった。

 一六七センチ、五×キロ。薄くしなやかな筋肉と均整のとれた骨格、長い手足――役者として舞台に立つには恵まれた体格だと自負している。芹和を背負う父親はごく普通の日本人らしい中肉中背だし、母親はつつけば倒れそうなほど小柄な体つきをしているが、緻密な食育の成果が出たのか、遺伝の法則を無視して与えられたこの身体には神に感謝する他なかった。

 明峰学園高等部の演劇部スターという華々しい看板は自分にこそ相応しい。

 過去に子役として大手メディア作品に出たこともあるが、一族や会社のことを踏まえ、目立ちすぎる有名作品は避けるようになった。番組協賛として広告を出している会社の身内が出演を重ねると、芝居の精度は軽視され、出自という色眼鏡で評価される屈辱を味わったからだ。それでも芝居をやめられない。芝居が好きだった。

 次の公演で発表する演目は、ロシアの文豪ドストエフスキーの五大長編のひとつ【カラマーゾフの兄弟】だ。

 父フョードルと長男ドミトリーの間で、金と女を賭けた争いの末に事件が起こる。

 後妻の息子である次男のイヴァン、三男のアレクセイ、婚外子とされるスメルジャコフなどが中心となって織り成す、思想や宗教や愛や確執による重厚な物語である。

 厳選なる部内オーディションを勝ち抜き、他の男子部員に混じって、主要キャストに抜擢され、次男イヴァン役を勝ち取った。イヴァンは聡明で冷静な天才肌だが、しかし隠された多面性を抱える複雑で遣り甲斐のあるキャラクターだった。

 本日の練習箇所は三男アレクセイに「無神論」を語るパートだった。

 神がいなければすべてが許される――。

 なぜ人は犯罪に手を染めるのか? 犯罪はなくならないのか?

 いいや、この世界から犯罪をなくすことはできる。

法律をなくしてしまえば、どんな悪事も罪として裁けなくなる。

同じように――神がいなければ罪だけでなく――すべての悪がなかったこととなる。

 論は硬くとも、賢く説得力を生む弁舌を意識する。論は熱く、だが過剰な抑揚はつけず、それでいて観る者を圧倒するインパクトを植え付けなければならない。

 舞台演出の担当者が稽古終了の合図を出した途端、すとんと、肩から首から、自分ではない別の魂が飛び出してゆく気がする。目線をちろりと揺らして周囲を確認する。ここはロシアではないし、自分はイヴァンという男でもない。目の前にいる部員は弟でもないし、ロシア人でもない。

 ここは練習場として使用している小講堂で、みんなTシャツ軽装だし、舞台進行が綴られた台本を手にしている。ロシアではない。自分は男ではない。ここは小講堂だ。息を整えながら頭の中で自分自身の核を再確認していると、観覧していた女の子たちから黄色い声があがった。

「芹和様―!」

「お疲れさまですー!」

「やーん。いつも通り、芹和様かっこいーい!」

「細い首。人形めいた抜群のスタイル。華奢だけどしなやかなで艶っぽい腰つき。もう素敵すぎて目が潰れるー! 素敵ですー!」

 いつものように微笑んで手を振りかえすとキャッキャと歓声が沸いた。身体を冷やさないための上着を羽織りながらファンたちの元へと急ぐと、きゃあきゃあと騒ぎながら一斉に集まってくるので、あっという間に二十人に囲まれてしまった。

 飲み物やお菓子の差し入れを受け取りながら挨拶を返してゆく。

「ありがとう、子猫ちゃんたち」

「芹和様、すっごく感動しました! さっきの男役ですよね? ほんと、大人の男性にしか見えませんでした。あーん、もう、芹和様が男の人だったら、迷わず結婚していただくのに~!」

「はは。脱いだら本当に男だったりして?」

 一斉にファンたちが「ええー!」とか「ひゃああ」などと驚嘆した。サービスタイムだ。蠱惑的な笑みを作りながら正面に立つファンの顎をくいと指で持ち上げた。

「子猫ちゃんが望むならいつだってキミだけの王子になるよ」

「うそ……」

 ファンが口許を両手で押さえながら感激のあまり脱力してよよよと崩れ落ちる。

 次に右のファンの頬をさらりと撫でた。

「子猫ちゃんの綺麗な頬は他の男に触らせちゃだめだよ? わかった?」

「は、はい」

 続いて隣のファンの手を取り、その甲にキスを贈る。硬直したファンと目が合うと、ここぞとばかりに申し訳なさそうに目を伏せた。

「突然ごめん。子猫ちゃんが可愛すぎて抑えがきかなかった」

「はうぅぅ」

 期待に目を輝かせる次のファンは初めて見かける子だった。彼女の耳朶を指で摩擦するように捏ね繰り回したあと、顔を近づけて、ふっと息をかける。

 女の子の肩がびくりと跳ねあがった。

「綺麗な耳をしている。へえ……好きだな」

「ヘンな声出た! へんな声出た!」

「女の子の耳って触ると気持ちいいんだ? 面白い発見した。触ってもいい?」

「ど、どうぞ! お好きなだけ!」

 餅のような、ガムのような、柔かな弾力に感動を覚えた。試しに自分の耳を触ってみたがちっとも柔らかみがなく、むしろコリコリと固まっているし、単なる人体の一部としか思えない。自分の声を客観的に聴くと別人のように聞こえる現象に似ていた。

