婚約破棄された可哀想な公爵令嬢?いいえ、本当の姿は───
連載版を書きました、よかったらそちらも読んでください!
「クロスティア・ヴィスコンティ、お前との婚約を破棄する!」
男は手に持っていたグラスを傾けながら目の前に立っている女性の頭に葡萄酒をかけた。
本日はここヴァイリン王国の建国記念日でありそれを祝う晩餐会の最中であった。国内の貴族だけでなく他国からも王侯貴族が参加するという大規模な晩餐会で宮廷内は心地よい演奏が奏でられ、賑やかな雰囲気であった。それが一人の男の発言と行動により凍り付いてしまったのは言うまでもない。その男とはこの国の王太子であるルーカス・ザルティア・ヴァイリンである。
───今なにを…?他国の来賓が出席しているのに婚約者にワインをかけて婚約破棄を口にするなんて…
今は亡き王妃の忘れ形見であり、この国唯一の王太子は決して傲慢に育ったわけではなく民に寄り添う優しい王太子として名を馳せていた。けれど、婚約者クロスティアに対する態度にはいつも棘があり葡萄酒をかける程度で済ませた今回はとても優しいといえる。ヴァイリン王国の次期国王が人前でこんな失態を犯す事は自分が無能だと知らしめるだけ。なのに王太子は自分の言動に自信を持っているのか堂々としていた。王族にしか受け継がれない金色に輝く髪を揺らし、大きな藍色の瞳に怒りを滲ませている彼が空いたグラスを投げ捨てると割れた破片がクロスティアの足元に飛び散った。
───五年も耐えた結果がこれ?
クロスティアは頭から葡萄酒を被せられても身動き一つ取らなかった。
ルーカス王太子は普段からエスコートはしてくれるもののその後は放置して関わろうともしない、それだけでクロスティアへ向けられる周りの視線は痛いものだった。その癖クロスティアの行動には神経を尖らせており小さなミス一つ見逃すことはない。帰りの馬車では躾と称して火魔法を使いドレスで見えない二の腕に火傷を負わせ、腹の虫が悪い時は暫く歩けないように脹脛に火傷を負わせていた。それでもクロスティアは王妃になるために婚約を続けるために痛いことも屈辱も何もかも耐えた、いつか報われることを信じて。
「聞こえたのか?貴様はもう王妃になれない」
「……それは、どういう意味でしょう」
表舞台に出る際には必ず紫色の扇子で口元を隠しているクロスティアは今日も左手で扇子を持ちいつものように口元を隠していた。公然の前で婚約破棄を宣言されても狼狽える姿は見せず、艶々した桜色の小さな唇を開いて問いかけたあとルーカス王太子へ視線を向ける。鈴がリンと音を奏でる様に綺麗な声が扇子越しに聞こえてくる。何故婚約破棄をするのか、ではなくその意味を問うクロスティアはルーカス王太子から一瞬視線を逸らして壇上の玉座に座っている国王陛下…の傍に立っている男を見た。今にも剣を抜きそうな程怒りに震えているあの人はこの国の宰相であり私の義父でもあるイーサン・ヴィスコンティ公爵。
「意味だと?」
視線を外している間に返答をして来た王太子に再び視線を戻す。
本来なら今日の晩餐会もルーカス王太子にエスコートされるはずだった、けれど迎えの時間に公爵邸へやって来たのは側近だった。
『王太子殿下はリリアン様と晩餐会にご出席なさるとのことです』
側近の言葉にお義父様はとてもお怒りになってしまった。私がどれだけ謝っても怒りを抑えてくれることはなかったけれど晩餐会にはお義父様がエスコートしてくれる事になった、でも王城へ移動中もずっと怒っていて顔が見れなかった。…大丈夫、大丈夫よお義父様、土下座してでも王妃の座に縋るから。
「この婚約の意味は殿下もわからないわけではないでしょう」
クロスティアが声を発すると揺れるなだらかで小さな肩は抱き寄せるだけで壊れてしまいそうだがいまは胸を張って懸命に王太子を諭す。そんな馬鹿げた事はしないで欲しいと願いを込めて。
愛らしい兎のように長い睫毛、ほんのりと色付いた白桃を思い起こさせる頬、陶器のように白い肌、腰まである長いナチュラルウェーブのかかった淡い水色の髪、性別など関係なく誰もが釘付けになるであろう美しい容姿のクロスティアだが国中の人間に好ましく思われてない理由があった。
「その醜い瞳を私に向けるな」
この世界には魔族が存在する。大陸の一番端に闇の帝国として建国しており魔族は闇魔法を使う事に長けている。それに対して人間は火・風・土・水・光の五大魔法のどれかを生まれ持っているが唯一使えないのが闇魔法であった。そんな世の中でクロスティアの瞳は魔王の血を引く者にしか現れないという血に染まったような真っ赤な瞳なのが問題であった、歴代の魔王が人間の返り血を浴びたせいで赤くなったという言い伝えがあるほど不吉の象徴。だがクロスティアは”魔力なし”、魔法が使えない体質なのが幸いだった。魔法が使えないというのは異質な存在ではなく平民は基本的に魔力なしで貴族や王族だけが魔法を使えた、そのため養女のクロスティアが魔力なしなのは平民出身だからだと誰もが納得していた。
「私に至らない点があったのならおっしゃってください…ですからどうか考え直してください」
「白々しい…リリアンをあれほど傷付け泣かせておきながら貴様の言葉など聞きたくない、だが誠意を見せれば考えてやらないこともない」
ヴィスコンティ公爵家はヴァイリン王国を建国当初から支えてきた由緒ある家門だ。
公爵家出身の者が代々国の宰相の座を継いでおり、過去には王女が何人も降下した事があるため王族の血も流れていた。今代の当主イーサン公爵とソフィア公爵夫人には一人息子のセオドアがいる、公爵家の次期当主の跡取りは十三歳になると隣国にある大陸最大の面積を保有している最恐のヴィシュルタ帝国に一年間の留学が決まっている。ヴァイリン王国は建国時から第一子が家督を継ぐ事が掟になっており後継者を争う身内同士の殺し合いを避けるための掟だ。頭の使えない無能で馬鹿な王子が第一子であっても国王として君臨させなければならない。そんな王族を支える為に留学へ向かうのだ、そこでセオドアは九歳のクロスティアに出会った。
掟のせいで長男は可愛がられるのに対して次男はゴミのように扱う家門が少なからず存在した、近年では次男以降の子息達が人目を避けて反逆を企てる集会を開いているという噂も耳にする。こんな物騒な世の中で王家の後ろ盾筆頭がヴィスコンティ公爵家だった、十歳の歳に養女となったクロスティアは王家との繋がりを更に強固にする象徴的存在であり王家に手を出せば婚約者の家門であるヴィスコンティ公爵家を敵に回す事を意味していた。なのに王太子はそれを理解していない。
「誠意が見えないな…」
ルーカス王太子の言葉は蛇の様にクロスティアに絡まり精神的に追いつめていく。
クロスティアはどうしても王妃にならなくてはいけない、だから床にガラスの破片が飛び散っていようと座り込んだ。そんなことはしなくていいと言ってくれる者はここにはいない、見世物を見るように野次馬からはクスクスという笑い声が耳に届く。破片が足に刺さる痛みに涙が滲み出そうになるがクロスティアは水色の長い髪が床へはらりとつくほど頭を下げた。
「どうか……どうか、私にもう一度やり直すチャンスをください」
「貴様にチャンスなどない。例え土下座しようともな」
取り付く島もないほど冷ややかな声と視線はクロスティアの背中に向けられた。誠意を見せろと口にしておいて初めからチャンスを与える気はなかったのだ、ただクロスティアを操る事を楽しんで自分の自尊心を満たしたいだけだった。クロスティアも期待していたわけではなかったが少しの可能性はあるのではと信じていた、はからずしも五年の歳月を共に過ごしてきた仲なのだから情は残っているだろうと思ったが彼にそんなものはなかった。クロスティアは赤眼だからという事でこれほど嫌われてこんな事をさせられる悔しさと心の痛みとでかつてないほどの情緒の乱れを感じた。
「ルーカス殿下いったい何を…っ!?」
驚きの声を上げて慌ただしい様子で駆け付けたのは次期公爵家当主のセオドア・ヴィスコンティ、クロスティアの義兄だ。土下座をしている私を起こして立ち上がらせてくれる唯一の味方。
高身長で輝く銀髪に黒曜石のように綺麗な目は凛々しく、顔周りにはキラキラと輝きが舞って見える端整な顔立ちにモテない要素は何一つなかった。十八歳なのに婚約者も居ないことから令嬢たちがこぞって未来の公爵夫人の座を狙っている、だがセオドアは他の女性に見向きもしないほどクロスティアをとても大切にしていた。公爵邸で行われるクロスティア主催のお茶会に令嬢たちが出席するのもセオドア目的でクロスティアの友達は誰一人いない。クロスティアにビンタをされた女性が泣き出してしまったら屋敷から駆け付けて介抱するなど後処理はいつもセオドアが行っていた、だがクロスティアには問題を起こした事に対する説教や文句は言わないほど甘やかすことが当たり前。異様ともいえる光景に、そこまでして庇うのは血が繋がっていないクロスティアをそういう目で見ているのでは、という噂が後を絶たない。
