ばい菌まんです
「それで俺の家に逃げ帰ったのか。で、その部屋はやっぱりクロの言っていた通りの部屋だったのか?」
俺は少しどころかかなりワクワクして、かなりの知りたがり屋になった。
十八歳の女子高生の少女と大学中退の玄人は、外見がいい割には同世代の友達が作れないという共通のものがあるからか、近所という事もあって意外と仲が良いのである。
「お前、知っていたのかよ。そんで、ちび。ヤバイ!と分かっていたならあいつに注意しておけよ!連れ込まれて部屋を見回した時の俺の恐怖、わかるか?」
久々に会う婚約者は受験勉強の疲れもなく、逆にエステ帰りのような磨かれた感じもあるほどの美女振りで楊を待ち受けていたのだ。
百七十の長身にアッシュブラウンの肩甲骨の下ぐらいまである長い巻き髪がゆれ、その美しい髪に飾られた完璧な輪郭の顔に大きなアーモンドアイが楊を目の前にして蠱惑的に輝く。
ライブ前に早めに彼女の自宅玄関に立った彼は、「今日は私一人なの。」の言葉にしまったと考える間もなく、彼女に強引に腕を引かれて屋内に引き込まれたのだという。
「えと、えと、早いけどさ、早いからこそ早めに渋谷に行って遊ぼうか?」
「うん。遊んで欲しいの。ねぇ、前みたいにキスをして。」
「キスはしたんだ。」
俺が入れた茶々に、楊は顔を真っ赤に火照らせた。
「いいじゃんか。俺は乙女にも、文鳥さん達にも、なずなやゴンタにだって、毎日ちゅっちゅしているもんね。嘆き悲しむ女の子を慰めるにはキスぐらいはするでしょうよ!」
最後の語尾を大きくしたかと思うと、彼は俺の後ろにいた玄人を引っ張り出し、なんと玄人の額にぶっちゅと音がするくらいにキスをしたのである。
「きゃあ。気持ちが悪い!」
玄人は叫ぶと、両腕を広げた山口に逃げずに、当り前だが俺の後ろに再び戻ってきた。
俺は両腕を広げたままの山口が可哀想だと思いながら、手近にあったウェットティッシュで玄人の額をごしごしと拭ってやったが、その一連の流れに激昂した男がいた。
「畜生!俺をばい菌扱いしやがって。俺を愛してはいないのかよ!」
「だって、気持ち悪いものは気持ち悪いんです!口内って手の平よりもばい菌が一杯だって知っていますか!うぇ、うぇ、ですよ!」
「お前!そこまで言うか!散々可愛がってやったのに、俺に梨々子の危険を知らせなかった罰だ!」
彼は今度は山口の頭をグイっと掴むと、べろんと山口の額を舐めた。
「どうだ!お前の大事な淳平君も俺のばい菌マンだ!」
山口は楊に慣れているようで慣れていなかったようで、耳まで真っ赤に染めて両手で顔を隠して嘆き、俺の後ろの玄人は俺の背に自分の頭を入れ込む勢いでぐいぐいと俺の背中に顔を押し付けている。
「かわちゃん。そんなに壊れるって、お前は世田谷で何があったんだよ。」
彼は急にテンションを下げると、「うるさいよ。」と静かな声で俺に返した。
梨々子に家の中に引き込まれてキスを強請られた彼は、いつ父親か母親が帰ってくるかわからない場所で彼女にキスするのは嫌だと逃げたが、その言葉のせいで彼女に自室に連れ込まれたのだという。
そして、彼女はベッドのある自分の部屋に楊を引き込むと、キスを強請ることも忘れて自分の部屋を楊に誇ったのである。
「まさ君!見て!私はこんなにーも、まさ君を愛しているの!これが私の愛よ!」
楊は初めて入った彼女の部屋を見回した。
見回してそこは蜘蛛の女王の部屋でしかなかったと、楊はがくりと感覚のなくなった両膝を床に打ち付けていた。
そして、気が付けば楊は抵抗の気力もないまま唇を十代の少女に貪り食われていたのである。
空しさに目線を下に下ろせば、フローリングに敷かれたラグが自分の足を覆うほどに毛足が長く、彼が彼女に動かされるたびにラグの毛はゆさゆさと蠢く。
「あぁ、イソギンチャクの触手みたいだ。」
ぼんやりと考えてしまった彼の片目から、ほろりと涙が一粒落ちた。