 全員にファンサービスを終えた頃、小講堂の戸口に目に馴染んだ姿を見つけてぶんぶんと腕を振りまわす。

「ジン!」

「へい、マイスイート!」

 上条迅晴がポケットに手を突っ込みながら、軽快な足取りで小講堂の階段をとんとんと降りてきて、隣に並ぶなり肩を抱いてきた。

「子猫ちゃんたちに紹介しておく。彼氏なんだ。年下だけど。上条迅晴」

「彼氏でーす! ちぃーす!」

 上条迅晴が軽薄な声を張り上げて敬礼すると、子猫ちゃんと呼ばれるファンたちは一斉に痴漢に遭遇したかのような絶叫をあげた。ファンを困惑させてしまったようだ。

 そそくさと逃げるように小講堂を抜け出して着替えを済ませると、部室前で待っていた迅晴に腕を絡めて昇降口を抜けてゆく。舗装された通学路を行く生徒はまばらで、ほとんどが部活動帰りの生徒だった。

 上機嫌な迅晴がにまにまと笑いながら顔を覗き込んできた。

「女の子たち驚いてたぜ。ファンだろ。彼氏を紹介して平気なん?」

「子猫ちゃんたちなら心配いらない。応援してくれる健気な子たちなんだよね。ふふ、可愛いでしょ」

「うん、超絶可愛い。可愛いけど、そんでも、うちのお嬢が世界一可愛いな! あ、俺、髪下ろしてる方が好き」

「そう?」

 稽古の時は無造作に後ろで束ねているが、現実と芝居の境界線をはっきり区別させる効果を狙って下校には外見を女子スタイルに戻す。放っておけば外にはねてしまう猫っ毛を整髪料で押さえて肩まで伸びた髪を左肩に垂らしていたら、迅晴が露出した耳朶を指先でこねくり回してきた。くすぐったい。

「ちょ」

「さっき女の子にやってたじゃん」

「触るのと触られるのじゃ……」

 嫌悪感はない。ただ、反射的にびくりと肩口がはねてしまうので触らないでほしい。強く拒絶することもできずもじもじしていると、耳に柔弱な感触がしたと同時にちゅっと湿り気のある音が残る。驚いて迅晴を見上げると余裕ぶった笑みを浮かべていた。

「どしたの。口にして欲しかった?」

「や、ち、ちが」

 慌てて否定して、迅晴を引きはがすように胴を押しのける。スキンシップが多いのは知っているし嫌ではない。ただ恥ずかしかった。

「耳の形いいよね。俺、好き」

「福耳とかそういうこと?」

「うんにゃ、小さくて立体的でなんかお菓子みたいつーの? 指紋とか虹彩と同じで、耳もふたつと同じ形がないって言わね? これがお嬢の耳だなって思うと世界で一番好きだわ」

 迅晴の細い釣り目がだらしなく下がる。

「その耳は俺のモンね。いつか俺がピアスをつけたげる」

「ピアス」

「怖い? 嫌い?」

 身体に穴をあけるなんて痛そうだし、手入れが厄介そうだし、アクセサリーの管理も面倒そうであまり興味ないが、迅晴がくれる物なら何でも嬉しいに決まっている。

「ジンはピアスしてる?」

「あちこちにしてるぜ。耳だけじゃなく臍にもあそこにも。見せてやろっか」

「い、いい! いいから!」

 上条迅晴は年下で、つんつんに立てた派手な髪型で、外見も格好よく、女子からの人気も上々で昔から目立つ存在だった。実家はテレビCМで頻繁に見かける中古車販売の全国チェーンを営んでいる。

 つきあいは去年の秋から始まった。明峰学園付属大学に籍を置く共通の知人を介して知り合い、迅晴から好きだと告白されて関係が始まった。最初は軽口を叩いているのだと取り合わなかった。年上をからかっているのだと。だがあまりに真剣な目でまっすぐに気持ちを伝えてくる熱意に心打たれた。近づいてみたいと思った。

 あの時もらった告白の言葉は一生の宝物になった。

 たった一言で人間の衝動をこんなにも突き動かせるものかと感動すら覚えた。

 これでも子供の頃から芝居一筋でやってきた身。恋愛の演目も経験しているので、さりげなく気遣いできる余裕ある年上の女としてふるまっていたものの、すぐに化けの皮が剥がれた。芝居という細工を看破された情けなさで肩を落としていると迅晴はそれをも可愛いと受け止めてくれた。無理しなくてもいいのだと、演劇部のエースでもなく、芹和を背負う者でもない、ただの自分でいていいのだと。