お義兄様はそんな馬鹿げた噂を気にするような人ではないけど火のない所に煙は立たないでしょう?お義兄様が私を妹としてではなく一人の女性として見ているっていうのは事実なの。
「私ルーカス・ザルティア・ヴァイリンはクロスティア・ヴィスコンティ公爵令嬢と婚約を破棄して新たな婚約者には聖女リリアンを据え置くことに決めた!」
お義兄様が顔に垂れて来た葡萄酒を拭いてくれている間に、ルーカス王太子は白いマントを靡かせながら参加者達の方を向いて高らかに宣言をした。これでもう終わってしまった。皆が証人となったこの状況では何をしたって彼の自尊心を満たすだけの行為になるだけ…五年の努力がこんな一瞬で無駄になるなんて最悪。でも、これで彼の意地悪に耐える必要もないって思うと少し吹っ切れそう。クロスティアはドレスの袖で隠れている自身の腕をぎゅう、と抑えた。治る前に何度も火傷を付けられるせいで消えなくなってしまった痣はもう痛くないはずなのにチクリと痛む気がした。
「っは。決めた…と言われましてもこの婚約は我が公爵家からではなく王家の方から打診されたもの。お言葉ですが王太子といえど国王陛下の王命には背けますまい」
お義兄様が小馬鹿にしたように鼻で笑う、その間も私の前に立って庇ってくれる姿に優しさを感じた。宝石の様に綺麗な瞳だが冷たさも兼ね備えている赤眼でクロスティアは王太子の後ろに隠れている女性に視線を向ける。クロスティアが贈られるはずだった淡い紫色のドレスは王太子の衣装とお揃いになっており、胸元に付けているネックレスもティアラも王家の宝だ。それを身に纏い本日王太子にエスコートされて入ってきた聖女リリアンは誰が見ても王太子の恋人だ。
「ルー…私、とても怖いわ」
「嗚呼、我が愛しのリリアン…怖がっている姿も愛らしい。私の心をどれほどかき乱せば済むんだい…けれど心配ないさ。例え悪女といえどこの国にとって何よりも大切な聖女であるリリアンには手出し出来ないさ。それにアイツは魔力なしだから大丈夫さ」
ルーカスの背後から現れた桃色のボブヘアーに蜂蜜色の瞳のリリアンは王太子を愛称で呼び彼の腕に抱き着いた。庇護欲を駆り立てる愛らしい顔立ちには似合わない豊満な体付きに、ルーカス王太子は欲を抑えられない顔をしている。もしリリアンが他国からのハニートラップだったらどうするつもりなのか、少し心配になる。
リリアンも普通ならば王太子に抱きつく行為は不敬罪で処罰を受ける対象である、そのうえ婚約者のいる男性に身を寄せて抱き着くのは淑女として有り得ない醜態。けれど彼女を責める者は誰一人として居なかった、なぜなら正真正銘の聖女だから。半年前に豊作を祝う収穫祭を祝っていた最中に眩い光に身を包み、風に運ばれる綿毛のようにゆっくりと舞い降りて来たのだ。この国には数百年に一度異世界からやって来る聖女の話が馴染みのあるお伽話であったがこの日、聖女の話がただのお伽話ではないと誰もが知る事となった。直ぐに王家がリリアンを保護をして王城へ連れて帰った、だが見知らぬ土地で知らない人に囲まれた聖女は不安そうで王太子は哀れに思い話し相手になれればと彼女の部屋に足を運んだ。私以外にはとても優しい王太子だったから何とも思わなかったけれど次第に王太子は彼女の虜になった。そして虜になったのは王太子だけではなく、騎士団長の息子に魔塔の次期主もリリアンにのめり込むように恋に落ちていった。
「リリアンに手出しはさせないぞ、クロスティア・ヴィスコンティ!」
リリアンを守るように野次馬の間から現れ、クロスティアを睨み付ける男はジャック・グラードン。
伯爵家でありながら王国騎士団長をここ数十年担っている魔法よりは武術に長けた家門の次男だ。茶髪の短髪に正装姿より鎧が似合うであろう褐色肌には戦いでついた古傷がチラホラと見える、彼は一年前に魔物との戦いで瀕死の重傷を負った。その事がトラウマとなり剣を握れなくなっていたがリリアンの聖女としての癒しの力と花が舞うような柔らかい笑顔で心の傷は次第に消えていった、それからジャックは彼女の幸せを守るために再び剣を握れるようになったのだ。
「無礼だぞジャック・グラードン、伯爵家の者が誰に向かって口を聞いてるんだ」
「セオドア...悪いがお前の妹であろうとリリアンを傷付けた罪は重い」
まるで既にリリアンが傷付いたとでも言いたげな口調にセオドアは眉間に皺を寄せる。ジャックの言葉を耳にした瞬間にリリアンは桜色の髪を垂らして俯いてしまい、態とらしく右腕を抑えた。そこが痛むかのような仕草にもう一人野次馬の間から緑髪の男が出てきて声を掛ける。
「リリアンちゃんまだ痛むよね...大丈夫?」
「大丈夫だよ、心配かけてごめんねアートルっ...私大丈夫だからっ...だから、クロスティアさんを責めないで...」
「あんな女、庇う必要なんかないよ!」
頼りなさそうな中性的で可愛らしい顔立ちをしているアートルは魔塔の次期主と言われている実力の持ち主。普通は一つの魔法しか持って生まれてこないのにアートルは光魔法以外の全てを使える天才だ。平民出身という事で魔塔に所属している貴族たちから冷遇されていたのをリリアンに出逢い彼も恋に落ちた。まるで巷で流行っている恋愛小説のヒロインようにリリアンは国で名高い彼等を虜にしたけれど、唯一落ちなかったのはセオドアお義兄様だけ。セオドアはリリアンが自分に近寄ってくる分には何も言わないのにクロスティアの話になると目の色が変わり、悪く言おうものなら女性相手にも声を荒らげる事からリリアンも困惑していた。
『こんなの…ゲームにはなかったじゃん、どうなってんのよ!ゲームの開始時期と舞台も違うし…このままセオドア様を落とせなかったら隠しルート開かないじゃないのッ』
リリアンがセオドアを落とせないまま怒鳴られた日、王城の廊下で呟いていたのをクロスティアは聞いていた。
「殿下、私はお義兄様が殿下にご質問した言葉の返答を聞いていません」
「黙れ!陛下はきっと私の言葉を優先してくださる、悪女より聖女リリアンが国母に相応しい!」
取り巻き達からの言葉には全くの関心も反応も示さないクロスティアは、ずっと睨み付けてくるルーカス王太子に声をかけたが返ってきたのは罵声だった。悪女、そう思うのは構わないが周りに人が居る状態で女性に声を荒らげ罵声を浴びせて、寄って集り令嬢を詰め寄るのはマイナスでしかないのに何故気付かないのか不思議で仕方ない。
「陛下!なりません、クロスティアとの婚約破棄など!...事実、聖女だからと言って王妃教育を受けたことのない平民同然の彼女に国母が務まるわけがない!」
イーサン公爵は宰相として陛下に忠言した。
「宰相、娘を王妃にして実権を握りたいのは分かるが…」
「実権など───!!」
イーサンは何かを言いかけたが堪えた。
その反応に国王陛下は何も言わないが、美しいクロスティアを養女にしたのは王妃にして国の実権を握るためなんだと想像を膨らませる者も少なからず居た。誰もが息を吞み、ピリつく雰囲気に静まり返っていた会場がルーカス王太子の言葉によって再びザワつきを取り戻す。
「クロスティアはリリアンをナイフで傷付けたのだ、それだけでなく人目を避けて幾度となくリリアンを攻撃している」
「どれだけリリアンを傷つけたら気が済むんだ」
「そうだよ!リリアンちゃんに手を出すなんて本当に頭が悪い行いだよ!」
魔族が蔓延るこの世界で聖女は存在が光であった。
聖女にしか使えない光魔法を使って祈りを捧げれば魔族を侵入させない結界を造り出し、聖女の居る国は百年安泰だと言われている。そんなリリアンを傷付けるのは王族を傷付けるより罪が重く、死罪に値する行為だ。
「…それになんの問題があるというの?」
自分は散々私に火傷を負わせて置きながらその事は棚に上げて糾弾してくるなんて…恋をすると盲目になるというけれど流石に頭にくるわね。
「事実がどうであれ私がする事は、本来なら殿下であろうと文句がいえないはず」
ザワついている貴族達を黙らせるようにクロスティアの鈴声はリンと響いた。
「なっ…!」
いつもは何をされても従順のクロスティアに反論されたルーカスは予想外の出来事に驚きを隠せなかった。
養女といえど王女の居ないこの国の最高位に現在居る女性はリリアンではなく公爵令嬢のクロスティアだ、平民同等の聖女を攻撃したからといってなんの問題があるのだろうか。その上、国家予算の資金はほぼヴィスコンティ公爵家が提供している。平民と貴族の間には圧倒的な壁と差が存在するのも優劣を判断するのに王家が作った身分制度なのだからクロスティアが文句を言われる筋合いはなかった。されど、リリアンは聖女。借り物の公爵令嬢の命と国を安寧に導く聖女の命、どちらが重いと言われれば誰もが口を揃えてリリアンの名を口にするだろう。
