その12
上条迅晴は靴の踵を踏んだまま、付属大学の総合体育館の奥にある第二グラウンドを目指してよたよた歩く。ふとテニスコートで練習試合を行っている女子選手の両脚に釘付けになった。躍動する筋肉が生々しい。弾力ある太腿も、腕を振り上げた時の脇も、ラケットを操る二の腕も精悍で美しく、健康的に焼けた肌も、弾を打つ時に踏ん張る声も生命の息吹を感じてたまらない。許されるなら何時間でも眺めていたい。
ピッと笛が鳴った。
スコアを記録するジャージ姿の女子大生がタブレットにペンを走らせる。真剣な眼差しが健気だった。その傍らでは眼鏡をかけたジャージ女子大生がタオルを握りしめて応援の声をあげている。無防備に開閉する口元がセクシーで、迅晴は無意識に凝視していた。ふたりが動くたびに着用ジャージが曲線を変え、太陽の照りが身体のラインを強調させる。身体にフィットした薄着は最高だが、ゆるい生地が時々張り付く姿も捨てがたい。彼シャツもいいが彼女のルームウェアもいい。おわかりいただけるだろう。
幼い頃からどれだけ考え抜いても答えの出ない問いがある。
果たして女という生き物は同じ人間なのだろうか。
別の生命体だと言われたら一秒で納得できるのに、同じ人間であるかと問われたら一生悩み続けるに違いない。
性差がある。体格差がある。脳の構造が違う。体力が違う。能力が違う。興味が違う。
挙げればキリがないほど異なっているのに――同じ人間だという。
試合を目で追いながら哲学的な思考を働かせていると、第二グラウンドで待ち合わせたはずのロクが現れた。
迅晴が軽く手をあげて心のこもらない謝罪を口にする。
「おー悪い。今行くとこだった。テニス見てた」
「知り合い?」
「ちょっとな。先月ナンパしたら成功した。選手の方。あんま見んなって」
ロクが嘆息を落として肩を竦めた。
「行こうか」
コートから踵を返す瞬間、ベンチ脇のジャージ女子ふたりが迅晴の動きに釣られたらしく、どちらとも目があった。幸い距離があったので、ふたりの中間に照準を合わせてウインクしておく。どうか縁がありますように。せめて一人だけでも。
――ロクの本名は知らない。
最初からロクと呼ばれていたので綽名の由来も知らない。年齢も知らない。連絡はSNSで済ませ、待ち合わせはいつも付属大学の敷地だが、専攻する学部も知らなかった。知らなくても何も問題がなかった。
百七十センチ弱の身長。痩せ型。洒落っ気のない平凡な無地の服を好んで着ているが、小顔であり、全体の骨格の均整がとれているので何を着てもスマートに見える。
とくに藍色の腕時計はいかにも高そうだ。
中性的な顔立ちは女受けがいい。モテる男は最高に大嫌いだが、迅晴にとっては都合の良い仲間でもあるので、よほど邪魔にならない限りは縁を繋いでおきたい。
各球技に使えるようゲームのラインが交錯する屋外コートが三面並んでいる。その奥に新緑も眩しい樹々が整然と植えられており、案内されるままついてゆくと、やじろべえに似た木の前でロクが屈みこんだ。
「野良猫は……」
ロクがぽつりぽつりと独白のように声を落とす。
「猫はネズミや鳥を狩ってきて飼い主に戦利品を見せるという習性がある」
「猫の話? なんか聞いたことあるわ」
「飼い猫ですら野生を捨てられない。野良猫なら尚更だ。調査によれば米国で猫が殺した野鳥の数は一年間で二十億羽を超え、その七割が野良猫の仕業だったらしい」
「二十億羽?」
山盛りのフライドチキンを想像するも、すぐに打ち消した。
「放置された野良猫が希少な野鳥を殺す。これは環境問題でもある」
「いきなり問題がでけえな」
「人間は仔猫を可愛がる。見知らぬ野鳥と仔猫を天秤にかけると猫の味方をする。野良猫に餌をあげて善人面したがる。問題は猫の繁殖スピードが早いことだ。大量の野良猫は腸内で寄生虫を増やし、あちこちで糞便を残しながら感染症を媒介していく。トキソプラズマ症は温血脊椎動物に有効だが健康な人間にはほぼ感染しない。ただし免疫不全や妊婦はその限りではなく、現代における精神的な病に関与している説もある。予防ワクチンもないから危険なんだよ」
「難しい話かよ」
「失礼。話題が硬すぎたかな」
「俺は可愛いにゃんこを迎えに来ただけ」
「わかった」
ロクが眠っている子猫の愛らしい顔を優しく撫でた。
「ピアスをつけたから外に放しても大丈夫な子猫だ」
「やっぱピアスな! 穴開けんとな。ちなみにそれってGPSの代わりなん?」
「いや……追跡機器を使うならマイクロチップがあるけど、それとは違う。避妊や去勢済の証として野良猫の耳をV字またはサクラ型にカットするのが普通なんだが、何だかいたたまれなくて、代わりに耳に桜の形をしたピアスを刺した」
「おー」
「美人だろう?」
ロクの掌が毛並みの良い小さな頭を撫でるとにゃあと声があがる。
隣で膝を折り、まじまじと眺めていると、縋るような瞳で見上げてきて甘えるようにみゃあみゃあと鳴き始める。やばい。胸がきゅんと疼いた。
ロクに促されて木の裏側まで移動する。
「こっちが新しく保護した子猫たち」
「いち、に、さん? 多くね?」
「もっとたくさんいたんだよ。手が足りないから他に回したんだ。うちにはまだ保護してる子が残っているから」
「つーか、みんなぐったりしてっけど、これ寝てんの? 病気じゃないよな?」
「そう、薬で眠ってる。目立たないようにそっと運んでくれないか。子猫たちに騒がれたら厄介だ。裏に車を回してある」
「おし任せろ」
子猫を抱えながらフェンスの簡易鍵を外して外に出ると、それらしき白いバンが待機していた。座席の最後尾から順序良く、意識のない子猫たちを並べてゆく。
無口な運転手が挨拶も残さずエンジンをふかして去っていった。ロクの家が何屋を営んでいるかは知らないが、白いバンは新車に近い上等なものだった。
迅晴が能天気に背伸びしたあと、尻ポケットに突っ込んであったコンドーム箱をロクに手渡した。
「ヘイ。約束通り、とりあえず二つ」
「どうだった?」
「まだ使ってないからわかんねえ。さっそく今晩使ってみよっかな」
にひひと下品な笑いを発しながら、コンドームと交換でピアスをつけた子猫を受け取る。人差し指の裏で顎を撫でながら、声を裏返して機嫌を窺ってみる。
「にゃー? にゃん?」
迅晴が変顔を作ると嬉しそうににゃあと鳴いた。お気に召したらしい。両手で抱っこしたり、丸い頬をくすぐってみる。
「にゃー」
高等部の校門に待たせていた送迎車に乗ると、今日は自宅ではなく、迅晴が遊び部屋として使っている賃貸マンションへと向かった。さすがに自宅では飼えない。
この子猫は避妊施術を終えて、ピアスという自由の札を手に入れた。
一時的に迅晴の元にやってきたものの、二日内に手放す約束になっている。
迅晴は膝ですやすやと寝息を立てる子猫の耳を指でつまんだ。
そういえぱ――我が生涯愛しの演劇部のスターもファンの耳たぶを撫でていたっけ。
お嬢もファンを子猫ちゃんと呼んでいたなと思い出して、迅晴はふふと笑った。




