第3話 祁門と 不動産屋と 迷探偵?
「お兄ちゃんっ!時間だよっ!」
鮎美ちゃんの言葉で、目の前の玄くんの身体がビクリと震えた。
一瞬前まで低血圧で死んだ魚の様な目をしていたのが嘘のよう。
「やばっ……電車ギリギリだ!」
弾かれた様に立ち上がると、緩んでいたネクタイを締め直してブレザーを羽織り、家を飛び出していった。
「「行ってきます(~す)!」」
「あいよ、気をつけてな」
「行ってらっしゃーい」
翠閠さん(“さま”はやめてくれと頼まれた)と私で二人を玄関で見送ると、慌ただしかった家の中に静寂が広がった。
「いつもこんな状況ですか?」
「そうさな……ここ1年半ぐらいですか、賑やかになったのは」
玄くんが帰国してから半年……
鮎美ちゃんは玄くんに遠慮があったのだと言う。
定期的に電話で話したりしていても、声だけのやり取り。
兄妹としての遠慮のない距離感になるまで時間を要したのだろう。
「5歳児だった玄草が15歳になって帰ってきて、儂も慣れるまで時間を要しました」
リビングに戻って来ながら、翠閠さんは眩しい物を見たかのように目を細めて言う。
実際に、孫の成長と言う物は眩しいだろう。
10年もの歳月を隔てられていたとなれば尚更。
「玄くんが“大災禍の遺児”として好奇の視線に晒されない為とは言え、申し訳ありません」
「何故に謝られますか……その件は妻と話し合って決めたことです」
寧ろ護って頂いて感謝しかない、と翠閠さんは仰った。
ティーポットからカップへ琥珀色の螺旋を注ぐ。
リビングに仄かなスモーク香が漂う。
後追いの花の香りは決して強すぎず。
「良い香りですな。紅茶ですか?」
「ええ、中国産のお茶で“祁門”と言います」
「華僑が多い界隈で中国紅茶とは……」
最上級の祁門ならバラや蘭の様な花の香りがする。
だが、玄くんはリーズナブルなスモーキータイプを好んでいた。
この茶の香りに目を細められた翠閠さんも好みが近い様だ。
「しかも、これもまた……この様な贅沢な朝は久しぶりですな」
翠閠さんは更に目を細めながら、茶請けに出したカットオレンジに手を伸ばしている。
お茶の好みとは人それぞれ。
最上級の紅茶でも好みが合わないと言うことがある。
それは緑茶だろうとコーヒーだろうと同じ事。
お茶請けとの組み合わせも然りで、祁門とオレンジは玄くんのお気に入りだった。
一般的にはイチゴと相性が良いと言われるのだが……
「仕事前に大層な贅沢をさせて頂きました」
「お気に召して頂けたようで何よりです」
幸福そうな翠閠さんの顔を見て、私の胸中にも温かい物が広がった。
そう、こんな気持ちがずっと続くことを私は望んでいる。
「翠閠さん、昨晩お話しした事なのですが……」
「お隣りの貸店舗の件ですな?」
お隣りの貸店舗を使って、喫茶店がしたいと昨晩のうちに伝えてある。
提供するものは、簡単な北欧料理や飲み物、お菓子等。
開業資金は、欧州魔術師ギルドの日本支部設立分を含めて多めに頂戴しているから大丈夫。
しかも、他にも月々の活動資金としてギルドから入金がある。
翠閠さんは、資金の持出額の報告を聞いているノルドさまの苦笑いを思い浮かべて居られるのだろうか。
「あるところにはあるんだねぇ……」と遠い目をなさっている。
翠閠さんが不動産会社に連絡を取って下さり、16時過ぎに一緒に訪問する事になった。
それまでの間は店番の代行。
平日とあってか人通りも少なく、観光で訪れる方々が御土産物を購入して行かれるぐらい。
15時半過ぎには近所の私立女学院の生徒さん達が駅へと吸い込まれていく。
インカローズから北に歩いて5分程度。
メイン通りを1本外れた所に不動産会社はあった。
到着すると、カウンターにいた女性が私達を席へと案内して下さる。
そして、例の物件情報を見せて下さる。
「保証人は各務様で宜しいでしょうか?」
「問題ありません」
手続きが滞ることなく進んでいく
「これはこれは各務さん、今日も良い陽気ネ」
50歳台の小肥りな男性が翠閠さんに声をかけてくる。
「あ、社長」
あの人がここの社長なんだ。
「劉さん、お久しぶりです」
「固い挨拶は無しネ。お互い長い付き合いヨ」
……華僑と一言で言っても色々な人が居るものだ。
私の知る華僑の魔術師と言えば、痩せた人が多かったのだけれど。
「そういえば、店舗借りたいって言ってたネ」
「社長、お客様はこちらの物件をご希望で……」
営業の女性は例の物件の情報を劉さんの前に差し出した。
「あ、あの事故物件を!」
劉さんは慌てるように翠閠さんに問う。
「各務さん、本気でそこで商売する気ネ?」
「あ、私です」
私が答えると、劉さんは細い目を刮目する。
「各務さん、隣の女の子、誰?」
「妻の知り合いの……」
「天井天照です、よろしくお願いします」
「ああ、ノルドさんのお知り合いネ。判ったヨ、よろしくネ」
劉さんはニッコリと微笑んだ。
気になるのは間取り図に記された家賃など。
【横浜市中区 山下町(元町中華街駅)の貸店舗】
賃料 20.5万円
管理費等 43,000円
敷金 2ヶ月
保証金 なし
使用部分面積 96.47㎡+64.33㎡
種目 貸店舗 +住居
交通 元町中華街駅 徒歩4分