「私を愛するあまり、リリアンに嫉妬して彼女を傷付けたというのか!…聞いたか皆の者、彼女自身の言葉が証言になった」
魔族に家族を殺された者が多いこの世界で王妃も魔族によって殺された一人だった、それはルーカス王太子がわずか五歳の時の出来事。母親が恋しい時期に独りぼっちになってしまった可哀想な我が子に国王はついつい甘くなってしまう。赤眼に悪女と謳われる公爵令嬢より伝説の聖女を王室に召し上げたほうが平民や他国からの支持も得るだろうし、婚約破棄のことも平民に納得をしてもらえるはずだと国王は思考した。婚約破棄の茶番が始まってからずっとだんまりをキメていた国王陛下は顎髭を触りながら重く閉ざしていた口をやっと開く。
「……良かろう。クロスティア嬢との婚約破棄、並びに新たに聖女リリアンをルーカス王太子の婚約者として王室に迎える事も認めよう」
今夜の晩餐会は建国記念パーティと称して他国へ初めて聖女をお披露目する目的があった。
伝説の聖女の姿を一目見ようといつもは祝いの品と言葉だけの国から王族が駆け付け、海を渡った反対側の大陸からも使者が初めてやって来る。なによりこの大陸最恐のヴィシュルタ帝国からは祝いの品や言葉は今までなかったのに初めて手紙が届いた。
“霧らふ夜の 氷樹羽の如く美し 天の使 へ逢うのに 千年のこと。 小夜の月 天の使 へ 逢うし。”
天の使いとはまさに聖女の事だ。“氷樹羽のように美しい天の使いを待ちわびて千年が経った気分だ、晩餐会の日に会うのを楽しみにしている”。皇帝陛下が書いた帝国語の手紙には氷樹羽の名が出ていた。それは帝国の城の中にしか咲いていない神々しい樹の事だ、全体が氷の様に輝きを放っており葉は天使の羽のようにふわふわしている。帝国は始まりの国と言われており古代魔法まで存在している、だからどの国も帝国に目を付けられないようにこびへつらうことが当たり前。手紙を読んだ国王は皇帝陛下のみならず三人の皇子達も晩餐会に参加すると知り鼻高々だった、その横でイーサンの顔色が悪くなっているとも知らずに。
「これで聖女が我が国を離れることはないだろう」
招待客の中には伝説の聖女をあわよくば我が国に…と狙って来る者もいるだろう、だから他国に盗られてしまう前にこの国に繋ぎ止めておく理由が出来て国王陛下は安堵した様子で顎髭を撫でる。国王陛下の発表を聞いた国内の貴族達からは称賛の代わりにチラホラと乾いた拍手が聞こえてくる。
「なんと愚かなことを…」
セオドアは国王陛下の決定に身体を震わせながら拳を握り締めた。今回、クロスティアの傍に居られなかったのは五年前ヴィシュルタ帝国に留学した時にお世話になった皇族方を出迎えるためだ。本来なら王妃が出迎るのだがあいにく亡くなっている。だから代わりに宰相であり公爵家のイーサンとソフィア夫人に大役が回ってきたのだ。けれど直前になり王太子からエスコートを受けられなかったクロスティアの事で怒りが隠せず、イーサンは会場に一足早く到着していた息子のセオドアに出迎えを任せた。こんな失礼な事が許されるのはソフィア夫人が帝国出身ということだけでなく、皇帝陛下の従妹でもあるから。セオドアは初の大役に少し緊張を滲ませながら晩餐会が行われる王宮廷の外で皇帝陛下御一行を待っていた、けれど事の発端を地獄耳で聞き付けソフィア夫人を残して会場に戻ってきたのだ。
「終わった……もう終わりだ…」
国王陛下の隣に立っていたイーサンは婚約破棄を認めた国王の言葉を聞くといよいよ立ってられなくなったのか尻餅をつくように倒れてしまいそうなのを何とか堪えると、グッと歯を噛み締めてリリアンを睨み付けた。ヴィスコンティ公爵家の力を削ぎ落とし、あわよくば奪い取りたい家門の力も働いているのか国内の貴族たちにこの婚約破棄騒動を止める者は誰一人いない。茫然自失の者が多い中で騒動の中心にいるクロスティアだけは相も変わらず美しい立ち姿で他人事のような顔をしていた。
「クロスティア、貴様には…」
「もう婚約者では無いのですから名前で呼ばないでください」
「そんなこと言われなくとも分かっている!…ヴィスコンティ令嬢には聖女を傷付けた罪を命で償ってもらう」
ルーカス王太子の声と上げた片手を合図に胸元に赤色の飾りを付けている衛兵達が現れた。
この国の衛兵は胸元についている飾りの色で所属がどこなのか分かる仕組みになっている、王太子はこの騒動を前もって計画していたのか本来ならば晩餐会の会場に居るはずのない罪人を相手にする懲罰部隊を連れて来た。用意周到なのは好ましいことだが、普通は貴族が罪を犯してもその場で牢屋に連れていかれる事はないしその場で処罰が決定することもない。確固たる証拠が見つかるまで自宅謹慎処分が妥当、なのに王太子はリリアンからの告発と状況証拠だけでクロスティアの命を奪おうとしていた。
「クロスティアに触るな!これ以上はヴィスコンティ公爵家に対する宣戦布告と取るぞ!」
セオドアは衛兵に声を荒らげる。
大切な妹を守る優しい兄の姿に感動するのは若い令嬢たちだけ、名のある家門の当主たちはお互いの顔色を窺い王家に付くかヴィスコンティ公爵家に付くか判断していた。皆が会場の中心に夢中になっているその間にイーサン国王陛下からこっそり離れて妻ソフィアの元へ向かう。宮廷の入口にいる野次馬の後ろの方で両手を口元に当てて義娘に起こっている状況にショックを受けているソフィアが居た。それでもほわほわした雰囲気が漂っているのは彼女の人柄が聖母のように温かい人だから。
「ソフィア…!」
「イーサン、クロスティアが…」
「嗚呼、私も国王陛下の隣に居たから見ていたよ。クロスティアはセオドアに任せて私達は此処を離れよう」
イーサン公爵がソフィア夫人の手を引いて会場を出ようと足を踏み出した時、目の前にはジャック・グラードンの父であり王国騎士団長のグレナディが現れて二人の行く手を阻んだ。同い歳であるイーサンとグレナディは良き友であるが根っからの騎士道精神を重んじる彼は友情より王命を優先する生真面目な人間であった。グレナディを見たイーサンは自身の手首に付いているブレスレットに触れてからソフィア夫人を不要な争いに巻き込まないために抵抗はせず大人しく捕まった。クロスティアを守っていたセオドアも風魔法で小さな風の壁を作って誰も近づかせないようにしていたが、魔法を発動させると手首に付けているブレスレットが血管の流れを止める様にきつく締め付けてくる。
「あ゛ぁっ…!!」
痛みで力を少し緩めた隙にアートルがいとも簡単に風魔法をかき消してしまった。魔法では彼に敵わないと分かっているセオドアはクロスティアを守るように自分の背に隠す。衛兵や天才アートルを相手にどれだけ時間を稼げるかも分からなかったがこの状況を打開出来る策がセオドアにはあった。
けれど、国王陛下も聖女をお披露目するこの晩餐会を賑やかな雰囲気に戻したいのか衛兵に圧力をかけていく。イーサン公爵と夫人が騎士団に捕まっている状況で、ヴィスコンティ公爵家に手を貸すものなど誰も居なかった。
「お義兄様、守ってくれなくて大丈夫です」
クロスティアはちょんちょん、とセオドアの大きな背を扇子の先で突っ付いた。
「はっ?」
セオドアは前を向いて決して振り返ろうとしなかったがクロスティアが扇子で突いて来るから思わず隙を作ってしまった、その隙を見てアートルは攻撃を仕掛けてくる。セオドアに格の違いを見せつけたいのか目に見えない速さで風魔法を放つとセオドアの身体は呆気なくふっ飛んだ、そして鞭に似たしなっている草の弦がクルクル…と手足へ巻きつき動きを封じる。受身を取れなかった彼は背中から壁にぶつかったが自分の事よりクロスティアを心配して直ぐに顔を上げる。クロスティアもセオドアが吹っ飛んでいる間にアートルの魔法により両手を背で拘束されていた。
「公爵と夫人は直ぐに見捨てたようだが…セオドア如きでもお前に味方が居て良かったな」
衛兵の分厚い靴底で足を蹴られて床に座らされたクロスティアの姿にルーカス王太子は満足そうだった。とても公爵令嬢に行う行為ではないがこれが黙認されているのは赤眼だからだろう。たったそれだけだと思うかも知れないがこの世界ではそれだけ魔族は憎む対象であり人類の敵、でも私はこんなに綺麗な自分の瞳を恨んだことはない。この瞳の綺麗さがわからない彼らが可哀想よ。
「頭を下げて聖女様に謝罪しろ!」
一人の衛兵はクロスティアの髪の毛を引っ張るように鷲掴みすると強制的に頭を抑えた、誤算だったのは衛兵の力が強過ぎたのとクロスティアがひ弱だったこと。──コ゛ッ!骨が打ち付けられる鈍い音と共にクロスティアは額を床に叩き付けられた。そこまでするつもりはなかった衛兵は一瞬動揺を見せるが聖女を傷つけたことへの報いだと自分を正当化させて髪の毛から手を離す。
「ヴィスコンティ令嬢の額を見て、血が出てるわ…」
