その3
扉を開けて彼が姿を現した途端、教室がざわついたどころではなく、どよめいたどころでもなく、教室は女子生徒の絶叫と悲鳴が渦巻く阿鼻叫喚地獄へと変貌した!
予告されず、いきなり人気芸能人が現れたかのような熱狂ぶりだった。
女生徒たちは腹の底から黄色い歓声をあげているものの、どこか畏怖するように、美少年との距離を空けている。このような奇怪な状況に慣れているのか、美少年は涼しい面持ちで教室内に目を巡らせた。自分を探しているのかもしれないと思った理闘は、机に突っ伏して顔を隠した。だが気配でわかる。あいつが机の脇に立っているのがわかる。女子の悲鳴が痛々しい絶叫に変わった。美少年の目的が理闘だと判明したからだろう。
何。どうして。なんで。ちょっと。わけわかんない。やだ。嘘よ。信じたくない。許せない。誰あれ。どういうこと。あれ寝てんの。どういう神経してんの。
恐らくクラス中の女子という女子が一斉に刺々しい疑問を吐き出しているのだろうが、誰がどの台詞を言ったかまでは把握できない。居たたまれなくなり、覚悟を決めて理闘が顔をあげると美少年と目が合った。理闘は乾いた笑いを、ははと漏らした。
「チョコレートの、代金でも、くれるのかな?」
美少年の目的が理闘だと確定すると、女子たちが一斉に黙り、教室は水を打ったように静まり返った。この落差が怖い。ごくりと息を呑む音さえ響いてしまう。
「身体で払います」
「は」
「昨日のお礼です」
「からだ?」
理闘が目を丸めたと同時に、教室内では一斉に、ぎゃああああああああああああああああああという女子たちの悲鳴が滝のように噴きあがった。悔しさと嫉妬で濁りきった、重苦しくごわついた絶叫の渦だった。
「来て!」
耐え切れずに理闘は美少年の腕を掴んで教室外まで引きずり出し、ずんずんと早足で廊下を進んでゆく。行く先はどこでもいい。とにかく教室から離れたい。
「あんた何者なの! 怖いんだけど! 教室に戻るのも怖いし! 何あれ! 昨日のチョコの件じゃないわけ? 身体って何! あんた人気あるみたいだし、確かに売れる商品になるかもしんないけど私に売ってどうすんのよ! 売るとこ間違ってんでしょうが! 順番が違う! 売って、金にしてから、私にリターンよ! わかる? ああ違う。やだやだ。この言い方だと管理売春に間違えられて訴えられたら困るー! 違うー! そうじゃなくてー!」
「肉体労働をします」
「明らかに無理ね。え、ちょっと」
美少年は能面をつけたように表情を崩さず、こくりと頷き、理闘を置き去りにしてすたすたと去っていった。嵐のようにやってきて嵐のように去り、そして教室に嵐の粗大ごみだけを残してゆく。理闘は茫然と立ち尽くした。我に返り、教室に戻ることを考えるだけで憂鬱になる。格闘に慣れているのでやすやす殴られる理闘ではないが、無力な女子を相手に真剣に殴り合いをするわけにもいかない。
案の定、席に戻ってからも誰も質問してこないので弁明する機会すら与えられず、ひたすらひそひそジロジロの刑に晒され続けた。
自分には恐いものなどないと、厳しい修行で精神を鍛えて恐怖を克服したのだと自負していたのに――陰口が怖い。嫉妬の目が怖い。一般的な女子高校生は、守るべき庇護対象として、いわゆる最弱の部類に属していると今日まで信じてきた理闘だが、何をしても彼女たちに勝てる気がしなかった。
授業が終わるたびにトイレに駆け込み、授業が始まる寸前に席に戻ったが、それでも女子が授業中にノートの切れ端メモを回し読みしていることが恐怖だった。クラス中の女子全員から徹底的に無視される男子生徒の痛みが心の底から理解できた。