この界隈の他の貸店舗と比較しても2割以上……3割近く安くなっている。
中華街の中で、駅も近い好立地だと言うのに。
「何故こんなにお安くなっているんです?」
「実は……あの店舗で開業しても長くても半月も経たないで店舗を閉店してしまうんですよぉ……」
歯切れ悪そうに営業さんが応じる。
「調理機器の故障が頻繁におきたり、集客が急になくなると言ったトラブルも……」
営業さんの話しで思い当たる事はあるのだが……今はやめておこう。
「この物件を拝見したいのですけれど、案内をお願いしても?」
物件を見てみれば判ることだ。
見てみなければ何もわからないとも言うが。
案内して頂いて、初めて貸店舗へと足を踏み入れる。
昨日は外から見るだけだったのだけれど、改めて見ると“澱んだ空気”が感じられた。
特に厨房と客席を隔てるカウンター辺りで揺らめいている。
「ああ、なるほど」
……玄くんが張った怪異封じの結界のお陰で、澱みを発する主の姿も確認出来る。
美しい白髪を結い上げた御婦人が居る。
インカローズに戻ってから、私が見たものを翠閠さんに報告する。
……さすがに不動産会社で話す事は躊躇われた。
それを聴いた翠閠さんのダークブラウンの虹彩には悲哀の色が湛えられている。
色々と思い出されて居るのだろう。
「玄草から聞くまで俄に信じられなかったのですが、早苗さんがあそこに縛られてしまっているとは……」
時東早苗さん=お隣りの御店主は、若かりし頃の翠閠さんが淡い恋心を抱いた、黒髪の年上の女性。
好奇心旺盛で行動力があり。
インカローズに商品として置かれていたテーブルセットも、気に入ったら即座にお買い上げする思い切りの良い方だった。
ハキハキとした明朗さに惚れ込んだ男衆も居たが、その口から上がる噂話から御相手が居るのだと知る。
翠閠さんの恋は儚なく潰えたのだ……
しかし、早苗さんの思い人は何時まで経っても現れなかった。
隣同士に店舗を構えているのだから、そういった話があれば判ろうと言うものだ。
翠閠さんがノルドさまと結婚し、娘のマーニーが生まれ……娘が婿養子の間に子供を作る頃になっても、彼女は独りだった。
美しい黒髪が総白になっても……
「幼かった玄草や鮎美にも優しくて。自分の孫に接する様でした」
毎日店を開けて働く彼女が倒れたのを目撃し、救急車を手配したのは翠閠さんだったと言う。
しかし、彼女は帰らぬ人となってしまったのだ。
「そうなっても現れなかったのです。早苗さんの思い人は」
早苗さんの訃報と喫茶店の廃業を翠閠さんに伝えてきたのは、彼女の妹だったと言う。
過去を語る翠閠さんはリビングのテーブルの上で拳を固めていた。
怒りと、悔しさと哀しみを込めて。
「早苗さんを何とか解き放って差し上げたい……」
翠閠さんがポツリと呟いた。
私は店舗を借りたい。
(インカローズのお隣だから朝ごはん作ったりとか、玄くん起こしたりとか通いやすいんだもん……と言う本音は隠して)
「お任せ下さい、解決してみせます!」
「ただいま戻りました!」
玄関のドアが開かれ、玄くんの声が響く。
時計を見れば夕方6時になろうとしている。
暫くすると、制服から私服へ着替え終えた玄くんが、自室からリビングへと降りてきた。
一足早く帰ってきた鮎美ちゃんはバスタイム中。
「玄くん、お帰りなさい♪」
「天照さん、どうでした?」
紅茶を差し出した私に、玄くんが尋ねてくる。
玄くんが尋ねる「どう」とは、昼間の店番の事かお隣りの事だろう。
「日中は売上ノートに記入した通り……売上に貢献出来ていれば良いのだけれど」
「じいさん、平日は日中でも工房に篭っちゃうから、天照さんが居てくれただけで違いますよ」
さすがに土日祝日の繁忙時間は翠閠さんも借り出されるそうだけれど。
「俺が訊きたかったのは、お隣りの空き店舗の件です」
「物件としては文句無しよ。住居部分も確りあるし……ただ、ね?」
日中にお隣りで見てきた事は玄くんも知っている事。
怪異が漏れ出ないように防怪異結界を張った張本人なのだから。
「玄くんが張ってくれていた結界は完璧……でも“早苗さん”の姿が私にはハッキリと見えていた。これがどう言う意味か判っていて?」
大概の不浄霊であれば閉じ込められている間に力を失ってしまう様な防怪異結界。
そのような物の中で、霊が己の姿を保っていると言うこと。
それは、一人の魔術師が封じ込めるには過大な存在である事を示していた。
「このまま結界を張りつづけるのが危険な者を封じていると言う事は理解しています」
「そうね、最悪……早苗さんが暴走したり、魔界からの介入があったりしたら」
私は握り拳を持ち上げつつ、上に勢いよく開いて見せる。
“破裂”や“破滅”を意味するハンドサイン。
玄くんの顔から血の気が引く。
私の例えが大袈裟じゃない事を知っているからだろう。
知らなかったら青ざめる程度じゃ済まない。
「そうさせない為に私が来たんだから安心して」
ノルド様から託されたミッションは他にもあったりするのだけれど、それは“この件”が片付いてからでないと話にならない。
「明日は土曜日……翠閠さんのお気持ちにも応えなきゃ」
お読みいただきありがとうございます(=^・^=)
次話公開は、6月7日火曜日、0時です。
お楽しみいただければ幸いです。