ざわ…。動揺の声がチラホラと聞こえ始めたのは公爵令嬢がたかが一介の衛兵に髪を掴まれる仕打ちを受け叩きつけられたのが信じられない光景だから。拘束せずとも魔法が使えないから逃げようはないのにルーカス王太子一行は血を見ても扱いを変えさせる事はなかった。それどころか“その程度の血”で騒ぐ周りが可笑しいと口を揃える。
「何をこれくらいで…リリアンが受けた仕打ちはこんな物ではないぞ!」
「ルー、クロスティアさんが可哀想よ…これ以上は止めてあげて!」
「リリアン、例え君の願いだとしても今回は聞けないんだ。聖女を傷付けた者は本人だけでなく一族郎党処罰を受ける対象だ、それ程までにリリアン…君は大切な存在なんだ」
リリアンは本心で止めて欲しいだなんて思っていなかった。
彼女は愛されるヒロインでありクロスティアはリリアンを引き立てる為だけに存在している悪役令嬢なのだから、行く末は破滅と決まっている。けれどヒロインとして聖女リリアンとして心優しい面をアピール出来る絶好のチャンスだと判断したのか名女優ばりの演技力で涙を流しながらルーカス王太子を止める。それに対する王太子の言葉は冷たい針の雨のようでクロスティアは心臓を搔きむしられたような痛みと喉の奥が熱くなる感覚に襲われた。それでも涙が流れないのは心の何処かで婚約破棄されたことが嬉しいからなのかも知れない。
「えっ?待って…まさかセオドア様も…殺されてしまうの?」
「王家に代々仕えてきた家門だからと言って見逃す事は出来ない」
「そんなの…駄目よ!!」
リリアンは愛らしい猫撫で声から戸惑いと怒りの籠った声色でドレスのスカートを握り締めた。
彼女が怒っている理由はセオドアからの愛されルートが閉じてしまったら、攻略対象全員を落としたハーレム成功報酬の隠しルートが開かないからだ。そしてリリアンが此処まで焦って攻略しようとしてるのはエンディングが近いから。
「セオドア様、…貴方はクロスティアさんの我儘と無駄な散財に苦しめられるんですよね?いつも問題を起こす彼女の後始末もさせられてきましたよね?貴方が苦しんできたのは知っています…義理の妹ばかり愛されて疎外感を感じていたことも知ってます。私なら助けてあげられます!だからどうか私の手を取ってください」
「……何を言ってるのか全くわからない。が、クロスティアの言葉は我儘なんかじゃないし、疎外感を感じたことは一度もない。それに散財に苦しめられるどころか財力があり余り過ぎてこの先五十年は安泰だが?」
「えっ…?なにそれ、だってゲームじゃセオドア様は義妹の事を嫌っていたはずじゃん…っ!」
セオドアの言葉が拍子抜けするくらい驚きで悪い夢を見ているように信じられなかった。リリアンにとってセオドアが自分を好きになるのは当たり前のことで、ここまで自分を好きにならないのは何かのバグだと思い込んでいたから世界がひっくり返った気がした。リリアンは黒板を引っ搔いた時に聞こえてくる耳障りな音に似た歯軋りをして、蜂蜜色の瞳には憎悪を浮かべてクロスティアを睨みつけた。今の彼女は導火線に火を付けられた花火のようにいつ爆発してもおかしくはない状態だ。そんなリリアンを初めて見たジャックとアートルはどうしていいのかわからなくて動けず、ルーカス王太子に至っては癇癪を起すリリアンを見て顔を引き攣らせていく。決して傲慢に育ったわけではないし、王家の立たされた状況もヴィスコンティ公爵家がいなければとっくに滅びていたことも理解している。そんな現状を打破しようと歴代の王族たちより勉学にも励んできた、それでも初めて恋を知った彼は積み上げ来たものが崩れ始めているとも気付かずにリリアンにのめり込んでいく。
「リリアンが望むのならばセオドアだけでも助かる様にしよう」
「本当ですか…?ふふ、それならよかったぁ~」
リリアンの顔色を窺いながらルーカス王太子が声を掛けると彼女は芝居がかった笑顔を見せた。
「…ふふっ」
クロスティアはそんな二人のやり取りを見て想わず肩を震わせながら笑い声を漏らす。
散々婚約者をコケにしてきた男が好きな人の尻に敷かれて振り回されている姿が面白くて仕方なかったのだ。あんなに頼りない姿を見ると、マチネで踊るバレリーナのようにルーカス王太子の好む女性を演じてきたのが馬鹿らしい。男は追いかけられるより追いかける方が好きなのかも知れないが、いつだって追いかけられる方が幸せに決まってる。その事にいつ気付くのだろうか。
「貴様…何がおかしい!」
王太子は自分が笑われて馬鹿にされたのが分かったのかクロスティアの頬を思い切り叩いた。パシンッ!と乾いた音が宮廷内に響き渡る。リリアンは王太子の後ろでざまあみろとでも言いたげな顔でこちらを見ており、アートルとジャックも眉ひとつ動かさなかった。ルーカス王太子は会場全体に広がるクロスティアを虐めても良いという雰囲気に呑まれて這い上がれないのか掌に火魔法を纏わせるとクロスティアの綺麗な顔に近づけていった。
「「やめろっ!!!」」
セオドアとイーサン公爵の声がハモると…コツン、と床を踏む場違いな足音が響いた。
「今宵は余の天使に会いに来ると告げたはず」
甘美な声と共にズトンッ!と重力が身体を押し潰すような感覚が宮廷内を包んでいく中でセオドアは打開策に必要な張本人が来た事を喜んだ。
「出迎えを忘れるほど何をしていたのだ」
「皇帝陛下…!!」
声の主に視線を向けるとヴィシュルタ帝国の皇帝が真っ赤なマントを靡かせながら会場の入り口に立っていた。それにはルーカス王太子も開いた口が塞がらない。セオドアがここに居るという事は出迎えの使者が誰も居なかったということ、そんな重大なことに気付かないほど頭が回らなかった自分の失態に血の気は悪くなっていく。皇帝の姿を捉えた参加者たちはヴァイリン王国の国王陛下含めて風を切るような音を立てて即座に頭を垂れた。
皇帝陛下の気分一つで消えた国は数え切れない。先月も帝国から離れた国で購入した品が土砂崩れにより到着が遅れた、たったそれだけでその土砂崩れを起こした小国は数時間後には血の海に変わり果てたのだ。参加者の中にその事を知らない者はいないためルーカス王太子や国王陛下が顔面蒼白な理由が分かるだろう。
「うっそ…皇帝ってこんなにイケメンなの…?!」
誰もが頭を下げる中で、この場に相応しくない言葉を発したのはリリアンだった。リリアンは晩餐会が始まる前に耳にタコが出来るほど聞かされていたことがある、他国からの参加者への挨拶周りの仕方に作法などは二の次で絶対に気を付けなくてはいけないのがレオナード・ラティス・ヴィシュルタ皇帝陛下だと。彼には形式的な挨拶以外は喋りかけられない限り喋りかけてはいけない、挨拶をする時も目を合わせるのは自殺行為でこの大陸に住む者なら魔王同等に恐れている絶対的存在であった。紫色の髪を豪快にかき上げている鬣のようなポニーテールとアシンメトリーになっている前髪、垂れ目の瞳は桃色をベースに黄金もかかっておりライオンのように冷たさを感じさせた。百九十五センチもある高身長に見合う紺色の正装はまさに皇帝を象徴する豪華絢爛であった。男らしさもある美しい見た目に甘美な声色は人々を惑わすが彼は絶対的な捕食者。今回の餌食は誰になるのか皆が息を呑んだ。
「ヴィシュルタの太陽に栄光と祝福をっ」
自分の一言でこの場の空気が凍り付いた事に気付いてないリリアンを隠すためにルーカス王太子はクロスティアの傍から離れるとレオナード皇帝に向かって再度片膝をついて頭を下げた。
「遥々我がヴァイリン王国の聖女に会いに来て頂いたのにこの醜態、忸怩たる思いでいっぱいです。誠に申し訳ありません!ヴィスコンティ公爵家の者が出迎えるはずが…」
「ルーカス王太子、陛下は出迎えを忘れるほど何をしていたのか問いかけたはず。言い訳は聞いていないよ」
レオナード皇帝の斜め後ろに居たルディアス第一皇子が冷めた瞳でルーカス王太子を見下ろした。ヴィシュルタ帝国始まって以来の天才と謳われるレオナード皇帝の血を真っ直ぐに引いたルディアス第一皇子は薄紫色の髪を肩まで伸ばし、微笑めば性別種族関係なく虜にする妖艶の美男子としても有名だが恐ろしさはレオナード皇帝譲り。リリアンはこの張り詰めた状況に気付いてないのかルディアス第一皇子を目にするとアイドルを生で見たファンのように興奮を抑えられずに悶えていた。その挙句、後ろにいる第二皇子と第三皇子を見ようと身体を右へ左へ揺らす。
「それは……」
「悪いのはクロスティアさんなんです!私を沢山傷つけたうえに悲しませたのが悪いんです!」
ルーカス王太子が言葉に詰まると助け船を出すようにリリアンはぶりっ子を発動した。この世界ではリリアンが笑えば周りも笑顔になり、平民や貴族だけでなく王太子でさえ彼女中心に動いていた。正にこの世界で愛されるために舞い降りて来たと言っても過言ではない彼女は、隣国のヴィシュルタ帝国から皇族が天の使である自分に会いに来ると聞いていたから傷ついたアピールを全面に押し出した。リリアンが王太子の言葉を遮って発言したことに国王陛下は肝を冷やすが幸いレオナード皇帝は気にしていない様子だった、まるでリリアンの声が聞こえていないかのように。