昼休みを知らせるチャイムと同時に廊下へ駆けだすと、贅肉のないほっそりとした体つきの女子生徒が「待って!」と広げた両腕で進路を塞ぎ、理闘はひっと咽喉を縮めて足を止めた。理闘のクラスにはいない顔だ。彼女は頼りない背中から腰の曲線をくねくねと揺らしながら、理闘の様子を窺うように見つめてくる。罵倒される気配がなくてほっとした。
「こちらを鮎川くんに渡してくださる?」
透明なビニルで個装されたカップケーキが積まれた籐の籠を差し出してくる。
「え、誰に?」
「鮎川くんに。お願いできないかしら?」
「誰ですかそれ」
「あなた、親戚ではないの? 鮎川くんの」
「違います」
「まあ、そうなんですの? ではどういったご関係なのかしら?」
女子生徒が理闘の肩口に手を伸ばしてきたので、反射的にその腕を弾いてしまった。暴力ではない、と証明するために理闘は両手を挙げた。痴漢冤罪を主張する男性の気持ちが理解できた。
「どんなって……あ、あの、それって、ロン毛男子でしょーかね。顔の整った」
「まさかあなた、鮎川くんの名前も知らなくて? もしかして外部入学生かしら?」
「ええ、今年入学して」
「ならどうして鮎川くんと喋っていたの? どうやって! 用もないのにわざわざ別の教室まで足を運ぶなんてありえなくてよ? あの、鮎川くんですわよ?」
女子生徒が目を血走らせながら早口で詰問してくる。経緯を話せば単純なことではあるが、彼が襲撃されたことや、赤い腕章の男たちにも触れなければならず、諸々の原因がわからないからこそ他言するのに抵抗がある。
「えーと、まあ、いろいろあって」
「いろいろ?」
「いろいろあったけど、ないといえばないというか、私と彼は他人だし、クラスも違うし、ああ、そうそう、プレゼントは私が渡すより自分で手渡した方が彼も喜ぶんじゃないかなあ……なんて……あはは」
肩口で切り揃えたおかっぱ頭をぽりぽり掻くと、女子生徒が更に目を剥いた。
「畏れ多い!」
「え?」
「鮎川くんのパーソナルスペースに入れる人間はご家族だけだと思いますわ。家族と、他には主治医などですわね! 同性や教師だって迂闊に近づけない。たぶん近くで目が合ったら目が潰れてしまう。身体がどろどろに溶けてしまう! 声! 鮎川くんの声だって滅多に聞けないのに! たぶん声を聞いたら石になってしまいますわ!」
あの美少年は呪われた妖怪か神様だろうか。
抜群に目を惹く特異な容姿ではあるが、そこまで神聖視される理由がわからない。無意味に初心者向けの英語テキストを羅列するようなコミュ障だと思うのだが。
女子生徒がくねくねと身体を揺らして顔を伏せた。
「それとも、鮎川くんは手作りお菓子なんて口にしなかったりしますの……?」
「甘いものは好きそうかな?」
一瞬でチョコレートを食べきった現場を目撃したばかりだ。女子生徒が満面の笑みを浮かべて籐の籠を理闘に押し付けてくる。
「なら渡しておいてくださる? お願いしますわね!」
鮎川のクラスを知らないし、むしろ逆にこっそり彼の素性を調べて、顔を合わせないよう避けて学園生活を送る計画だった。彼女はポケットから財布を取り出して千円札を二枚、籐の籠に突っ込んだ。
「ダメならダメでよろしいの。ううん、ダメで元々だと思っております。もし渡せなかったらあなたが食べてくださる? 食べたくなかったら捨ててもよいので、ね、お願いしますわ!」
「お金……?」
「チップ、足りなくて?」
彼女は更に千円札を一枚追加して、ぺこりと頭を下げた。
「鮎川くんと接点のあるあなたにしか頼めませんの。どうかお願いいたします!」
「ちょ」
言い逃げて去ってゆく彼女の後姿を目で追いながら、理闘は茫然とした。三千円。カップケーキをあの男に手渡すだけで三千円の代行賃を得られるなんて法外すぎる!
