カナヘビ
僕に与えられた本宅の客間は、生前の母と使ったことがある部屋だった。
母と一緒に毎年決まった日に訪れる夢のような数日間。
夢だと思っていた場所だったのだ。
辰蔵の部屋は、広い広い王様のような洋室だ。
最初の奥さんが好きだった、海の宝物が一杯モチーフになっているという、ロココ調の装飾で飾られた、フランスの王様のような部屋。
けれど、今はそこが黄金の檻でしかない。
キングスサイズの天蓋付きベッドに彼は横たわり、身体中に医療器具の点滴や管によって拘束されているが如く雁字搦めになっていたのだ。
早坂辰蔵を目の前にして、彼のよろよろと震える手を握った時、僕はこの人が山口への見舞い品にシャンパンを贈ってくれた理由をようやく理解した。
山口を守るために武本物産の名前を使った僕に対して、「記憶を取り戻した」と喜んでの祝杯だったのだ。
「ごめんなさい。記憶は取り戻したけれど、幼い頃の記憶ばかりだったから会いに来るのを尻込みしていました。ドアはいつでも開かれていたのにね。」
僕の言葉に彼はぎゅっと手を握り返してくれた。
かなりやせ細っているが、彼は海のキャプテンのような風貌の男だ。
風貌だけでなく彼は海運王でもある。
だからこそ海が大好きな島田正太郎とは、商売敵で親友でもあるのだ。
海運王の家が山の天辺の森の中はおかしな話だが、山の向こう側は海だ。
コンクリート作りのこの屋敷の展望台に上がると、青く広がる海の景色を望めるのだ。
そして、展望室には大砲のような巨大な望遠鏡までも備えられている。
昔は本当に大砲で、そこから見つけた敵船をその大砲で沈めていたと彼は笑っていたが、数学が砲弾をいかに遠くに飛ばせるかの計算が元だという通り、早坂家は敵船を沈めるよりも砲弾を飛ばす事こそ楽しんでいたはずだ。
「男のロマンって、時代が新しくなるごとに消えていくんだよね。でもねぇ、海の困難さは、時代が変わっても変わらないんだ。優秀な航海士や船長に経験の高い船員が居なければ船はすぐに立ち往生してしまう。ここから見える海はこんなに穏やかで輝いているのにね。魔物、なんだよ。」
幼い僕を抱き上げて一緒に海を眺めた彼は、いまや起き上がる事さえできない。
今、僕の後ろには葉子と良純和尚、そして坂下がいる。
山口は辰蔵に会いに行く段階で良純和尚によって切り捨てられ、悪の手先となった楊にアミーゴズの肴となるべく連行されて行ってしまった。
やはり良純和尚が僕と本宅の客間に泊まるらしい。
坂下は部屋に案内されてからアミーゴ達の別館にも足を運んだらしいが、顔色がかなり悪い。
一時間足らずで一体アミーゴズは何を為したのであろうか。
「お前の元気な顔が見れて良かったよ。」
僕は辰蔵を見返した。彼は話す力がないはずだ。
「私も使い魔をもっているんだよ。」
彼の枕元には銀色の美しいカナヘビがいた。
「とても美しい子ですね。」
僕の言葉にカナヘビは首をもたげ、尻尾を犬のように振ると、猫のようにぴんと立てた。
「最後ぐらいちゃんと人と会話しながら死にたいからね。玄人が来てくれて良かったよ。僕は声帯を病気で取ってから、ずっと、人と沢山会話ができなかったからね。」
僕は辰蔵の手をギュッと握り、涙が流れるに任せた。
「泣かないで。死んでいく人に笑顔を見せたいと思わないかい?」
「僕が泣いているのは、今まで会いに来なかった自分の薄情さが情けなくて、です。そして、辰爺ちゃんはまだまだ亡くなりませんよ。まだ寿命がありますって。」
僕の言葉に、カナヘビも辰蔵も同じような真ん丸の眼になった。
「咽頭ガンの再発で僕はもう直ぐ死ぬんでしょう。」
「再発していないですよ。それ、毒によるものです。」
一人でぼそぼそ喋っているだけにしか見えなかった僕が「毒」と口にしたと、坂下がすっ飛んできた。
「何!玄人君。今何を言ったの?」
「坂下さん。お医者様を呼んでください。ここに控えている医師でなく、辰爺ちゃんの昔の主治医を。」
「どういうこと?玄人?」
僕の剣幕に葉子まで驚いている。
「葉子さん。辰爺ちゃんは危篤ですけど、毒を飲まされてです。早く何とかしないと!辰爺ちゃんの次男の辰雄さんに早く連絡をして!」
僕の言葉で坂下は動き、辰蔵の二番目の妻が産んだ子供に追いやられた主治医が、一時間もしないで連れて来られた。
そして、枕元のカルテや治療用具、その全て片付けて別の治療指示をし始めた。
「久しぶりだね、玄人君。間に合って良かったよ。ガンにもなってない老人に抗がん剤なんか入れていたら、そりゃ弱って死ぬよ。」
辰蔵はガンの再発だと思いこまされ、不要な治療にて弱らされて殺される手前だった。
そして、すべてが上向きへと修正され、辰蔵のバイタルも安定した今、僕は数時間前と同じく彼の枕元に座って、辰蔵に起きたと思われる事を話し、彼の言葉を聞いていた。
葉子も良純和尚も坂下も席を外して、ここは今、僕と辰蔵だけだ。
主治医は別室で辰蔵のバイタルを監視している。
辰蔵はカナヘビを通してだが思いのまま語れること、後数年だろうが体が再び動き回れる事の喜びで幸せに浸って、そして喜びを顔に浮かべたまま眠りについている。
明日はもう少し体が楽になっているはずだ。
彼はまだ死なないし、死なせない。
眠る彼の手を撫でていると、ひゅうっとカナヘビが枕の下から出てきた。
カナヘビは美しい青銅のような瞳を輝かせて僕を見つめる。
「君が仕組んだんだね。辰爺ちゃんを助けるために僕達に車をぶつけたんだ。違う、僕達をここに呼ぶために遺産を狙う人に僕の名前だけを囁いたんだね。」
カナヘビはニヤっと悪魔のような微笑をうかべた。
「それも違うか。なんて恐ろしいんだ。君達は。」
枕元のカナヘビ以外が、そこかしこから顔を出して僕にニヤっと笑いかけた。
僕のオコジョと同じように、彼らも守る相手の事しか考えていない。
僕が殺されれば僕のオコジョが殺した者に向かってく。
オコジョ達が僕を殺した相手を必ず滅ぼすのは確実なのだ。
「悪い子達だ。僕のオコジョを置いておくから、次はこの子に願いを託してくれないかな。僕はまだ死にたくないし、良純さんを巻き込みたくはないよ。」
枕元のカナヘビはひゅうっと円を書くように回ると、そのまま辰蔵の枕の下に隠れた。
この子達が作った仕掛けはなくなった。
あとは人間が企てた企みだけが残っている。