「イーサン説明しろ」
「はっ…はい!」
レオナード皇帝は跪いているルーカス王太子から視線を逸らさないまま、騎士団に囲まれているイーサン公爵に声を掛けた。イーサンは直ぐに立ち上がると軽く頭を下げて状況を説明する。
「ルーカス王太子が我が娘クロスティアに公衆の面前で婚約破棄を突き付けただけでなくワインをかけ手を上げるなど暴行を加えた末に土下座まで強要。そのうえ謂れのない罪で処刑を行おうともしていました」
「謂れのない罪だと!?クロスティアがリリアンを傷つけたのは事実だ!皇帝陛下!クロスティアが自ら暴露したのですッ」
レオナード皇帝は入口からゆっくり歩みだす。魔法を何ひとつ使っていないのに圧倒的な威圧感に誰一人動けない状況だが、リリアンだけはコチラに近付いてくる皇帝を見て“悪役令嬢に虐められたヒロインを慰めてくれる”、そう信じて全身で歓迎を表すように微笑んでいた。
「大丈夫か、余の天使よ」
「だいじょ……え?」
レオナード皇帝はリリアンの横を通り過ぎると座り込んでるクロスティアの元へ。聞いたことがないほど優しい声音は柔らかな温もりに抱きしめられている心地で、クロスティアと視線を合わせるために態々片膝をつくレオナード皇帝の姿に誰もが驚愕した。頭にかけられたワインの汚れを魔法で綺麗にして貰ったクロスティアは頬を撫でてくれる手に己の手を添える。
「は?」
顔を顰めさせるリリアンはいま何が起こっているのか状況が読み込めていない様子でレオナード皇帝を見つめる。割れ物を扱うような手付きと優しい眼差しは全て自分に向けるべきで、それを当たり前のように受け入れているクロスティアにリリアンは苛立ちを隠せない。誰もが恐れ慄く皇帝に愛されるべきは自分であり三人の皇子たちも自分を愛さなくてはいけない、リリアンは間違いを正そうとレオナード皇帝に声をかけた。
「私に会いにきたんですよね?手紙に天の使いに会いに来るって書いてあると聞きました。それは聖女である私であってその女じゃないですよ。少し顔が綺麗だから勘違いしちゃったみたいですね」
「ほう…何故、手紙の内容を貴様が知ってる」
「え?それは国王サマが…皇帝が私に会いにくるって教えてくれたからです!」
天真爛漫な笑みでリリアンはレオナード皇帝に答えた。言葉遣いがなっていないうえに目を見て話しているのが許されているのはリリアンが聖女だからだろう。そんな中でイーサンは言いにくそうな顔をして王城に届いた皇帝陛下からの手紙は、従者が国王宛ての物が宰相のもとに行ってしまったと勘違いをして国王に手紙が渡してしまったと説明をした。
「余が逢いに来たのは天使にだ」
「それって私のことですよね?天使って天の使いともいいますし!」
レオナード皇帝はどこまでもポジティブなリリアンに呆れてため息を零す。
「貴様は余の想い人に似ていると思ったが…どこも似ていないな、一瞬でもそう思ったのが惜しい」
「えっ…?」
「天使とはヴィシュルタ帝国 第十三皇女である余の可愛い娘、クロスティアのことだ」
衝撃の事実に国王陛下は腰が抜けて床に座り込んでしまった。
平民出身の養女だからと今の今まで痛め付け惨めな扱いをしたうえで処刑しようとしたのに、それが帝国の皇女だなんで裏切りもいいところ。国王や王太子はイーサン公爵を見るが“だから止めろと言ったのに”そう言いたげな涼しい顔をしていた。我が子も駒の様に扱い、死のうが涙も流さない皇帝がこれほど溺愛する相手はあの人以来であった。受け入れがたい事実に震えと汗が止まらないルーカス王太子がクロスティアに視線を向けると目が合った。クロスティアが目を細めてニコリと笑いかければ、“この女はまだ自分の事が好きだからどうにか言いくるめれば助かるかも知れない”そう思ったルーカス王太子は生き残るために進言する。
「な、なにか誤解があったみたいです、クロスティアと私は…」
「クロスティア?笑わせるな貴様如きが余の娘を呼び捨てだと?」
「こ…皇女様と私は五年も婚約関係にあり長い時間を共にした良き友人でもありま…」
「そうだ、五年前に貴様は勝手にクロスティア…クロエと婚約をしたな。留学へ行くのを許したのが間違いだったが…余よりも長い間時間を共にしてきたのは癪に障る」
レオナード皇帝はルーカス王太子が何を言っても癪に障るようで苛立ちを隠さなかった、クロスティアは帝国語ではクロエと発音するがその名を呼んでいいのはレオナード皇帝ただひとりだけ。皇子たちですらクロエと呼ぶことを禁止され、クロエが不在の五年間はレオナード皇帝の機嫌は最悪であった。クロエはレオナード皇帝が唯一心を奪われ愛した女性の娘、その女性はレオナード皇帝の婚約者であったが結婚式間近になり闇の帝国の主───魔王に連れ去られてしまった。皇帝と云えど簡単に攻め込むことが出来ないうえ生死もわからなかったため、レオナード皇帝は婚約者だった女性の妹と結婚をした。十二年経って最愛の人の訃報を聞きつけると闇の帝国から婚約者の忘れ形見であるクロエを救い出したのだ。レオナード皇帝は初めて八歳のクロエに対面した時から瞳の色以外最愛の人にソックリの姿に心を奪われた。今日も会場に到着した時すぐにクロエに駆け付けてあげられなかったのは、十五歳になったクロエの姿が最愛の人に瓜二つだったから見惚れていたのだ。
「嘘、嘘よ…!なんで?こんなイケメン皇帝と皇子がいるなら私が愛されるべきよ!!娘ってなに?そんな設定なんてなかったじゃん!なんで悪女が…」
リリアンがクロエを侮辱した瞬間に彼女の身体は軽々吹っ飛んだ。壁にぶつかる前にアートルが何とか魔法でキャッチしたが受け身が取れたとしても壁にぶつかっていたら大怪我は免れなかっただろう。
「聖女を傷つけた余を処刑するか?」
皇帝の言葉にルーカス王太子は声が出せなかった。皇帝に話しかけられるだけで吐き気が込み上げてくるほどその存在が恐怖の塊で答えを間違えば未来はないし答えが遅れても未来はない、肉食動物を目の当たりにした小動物のように震えるルーカス王太子の姿は先ほどまでの意気揚々とした面影は全くない。会場には静寂が広がり参加者たちは唾液を飲み込む音も、額から垂れる汗が床に落ちる音もレオナード皇帝の機嫌を煩わせないか不安で仕方がなかった。そんな中でクロエの瞳から涙が伝い落ちる。せき止めていたものが一度零れ落ちてしまうと止まらないのか、はらはらと流れる涙雫はシャンデリアの明かりに照らされ水晶のように光っていた。そんなクロエを抱き締めながら憂わし気な表情になるレオナード皇帝はどうして泣いているのか分からなくて少し力を込めたら壊れてしまいそうな背中を優しく撫であげた。
「陛下が来てくれなかったらきっとこの場で殺されていました…皆の前で見世物のように晒されて死んでいたはず、それを想像しただけで怖くて…っ。私はただ好きな人の傍に居たかっただけなのにそれが罪だったのでしょうか…?赤眼というだけで生きている価値はないのでしょう…?」
消え入りそうなほど震えている鈴音を耳にする度にレオナード皇帝の額には血管が浮き出し小さな血管がぷつぷつ破裂しているのが分かるほど怒りに吞まれていた。──ズドゥンッ…。頭を垂れていた参加者たちの身体には巨大な岩を乗せられたかのように一気に重力が押し寄せた、臓器が押し潰される苦しみにも呻き声をあげまいと誰もが歯を食いしばる。数百人を超える参加者達全員を押さえつけられる広範囲の魔法は天才と言われているアートルでも出来ないことなのにレオナード皇帝はそれを息をするようにやってのける。圧倒的差を見せつけられたアートルの戦意が喪失してしまうのは無理なかったが、それでもリリアンだけは守ろうと魔法で重力を軽減してあげていた。
「あなた、どうしたの?」
「なっ…んでも、ない…よ」
この状況で一人だけ平然としているソフィア夫人はレオナード皇帝の従妹という理由で慈悲を与えられたのではない、クロエの母親とは親友だったから。ソフィア夫人に会いに城へ来ていたからレオナード皇帝はクロエの母親に出会えたのだ、その上ヴァイリン王国に居る五年間クロエを世話してくれた恩を感じて慈悲を与えたのだ。守っていたのはイーサン公爵もセオドアも同じなのに二人が重力で潰されているのはヴァイリン王国に留学するキッカケになったのを根に持っているから。
「私…確かにリリアンさんに手を上げました…でもそれは彼女がルーカス王太子の前から消えろと言いながら私を階段から突き飛ばそうとしたから反射的に抵抗しただけです…お茶会でも勝手に転んだのは彼女…。彼女が言っているナイフの切り傷なんて私知らないわ…っ」