はちみつとバターを贅沢に使用した芳醇な照りが食欲をそそるカップケーキ。チョコやナッツがコーティングされていたり、こってりクリームが巻いてあるケーキもある。
「あ、名前……」
廊下に溢れる生徒たちに紛れてしまい、今から彼女を追うのは難しいだろう。
美少年は有名人らしいので所属クラスはすぐに割れるはずだが、差出人であるくねくね彼女について調べようがない。この学園は私服で登校するので学年が特定できないし、大人びた中等部の生徒の可能性もあるし、幼い大学生かもしれない。
理闘は指に馴染む紙幣の感触を楽しむように何度も何度も数え直した。
三千円。労せず三千円を得られる己の強運に感謝したくなる。さすが良家の子息たちが通う学園だ。三千円は、彼らにとって子供の駄賃ほどの価値しかないのだろう。
いひひと下品にほくそ笑む理闘の背後から、にゅっと腕が伸びてきた。
「うまそ~」
昨日、玄関口でスタンガンを振り回していたオレンジ頭が、籐の籠からカップケーキをひとつ摘まみあげた。
「あんた! やめなさいよ。それは女子から託されたもので、私のものじゃないの。さっさと返しなさい」
「知ってる知ってる~。ずっと見てたし。さっきのミルミルっちじゃん?」
「さっきの人、あんたの知り合い?」
「はっはー。だからさ、俺、学園の女の子はすべて網羅してンだって」
オレンジ頭が得意げな顔で彼女の個人情報を流暢に語りだす。本当に、全校の女子生徒の素性を暗記しているのかもしれない。
高等部二年、沖田美瑠、父親は大きな製糖工場を幾つも所有し、全国規模でヒット商品となった有名な袋詰めクッキーの製菓会社も営んでいる。理闘も社名は知っていた。
オレンジ頭が包装を破いてカップケーキに被りつく。
「あ」
止める暇もなかった。指先についたスポンジをぺろりと舐めとると、オレンジ頭がけたけたと笑う。
「美瑠っち、食べていいって言ってたじゃん。平気平気。ひとつくらい食べてもバレないって。何なら全部食っちまってもいいくらいで……」
「ダメに決まってるでしょ。やってること泥棒よ?」
「だってよー、鮎川儷にだろ~? あいつに食わすくらいなら俺が食っちゃる!」
「やめなさい!」
バスケボールを操るように胴から背へとぐるぐる籐の籠を回して、オレンジ頭の魔手から逃れようとステップを踏んだ時、昨日玄関先でオレンジ頭といちゃついていた女子生徒が彼の腹に抱き着きながら、むうと口唇を尖らせて理闘を睨んでくる。
「もお探したよぉ。黙っていなくなっちゃヤダ」
「わーごめん。今戻る」
オレンジ頭が薄っぺらい謝罪を返すが、彼女の機嫌は直らず、じっとりとした目で理闘を睨み続けている。冤罪だ! この男とは何の関係もない! そう示すように両手を挙げると、彼女が不満そうな声を落とした。
「迅晴くんは私のものなんだから。あげないんだからぁ」
「うひょー。殺し文句!」
またしても二人三脚のようにお互いに寄り掛かりながら歩くので、体重移動が儘ならず、大きく廊下を蛇行しながら進んでゆく。迅晴と呼ばれたオレンジ頭が軽くこちらを振り向いて、軽く手をあげ、約束を取り付けるかのように片目を閉じた。
彼女――いわゆる恋人を脇に抱えている状態なのだから、少しは慎みを覚えた方がいいのにとやや呆れた。覚悟を決めて教室に戻ると意外な展開に巻き込まれた。大好きな主人の帰宅を喜ぶ子犬が戯れてくるように、いきなり三人の級友に取り囲まれた。油断していて間合いを取ることもできなかった。
「わたしも鮎川くんに渡してほしいものがあるんだけど!」
「私も」
「私も」
あっという間に、高級な包装紙の箱や有名ブランドの袋で両手が塞がってしまう。騒動に気付いた他の級友たちが「私も私も」と押しかけてきて収拾がつかなくなった。
どうやら廊下での一部始終を目撃されたらしい。まったく気づかなかった。悪意や敵意には敏感であれと教わってきたし、さんざん訓練も積んできたが、一般女子生徒からの監視すら感知できないとは、自分の未熟さを反省するしかなかった。
ひとつひとつ贈り物に付箋を貼って数字を記入し、ノートに数字と送り主の氏名を整理してゆく。手紙は一通もなかったし、プレゼントに添えるカードの類もなかった。
「受け取ってくれるだけで充分なの」
全員が同じ言葉を口にした。そうして一律、理闘への駄賃として三千円を渡してくる。プレゼントの数は十二個なので瞬く間に三万六千円が懐に転がり込んできた!