 迅晴が浮かれた足取りでステップを踏んだ。

「ふっふーん。半年記念日は何しよっか。お嬢はデートしたい場所あるかな~?」

「半年記念日って、つきあってからの?」

「そ。何か欲しいものある? そうだ、旅行でも行く? 一泊で」

「泊まり!」

 思わずぴたりと足を止めてしまった。

「うそうそ。冗談だから。本気にした? てことは、ちょっとは一泊旅行してもいいかなーどうかなーって脳内会議したんだ? そっか、えー、そっか、これまじ嬉しい。そんだけで俺幸せ。明日も生きていける」

 登下校はおろか休日ですら家の送迎車を課せられている芹和家の庇護者としては、親に外泊の相談などできるわけがない。想像しただけで咳き込んでしまった。

 ポーチからイチゴ味の清涼菓子タブレットケースを取り出し、慣れた手つきで三錠ほど口に放り込み、ぼりぼりと噛み砕いて嚥下する。

「ジンもいる?」

「おう、さんきゅー」

 迅晴の掌に乗った幾粒かがすいっと口元に消えていった。

「甘くね、これ。初めて食べた。飴みたいな、ラムネみたいな、けど普通のミントタブレットの仲間とも違うよーな……これ新発売モン?」

「ううん、昔から食べてる。家で常備してるくらいだから別に珍しくないはず」

 隣を歩く迅晴の横顔に目を向けると、口腔内で菓子をもてあそぶように頬が波打っていた。意外と顔の筋肉が柔らかそうだと認識を改める。

「何で笑うの。俺、ヘンだった?」

「ううん、ジンはそういうの最後まで舐める派なんだと思って」

「お嬢は噛む派か。何なら俺はいつでも噛む噛む教に鞍替えするよ? というか、タブレットとか食べてたら、キスしたいっておねだりかと勘違いしたりしなかったり」

「えっ」

「いや冗談だから。学校でそんなんしねーって」

 迅晴がからからと笑った。

 待機するロールスロイスの鼻先が門の端に見えてきた。お別れの時間がやってくる。登下校の道を腕を組んで歩くささやかなデート。幸せだけどとても短い時間だ。

「記念日に何がしたいか何がほしいか、今から考えておいて。俺もむちゃくちゃ考えておく」

「ありがとう。ジンがしてくれることなら何だって嬉しいよ!」

「えっ」

 迅晴がもごもごと口を動かし、言語を発しそうで発さず、数秒をおいて深いため息を吐き出した。前傾姿勢で自分の腿に手をついたあと、右手で顔の半分を押さえる。

「参るわー。予告なしの殺し文句やめて?」

 迅晴の顔が照れたように歪み、それを隠すように顔をそらした。

「天然かよ。たらしだぜ。翻弄されるわー。俺も子猫ちゃんファンと同じなんかよー」

「子猫ちゃんとは違うよ。ジンは私の恋人だもん」

「かー! 殺される! やばい! 俺を殺しに来てる! 膵臓痛い!」

「ジン、抱っこして」

 両手を広げて待機した一秒後、迅晴が隙間を埋めるように飛び込んできて、きゅうと身体を締め上げる。この窮屈さが好き。ぬるい体温が好き。ごわつく服のもどかしさが好き。やや頭上から漏れてくる吐息が愛しい。迅晴の肩口に押し付けられる頬の圧迫感に安心する。頭を委ねてもいいんだと、目を閉じて力を抜いてもいいんだと、全身を預けてしまう。迅晴の手が背中を撫でるのを合図に、その脇腹をとんとんと叩く。離れてといういつもの合図だった。

「また明日」

 ロールスロイスの後部座席に乗り込み、窓越しに手を振ると、迅晴が物言いたげな目つきをしながら、胴のあたりで指を組み合わせている。車が発進してすぐ視界からオレンジ色が消えた。素直に同乗してくれれば家まで送るのに。そうすればまだ一緒にいられるのに。だが迅晴が「女の子に送られるわけにはいかない」と言い張るので、いつも校門で別れている。

 携帯に着信音が届く。迅晴からのメッセージだ。「愛してるよ」に赤いハートマークが光る文字に同じ言葉を返信する。私も大好きだよ。

 ふうと息をつく。

 信号を幾つか通過したことを確認し、よしと呼吸を整える。いつものように運転手が後部座席を仕切る防音シールドを起動したので、鞄から台本を取り出し、本日稽古した台詞を復唱してゆく。集中する。意識がロシアに飛ぶ。かちりとスイッチが入ったようにカラマーゾフ家のイヴァンに憑依し、神と善の在り方について思索を巡らせて世界の深淵に潜り込んでゆく。右手に持ったタブレットケースをひっきりなしに上下運動させて山盛りの錠剤を奥歯でがりがりと噛み砕いた。


* *


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