クロエが正当防衛をしたのがキッカケとなりリリアンは自分が傷つけば王太子の気を惹けると学んだのだ、王太子がそのことに気付けなかったのは赤眼だからという理由で婚約者を嫌っていたから。なんてことをしてしまったのだろうと後悔しても遅いが、自分の非を認めたくないのかルーカス王太子は大理石の床に爪を立てて歯を食いしばる。レオナード皇帝にとって恋に盲目になってしまった可愛い娘が涙を流している、それだけでここに居る全員の処刑理由として十分であった。泣き止んで欲しいのになんて声を掛けていいのかわからない皇帝は親指で目元を拭ってやった時に乾いていた額の怪我に気づいた。
誰がやった等というくだらない質問をするまでもなかった。衛兵の一人は極寒の地に取り残されたかのようにガチガチと歯を立てて震えていた、リリアンの信者である彼はクロエを責めても良いという場の雰囲気に呑まれて犯してしまった行為を後悔した。こんな事になるなら…そう悔い改める時間も与えずにレオナード皇帝は彼と目を合わせる、すると衛兵はバタリッ…と崩れ落ちた。
「ぁ…ぁあ!死んでっ」
頭を垂れていても呆気なく死んでしまった衛兵が視界に入ってしまった若い令嬢は恐怖で悲鳴を上げた。隣に立っていた父親が令嬢の口を押えてあげられたのはレオナード皇帝が魔法を解いたからだが令嬢の悲鳴を聞いても殺気立たなかったのは、今は参加者たちを抑えるよりクロエを泣き止ませることの方が重要だから。
「…っ、ルー!どうにかしてよ!どうして私が怒られなきゃいけないの!」
「リリアン落ち着くんだ!」
「嫌よ!!私のためにアンタたちは存在してるんだから皇帝の寵愛を受けられるようにサポートしなさいよ!!」
リリアンはヒステリックに喚きながら落ち着かせようとしてくれるジャックやアートルを叩いていた。ヴァイリン王国で顔の良い彼らだが帝国の皇帝や皇子たちを前にしたら月とスッポンに見えて来たのだろう、可愛い子ぶるのも止めて自分が愛されるためにどうにかしろとルーカス王太子の胸倉を掴んだ。けれどルーカス王太子にはどうする事だってできない、自分やヴァイリン王国が生き残る事すら厳しい今の状況で何故そんなふざけたことに付き合わなければならないのかという怒りまで湧いて来る。
「皇子サマ!…私聖女だからきっとお役に立てます!だから、帝国に連れて行ってください!」
リリアンはルーカス王太子と取り巻きが使えないと分かると直ぐにルディアス第一皇子に乗り換えようと彼に駆け寄った、縋るように抱き着こうとしたが皇子に近づけないように張られているシールドに顔面からぶつかったリリアンは鼻血を垂らしながら床に尻餅をつく。目の前で女性が倒れようと手を背で組んだまま視線を向けることもないルディアス皇子の冷たい様子はレオナード皇帝ソックリだった、何もかも思い通りに行かないリリアンはとうとうその場に座り込む。
「陛下、この女はどう処理致しますか」
ルディアス皇子の冷め切った声が会場にこだまする。国を繁栄に導き国を護る聖女をも罰しようとする皇子の言葉を耳にしても国王陛下は腰を抜かしたまま足に根が生えたようにその場から動けなかった。そんな国王の代わりにクロエは口を開く。
「…聖女は居なくてはいけない存在です」
「聖女が居なくともこの世界はやっていけるように出来ている、居ようが居まいがどうでもいい。…それよりもクロエが傷付けられていたのにただ傍観していた奴らはどうしてやろうか」
「いいんです、正体を隠していたのは私ですから」
レオナード皇帝は彼らを庇う私の優しさに感慨深げに口角を上げた。今日居るのは国内貴族だけではない、他国からやって来た王侯貴族が参加しているため殺されてしまっては困る。私の正体がバレた以上はここで恩を売る方がこのさき得になるだろう。
「だからせめて…私をずっと守ってくれていた公爵家と他国からの参加者だけは助けてあげてください」
縋るような眼を向けてから頭を下げるとレオナード皇帝はクロエにはそんな事させたくないのか小さな肩を掴んで顔を上げさせる。そして「クロエの意に背く事はしないから安心して欲しい」と背中を撫でながら安心させてあげた。
「セオドア様がクロスティア嬢を大切になさっていたのは皇女だったから…?」
「嗚呼…我が家門はお終いだ!!」
「何て事をしでかしてくれたんだルーカス王太子!国王陛下!」
自分たちは傍観者だから関係ないと思っていた貴族達から悲鳴や怒鳴り声が聞こえ始めた。せめて娘だけでも助けて欲しいと乞う者もいたがレオナード皇帝は殺気を帯びた猛獣の目付きで黙らせる。国王は人が溢れかえる会場内の端にいるイーサン公爵を見付けると転びそうになりながら拙い足取りで近づいていく、王家をずっと支えて守ってきたのはヴィスコンティ公爵家であるためこの状況でもどうにかしてもらおうと助けを求めに行ったのだ。意気消沈している騎士たちから離れてソフィア夫人の手を支えているイーサンは国王を見ると犯罪者でもみるような軽蔑の目付きを向ける。
「助けてくれ宰相!!」
「我がヴィスコンティ公爵家を捨てたのは陛下ですぞ」
「あ、あれは…息子が勝手に言い出した事…!」
「騎士団まで呼びつけて私や妻を捕まえさせた癖にどの口が…貴方と話していると反吐が出る!」
公爵家が宰相でありながら王位継承権を持ち合わせているのにその地位に甘んじなかったのは、過去に無能な王が数多く居たから。戦争狂とも言えるほど魔族との戦いにしか興味のなかった王、国益よりも自分を優先させ国庫を食い潰そうとした王、民の声に耳を傾けない王。そんな彼等の尻拭いをしているせいか歴代の公爵は過労死する者が多かった。そんな時、何代目かの公爵がこれから未来に生まれてくるであろう次期当主達に向けて秘密の家訓を付け加えた。
『自分が忠誠を誓うべき王が余りにも無能な王ならば……殺してしまって、良し。───追記、反乱資金はヴィスコンティ領地にある西の別荘地下に隠してある。』
小公爵となった年に父である公爵から見せられる秘密の家訓に驚きを隠せない若き小公爵達は当主の座を継いでからその意味を知るのだ。王族達は宰相に政務を任せておけば良いと考えてなにもしない、王としての仕事と言えば必要な時に民に手を振るだけ。たったそれだけで王になれるのだ、この現状を打開しようと勉学に励んできたのは近年でもルーカス王太子だけ。彼はそれほど優秀であったのにリリアンの毒牙に落ちてしまった。これでやっと忌々しい政務や書類から解放されると思えばイーサンの眉間に寄った皺も心なしか減っていて、清々しい顔色をしている。国王陛下の処刑シーンをつまみにワインでも飲もうかと妄想に夢を膨らませながらにっこり笑顔のイーサンに皇帝が声を掛けた。
「貴様がこの国を指導しろ」
指導、という名の新たな王に任命されたイーサンは一瞬黙り込んだが直ぐに口を開く。
「いえ。こんな国あっても意味ないので滅ぼしてしまいましょう」
「滅ぼすには惜しい。クロエが五年も住んでいたのだ仮の故郷でもある」
「陛下…冗談ですよね?碌な貴族が居ないので残っていても利益になる事はまずないです、だからこんな国滅ぼした方がいいと思い…ます……」
イーサンは皇帝からの無言の圧力に滝の様に汗をダラダラ垂らした、このまま王国に反旗を立てたあとは自分の領土に戻りソフィア夫人と残りの余生を穏やかに過ごす予定を計画していたからこんなのは想定外だと全力で首を横に振りたいのを何とか堪えていた。この国が地図から抹消されるつもりで晩餐会へ来る前には公爵邸に置いてある政務に必要な書類を全てぶちまけてきた、胃薬が必要なほど憎らしい山積の書類を。だから目の前の皇帝から新たな王としてこの国を導けと言われて軽いパニックを起こしていた。
「あんまりです!それなら私も殺してください!」
「貴様は殺す価値もないゴミだ、故に殺さん」
「いいえ!!きっとゴミの中でも目立つでしょうから殺してください!」
あんな大変な政務には二度と手を付けたくない!その一心で皇帝に拒絶を示したが、彼はイーサンの妻であるソフィア夫人と息子がどうなっても良いのかと無言の圧を掛けてくる。イーサンは汗か涙かもわからない雫を流しながらキッ!と鋭い視線を皇帝に向けた──が、目が合うと直ぐに視線を逸らす。
「妻への手出しは例え陛下であっても許しません!けれど我が息子はどうなってもいいので、どうぞ煮るなり焼くなり王になりお好きなようにしてください」
「コラァッ!!クソ親父てめぇ!!」
自分を売られたセオドアも権力になど全く興味はなかった。寧ろ権力を持っているせいで女性には蟻のように群がられて嫌気が指していたのにセオドアが王になるかも知れないと聞いた令嬢たちは獲物を狙う目付きに変わった、ヴィスコンティ家に王位継承がされるという事は少なくとも国内貴族の命も皇帝の管轄外になるからだ。セオドアが今後彼らの処遇を決めることにもレオナード皇帝は反対することはなく、今回の死者はクロエを傷つけた衛兵だけになった。王家から除名された元国王とルーカス元王太子はレオナード皇帝が連れて来た騎士たちにより地下牢へ連れていかれ、リリアンや取り巻き達も遅れて地下牢へ運ばれて行き晩餐会は御開きとなった。