信じられない! 意味がわからない! お金の価値に無頓着過ぎないか?
鮎川儷に贈る相応な品が手元にないらしき女子たちが恨めしそうに理闘を見遣り、こそこそと耳打ちし合っている。だが気にならなかった。何せ、品物を預かるだけで三万六千円。労せず大金を手に入れたのだから!
どうやら鮎川儷は特別な有名人で女生徒から絶大なる人気を誇り、安易に所在を尋ねてはならない存在らしいので、理闘は昨日立ち寄った事務局で所属クラスを調べた。白髪の配分が絶妙な壮年の担当者があっさりと教えてくれた。
「まだ財布の落し物は届いとらんのよ。気長に待っちょって」
「引き続きお願いします。絶対ですよ。絶対」
担当者が丸い遠近両用眼鏡の位置をずらして手元の書類を確かめる。
「あなた、高等部からの外部入学生かね」
「そうですけど」
「そうかい、ならこういう制度もとっくに知ってるかの。学費免除制度いう」
「え、免除? 無料ってこと?」
理闘が小さなスライドガラスの小窓に顔を潰す勢いで身を乗り出すと、壮年の担当者が老獪に笑う。
「契約書をかわせば学費免除の申請ができてな、そんじゃ一応説明しちゃろうか。この制度は入学してからも申請はできる。学園からの要望や課題をこなせば学費が還付される制度でな、詳しくはあれに書かれておる。ふーむ、どれどれ」
担当者が戸棚から分厚い――十五センチほどのファイルを持ち出してどんと置く。辞書じゃないか。こんなの読破できる気がしない。
学費の還付は魅力的だが契約までの道のりが険し過ぎる。
理闘は笑って誤魔化した。
「あはは。申請については保護者と相談してから検討します」
「いつでも来んさい」
「それよりも財布! 私の財布を頼みますね。よろしくです」
念を押しつつ、理闘は剥き出しの三万六千円を収めたスカートのポケットを無意識に撫でた。布越しでも紙幣の感触が伝わってきて喜びを隠しきれない。
この学園チョロすぎる。
世間知らずにもほどがある。
明日もこの調子で儲けることができるかもしれない。他のクラスの女子からも依頼されるよう噂を流したり、または公式に受付をアナウンスしてみようか。その際は詐欺だと誤解されないよう丁寧に、責任について説明を施しておかねばなるまい。策を練ろう。
放課後、鮎川儷のクラスに乗り込んで贈り物を配達した。依頼された品に食べ物が含まれているのだから日を跨がない方がいい。
やはり――鮎川儷の席に到着したと同時に、教室にいたすべての女子から悲鳴が上がった。理闘のクラスと比べて百倍ほども増した悲鳴が窓硝子をぴしぴしと振動させた。悲鳴にはそれとなく憎しみや怨嗟が混じっている。だが気にならない。三万六千円――美瑠の分を足すとほぼ四万円だ。たったこれだけで四万円!
悲鳴がむしろ心地よい。どんどん騒げ。もっと嘆くがいい。理不尽な嫉妬であろうと、それを許して余りある余裕が今の理闘にはある。
「確かに届けたわよ?」
鮎川儷の手首を掴み、人差し指の腹にインクをつけて、依頼された女子生徒の名を記したノートに指印させる。学園の校舎全体が揺れるのではないかと心配になるほど一際大きな悲鳴が耳を劈く。あーあー聞こえない聞こえない。
ただひとり――鮎川儷だけは、机に積まれた贈り物の数々をまっすぐ見据えながら、勝負のつかない囲碁の作戦を練るように、きりりと険しく眉を寄せていた。