▽
晩餐会から二日後。クロエはすっかり元気を取り戻して皇女に相応しい煌びやかなドレスを身に纏っていた、そして現在は王城にある自慢の庭園でレオナード皇帝と御茶を楽しんでいる最中。テーブルには乗り切らないほどのケーキとスイーツが置かれているがレオナード皇帝が口にするのは紅茶だけ、三人の皇子も未だ滞在しているがルディアス第一皇子は公王となるセオドアに王としてのいろはを叩き込む為に執務室から出てこない。第二皇子は研究者でもあるため城内にある古びた古代遺跡の中に籠って聖女が現れる秘密を研究し続けていた。そして第三皇子は晩餐会が終わったら誰よりも速く逃げたイーサンを連れ戻すよう皇帝に命令されたためヴィスコンティ領地まで向かい、今先ほど戻ってきた所だった。
「陛下~!さっきイーサンが戻って来たんだけどさ」
第三皇子のライデンは末っ子皇子という事である程度の無礼はレオナードによって許されていた。レオナード譲りの瞳に紫混じりの水色の短髪で近付きがたいほど整っている顔は母親とレオナードの良いところを受け継いでいるのが良く分かる。帝国には一人の皇妃と四人の側妃、そして三人の皇子と十二人の皇女が居るが気に入られるのは男児か水色髪の子だけだった、幸い皇子三人は皇妃から産まれたため側妃たちとの権力争いにはならなかったがクロエが現れてから全てが変わった。皇子たちにとって頭を下げるのは皇帝一人だけだったがクロエにも頭を下げなくてはいけなくなったのだ。
「戻って早々だけど処刑執行が迫ってるから確認して欲しいことがあるらしくて来て欲しいって言ってる」
「クロエの前でその様な話はするな」
「お兄様は陛下を呼びにいらしただけなんですから何も悪くないです、それより陛下にお願いがあります。リリアンさんと最後に二人きりで話したいんです」
伝説の聖女とはいえクロエを嵌めて危険に晒した事からレオナード皇帝は返事に渋った、けれどクロエの願いや頼み事は容認出来るものであればなんでも無条件で聞き入れてあげたいのか少し粘っただけで許可が貰えた。二人きりの御茶会を御開きにしてレオナード皇帝を庭園で見送ったが入れ替わりでやって来たのはセオドアだった、ルディアス皇子から徹夜で諸々を叩き込まれて疲弊していたのに地下牢までエスコートしてくれるのはレオナード皇帝からの命令だろう。ブレスレットを外した今のセオドアは護衛くらいには役立つと考えたのだろう。
「俺がこんなに大変な思いをしてるのは何もかもあのクソ親父のせいだ!元はといえば親父が任された事なのに政務が嫌だからって息子を売るなんてどう思う?何で俺が公国の王様なんかに…」
「いいじゃない、セオドアお義兄様がヴィスコンティ公国の公王様だなんて私鼻が高いわ」
「嘘つけ!微塵も思ってない癖に…。でもあれだ、皇帝陛下の前で噓泣きしたのは本当に驚いた、猫かぶり過ぎだろ」
「あら、私は帝国の騎士に取り押さえられたルーカス様が女の子の様に泣き出した事の方が驚いたわ」
クロエがレオナード皇帝に見せた涙や震える身体は何もかも全て演技だった。
カツン…とヒールの音を反響させながら地下に続く螺旋階段を降りて行くと光が入って来ない地下牢に到着した、じめっとした空気に虫か何かが地を這う音が止まない此処は衛生管理が最悪でとても城の地下にあるとは思えない汚さだった。手燭を片手に奥に進むと薄汚いベットの上で体操座りしているリリアンの姿を見付けた、彼女にとって此処に居ること自体が屈辱的であるのに悪役令嬢のクロエが煌びやかなドレスを身に纏っているのを見て小さな口を全開にしながら奇声を上げた。いくら声を上げたとしても此処には看守など居ないし地上には声が聞こえないよう防音魔法がかかっている、クロエは目の前で叫んでるリリアンを無視するとセオドアに螺旋階段の入り口で待つように告げた。
セオドアの姿がなくなったのを見てからクロエは狂人を見るような眼差しをリリアンへ向けると錆びれている鉄格子を握りしめて憎悪の満ちた視線でこちらを睨み付けている彼女と目が合った。リリアンにとって本来ここに入るのはクロエのはずだった。なのにどうして、そんな心の声が全身から溢れ出ていた。
「悪役令嬢の癖にヒロインの私を陥れるなんてどういうつもりなのよ!雑魚キャラの癖に!本当ならセオドア様に嫌われてる雑魚の癖に!公爵だってアンタを政治の道具にするために養子にしたって言ってたじゃない…!」
イーサン公爵はルーカス様の私に対する扱いをたびたび注意していた、けれど国王陛下は聞く耳を持たずルーカス様は話を聞こうともしなかった。こんな事で婚約が破棄になるのも嫌だったのもあって私は公爵に彼らの言う事に出来るだけ同調する様に伝えた。それほどルーカス様に惹かれていて婚約を続けたかった、というわけでは無く私にはそうしなくてはいけない理由があった。
「みんなの前で土下座までするくらいルーカス様の婚約者の地位に縋ったのは婚約を破棄されたら家から勘当されるってストーリーだったのに…皇女ってどういうことよ…!!」
「生憎、私はヴィスコンティ家の人たちに愛されて育ったわ」
日暮れになり側近が我が家にやって来て『王太子殿下はリリアン様と晩餐会にご出席なさるとのことです』そう告げた時のお義父様はとてもお怒りになって風魔法で側近を上空へ舞い上げるとそのまま墜落させようとしていた。
『いよいよとち狂ったかあの王太子はッ!クロスティアを蔑ろにするなど言語道断、もう今日限りでこの国も終わりだ!それに先駆けて宰相など辞めてやる…!早く晩餐会に出席して陛下に辞表を突き付けてやらねば…!』
お義父様の言葉を聞いた側近は上空で涙をぽたぽた流して、宰相を辞めないで欲しいと懇願していたのは少し可哀想に思えた。馬車で城に向かう最中も王太子と国王への怒りを延々と聞かされて、後半は相槌を打つのも面倒だったがイーサン公爵も苦労しているのだと思ったら同情したから聞いてあげるフリはちゃんとした。私は婚約破棄される事が分かっていた。王城に行ったときに晩餐会用の私のドレスをリリアンさんが試着していたのを目撃したのがキッカケだけれどルーカス様とリリアンさんが人目を憚らずにダンスの練習をしていたのも理由の一つだ。レオナード皇帝がドレスを贈ってくれると聞いていたからお揃いのドレスはもともと着る気はなかったけれど、陛下からのドレスも結局小国の土砂崩れにより届かなかった。そのせいで急遽仕立てて貰ったドレスは腰回りが引き締められすぎてとても苦しかった。会場でセオドアが叫んだ様に王家から打診が来た事でヴィスコンティ公爵家は承諾する形で婚約を結んだが、ルーカスが婚約をしたがるように仕組んだのはクロエの方だった。
「なにそれ、アタシへの当てつけで言ってんの?」
「私はね…将来の騎士団長や魔塔の次期主、セオドアお義兄様が貴方に惚れようとどうでもよかったの。でもルーカス様だけは許せなかった。でもそれは恋愛感情があったからじゃないわ」
「は?ならなんなのよ」
「レオナード皇帝から逃げたいの、一国の王妃になれば…人妻になれば安心だと思ったの」
「……全く意味が分からないんだけど」
レオナード皇帝が私を大切にしているのはあの人がこの世界でただ一人愛した女性の娘だから。けれど日に日に母に似ていく私を娘として傍に置きながら獲物を狙うような目付きで見て来た時はとてもゾッとして怖かった。初恋をこじれに拗らせた皇帝は母の代わりに私にとても執着した。
『そなたが成人したら余の皇后として迎えよう』
九歳の誕生日に言われた言葉にクロエは絶望した。
その事を元から計画していたレオナード皇帝は第十三皇女としての肩書はくれたのに皇族の籍に入れてくれなかった、時が来たら自分の后として迎え入れるために。その言葉が余りにも気持ちが悪く、衝撃的過ぎて頭が割れるような痛さと共にここが「光姫の茨道と影姫のチグリジア」という題名のゲームだと思い出した。光の姫である聖女がある日空から舞い降りて来て“帝国”の学園に通うストーリーだ、そこに登場する影の姫がクロエであった。悪役令嬢として登場する彼女は聖女が様々な登場人物と恋に落ちるのを阻止してきたり邪魔をする事が役割だった、時には階段から突き落としたり怪我や誘拐未遂まで行い出来うる限りの悪事を働く。卒業パーティーで断罪された後になってクロエが何故あんな事をしたのか判明することになる。卒業式後の穏やかなエンドロールが流れる中でクロエは義父であるはずのレオナード皇帝と結婚式を挙げていたのだ、開発者は『最愛の人と重ねた皇帝の呪縛から逃れたくて攻略対象を狙っていたのでしょう。けれど人を傷つけ踏みつけても幸せにはなれないのです』そうコメントしていた。だがそれで終わりではない、最終的には皇帝と心中したと本編のオマケエピソードで判明するのだ。
本当の娘ではない事から作中でも苦労をして来たが、この終わり方にはファン泣かせの悪役令嬢として同情を浴びた。何周か繰り返していれば悪役令嬢もハッピーエンドを迎えられるのではと頑張った者もいたがクロエのハッピーエンドルートは無い、けれど何百周か繰り返し様々な条件をクリアした者には隠しルートでレオナード皇帝が攻略対象として解放される。属性は彼に相応しい「最恐のヤンデレ皇帝」だった。このルートを進んでもクロエは皇帝との心中バッドエンドか、ハッピーエンドでも主人公が愛人として一生を終えることになる史上最悪の隠しルートと言われている。どの道クロエには義父の皇帝と結婚させられたうえで心中して死んでしまうルートしかないのだ。
『そんなの絶対にイヤ…!!』
だから前世の事を思い出した私はクロエとして生きていく上であんな変態野郎と結婚してたまるものかと抵抗をすることにした。まず初めに行ったのはストーリーが始まるまでに帝国を出る事、どうしようか迷ったときにセオドアがヴィシュルタ帝国に留学して来た。
『ヴィシュルタの太陽に栄光と祝福を。初めましてセオドア・ヴィスコンティです』
レオナード皇帝に頭を下げるセオドアを見て私は考えた。
ヴァイリン王国は帝国の従属国であった、ヴィスコンティ公爵家が無能な王族ばかりの王国を支えてきたのは帝国からの王命を受けていたから何百年と王家を支えてきたのだ。そしてヴィスコンティ公爵家も本来ならば魔法に長けた家門であるが何代目か前の事、余りにも国王が無能過ぎて嫌になった公爵が逃げだした事件があった。その事により王国は経済が回らず破滅の危機に陥った。それ以来、留学してきた年に必要最低限の魔力以外は皇帝に封印されるようになったのだ、その証がイーサンとセオドアが付けていたブレスレットだ。因みに私はアンクレットとして足に付けられている。
私はセオドアが帰国前に何とか皇帝を説得出来て、養女と偽りヴァイリン王国にやって来た。留学期間は半年という短い期間の約束だったけどその間にルーカス王太子の目に留まるために沢山のパーティーに出席して帰国一か月前に王家から婚約の話が届いた。イーサン公爵とセオドアには私がヴァイリン王国に来た理由を話したうえで協力させた…というより皇女に逆らえない彼らは協力するしかなかった。王家からしても反乱の危機があるこのタイミングで現れた公女を政治の道具として手に入れたかったのだろう。目論み通りに事が進んだ後は皇帝にはこっちで婚約者が出来たから戻れないと手紙を送ったがその日の夜に皇帝が公爵家までやって来た時はセオドアもイーサン公爵も死を覚悟したような顔で出迎えていたっけ。だから私は恋に落ちた演技までして公爵家だけでなくヴァイリン王国まで消そうとしてる皇帝に『この婚約の邪魔をして破棄させるというなら陛下の事を嫌いになって死んでやります…!』と、口にした。ヤンデレ相手に効くかわからない賭けだったが初めて恋をしたから盲目的になっているのだと勘違いをされてヴァイリン王国に留まる事と婚約の継続を許して貰えた。成人するまでなら好きにしてもいいという事だったのかもしれないけれど、私にもストーリーを変えられるチャンスが巡ってきたんだと嬉しかった。失敗に終わってしまったけれど。
「私から王妃の座を奪おうとしたのが間違いだったのよ、貴方は聖女だけど国母になる器は持ち合わせていない。それにルーカス様の事も隠しルートへ行く踏み台にしか思ってなかったんでしょう?」
「どうし……て、隠しルートのこと…っ。まさかアンタも転生者なの!?」
「私がストーリーを変えようとしたせいで貴方が本来スタートする舞台と時期にバグを与えてしまったみたいだけどね」
「おかしいと思ったのよ…学園モノの王道乙女ゲームだったのにアンタのせいで全部台無しじゃない!返せ!私のストーリーを返せ!クソ女ァッ!アンタもオスカー様推しだったから邪魔したんだろ!!」
「オスカー様?…そんな男知らないわ」
鉄格子に額を叩きつけて怒鳴る姿はどちらが悪役令嬢かわからないだろう、それほどまでにリリアンの顔は愛らしい顔立ちから狂気が滲み出る般若の顔に変わっていた。返せと言われてもクロエは自分の幸せを求めただけ、それはリリアンも同じなのだから恨みっこなしで最期の会話は終えたかった。でも、もう時間みたいね。たった半年でこの世を去る気分はどう心境なのか聞いてみたいけれどそんな事を聞いたらまた癇癪を起すだろうから止めておきましょう。あら…今の私って悪役令嬢みたいね。
「そうだ、忘れてしまう所だったわ。貴方の味方をしたルーカス様達がどうなるのか教えて差し上げようと思ってたの」
般若の顔で怒鳴り続けていたのにピタリと止んだのは彼らが助けてくれると思ってるからだろうか。その希望は折ってあげないと可哀想よね。
今回の婚約破棄騒動に加担した者たちはそれぞれ重い制裁を受けた。ジャックは伯爵家を廃嫡されて魔物が頻繁に発生する辺境地への左遷が決まった。武器も食料も足りないその地は聖女が現れた事で結界を張って貰い、初めて穏やかな日々を過ごす事ができた。それが聖女が捕まった事で結界が壊れ再び戦いに明け暮れる日々に戻った、その原因の一人であるジャックが出向いたとしても歓迎されるはずはなく魔物にやられるのは時間の問題。ジャックの父であるグレナディ・グラードン伯爵は王国騎士団長であるにも関わらず主君の暴走を止められなかった責任により斬首刑が決まった。魔塔の次期主と言われていたアートルはレオナード皇帝に魔力を全て奪われてただの平民として生きていく事になった、軽い制裁に見えるだろうが散々威張り散らしていた彼を恨んでいる魔塔の者たちは虎視眈々とアートルの首を狙っているとか。ルーカス元王太子は無能な歴代の王とは違い、国を導いてきた恩情により平民としてヴィスコンティ公国の北部で生きていく事が許された。けれど王族として生きて来たルーカスが平民として暮らせるのも数日が限界だろう、腐っても元王族故にその血を狙っているものは多い、何より北部は極寒の地で食料も自給自足しなければ賄えない所だ。元国王陛下は国を混乱に陥れたとして斬首刑が早々に決定した。聖女リリアンを殺してしまったらヴァイリン王国を加護していた神がお怒りになるかも知れないと大臣達が庇おうとしたが、皇帝は彼女だけは絶対に殺すよう命令した。そのため王国騎士団長や元国王と共に斬首刑が決まった。
それぞれの制裁を決めたのはセオドアだが軽い罪では、全員処刑しろと口にしていたレオナード皇帝が容認してくれないし重すぎる罪では国民の心が離れてしまうため“子の責任は親が取る”形で済ませることが出来た。人の死に関わってきた事がないセオドアは今回の決定に心を病みかけたが、そんな事で悩んで落ち込むよりレオナード皇帝の方が恐ろしいとクロエに言われて納得した様子でいつもの調子を取り戻す単純さにイーサンは呆れていた。
「さようなら、聖女リリアン」
クロエは地下牢から離れると古びた扉を開けて螺旋階段に出た、そこで待っていたセオドアと長い階段を上がっていく最中お互い無言だった。セオドアが本来なら養女を嫌っていたと言っていたのを思い出していたのだ、ゲームの世界では別の子がヴィスコンティ公爵家の養女なっていたのだろう。そしてその子が悪役令嬢として聖女リリアンを虐めるはずだった、人の人生を変えてしまった事は恐ろしい事だが私は自分の行動に責任を持っている。幸せだけを求めたリリアンとは違い王妃になるための教育も何年も受けて良い国母になろうとしていた。もうどうでもいいことだけれど。
▽
「皇女さま、もうお耳に入れられましたか?」
ヴィシュルタ帝国へ帰国するための身支度をしていると荷物を荷馬車に運んで戻って来たメイドが声を掛けて来た、クロエはレオナード皇帝から届いた手紙を箱にしまいながら反応はしない。現在、王都の中央広場では処刑が行われている。だがレオナード皇帝は処刑シーンをクロエに見せたくないのか身支度をするように告げて公爵邸に残した。メイドの様子から察することに中央広場で何かあったのだろう、だが何が起ころうと今はどうでもよかった。「光姫の茨の道と影姫のチグリジア」の悪役令嬢であるクロエの本当の舞台が幕を上げるからだ、悪役令嬢に相応しい闇魔法はレオナード皇帝に封印されているが嫉妬に狂った結果爆発した事がキッカケで皇帝でも抑えられなくなった。私は幸せになるために五年も無駄にしてしまった、この遅れを取り戻さなくてはいけない。ゲームが開始される帝国の学園から離れたかったのに結局戻る事になってしまってゲームの強制力を疑いもした。でも、今回上手く行ったのだから次も大丈夫だろうと自分を鼓舞したあと上を向いて部屋を出た。
「平穏で楽しい学園生活を送るためにはヒロインの様に優しくあろう、そして絶対に攻略対象の誰かを堕とすのよ私!」
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また、反響がありましたら連載版も書いていこうと思っています。