第8話 にっぱち姫のアルバイト
「ムネタカ、そのトンネルに飛び込めば、地球に帰れるのか!?」
宿に戻って昼食を取る、ムネタカ、シオン、レナ、そしてマーカスの4名。
だが、ビリーとの会話の詳細を聞いて食事中誰よりも興奮していたのは、当事者ではないはずのマーカスだった。
「……まあ、現物を見た上でお前の記憶と照らし合わせないと、まだ何とも言えないがな……」
マヤーミの森に出没した、次元を繋ぐと言われているトンネルの存在。
しかし、こればかりは経験者の判断と、マヤーミの森に住む聖獣族の話を合わせなければ確認のしようがない。
ムネタカはマーカスを落ち着かせようと、努めて淡々とした対応でやり過ごしている。
マーカスは22年前にヒューイット王国に移転して来たのだが、それまでの彼は地球のアメリカ軍人として、まだ若手兵士ではあったものの悪くないキャリアを送っていた。
それ故に、前世に絶望して自殺したムネタカや、幼くして両親に棄てられて天涯孤独の身になっていたランドールとは異なり、地球への帰還願望を常に持ち続けていたのである。
「俺は、今の人生が不幸だと思っている訳じゃないんだ。それにもう22年前の事だから、軍では俺が戦死したと処理されているだろう。だが、死体を見ていないおふくろや友達からすれば、まだ22年前の事かも知れないんだ。彼等が生きている間に、俺の無事を伝えたいんだよ」
マーカスの真摯な願いは、つい昨日まで転生や移転といった言葉すら知らなかったシオンの心も突き動かしている。
自分達の無関心によって心を閉ざしてしまった転生者や移転者が、今も王国で息を潜めて暮らしているかも知れないからだ。
ムネタカの様な死後からの転生はともかくとして、運命の悪戯で地球から王国に移転してしまった人間、或いは王国での暮らしに絶望している人間が、自らの意思で生活する場所を選べる様になれば、これ程幸せな事はない。
「ムネタカ様、私達の最優先事項は姫様の呪いを解く事です。ですが、その次元のトンネルの真実を突き止める事は、もはや私達の世代の義務なのかも知れませんね」
学術的なミッションに、メガネクイッと好奇心を輝かせるシオン。
この時、ムネタカは前世を合わせると既に60年以上生きており、私達の世代とか言う彼女とは父娘以上の差がある事に、少々引け目を感じざるを得なかった。
午後からダランの街に戻ったムネタカ達。
夜にはオースティの傭兵酒場でランドールとキルメスに会う予定のムネタカとシオンは、聖獣族との戦いに備えて魔法の実践訓練を重ねる事に。
即ち、農家と野性動物のトラブル解決に積極的に出かける事で、獣との戦いに慣れるのである。
一方、レナはジェフリーの仲介でハミンの食堂に預けられる事となった。
レナとシオンは昼食後に入浴を済ませており、獣化の不安を紛らわせる為、レナが街の人々との交流を受け入れる覚悟を見せていたからだ。
交流とは言っても、男は基本的に権威と若い女性には甘くなるもの。
だが、苦労人のハミンであれば王女という地位に媚びへつらう事はなく、しかもレナと同世代のマリンという娘が両者を橋渡し出来る。
ハミンの店を手伝わせる事で、レナにわがままを言う暇を与えずに庶民の暮らしを理解させるというカリキュラムは、今後の彼女の為に考えられる最高の選択であるはずだ。
「貴女がレナ姫様ね、初めまして! 猫ちゃんが少し入ると、噂より可愛く見えるわね。貴女には今日から、うちの店を手伝って貰います。でも、今の貴女に料理を運ばせると、多分その場で食べちゃうだろうから、暫くはお客様から料理の注文を取ってきて、こちらに報せて下さい。出来るかしらね?」
ハミンは穏やかな口調で、大人としての余裕を持ってレナに接している。
しかしながら、レナの悪評を試すかの様に、相手のプライドを微妙にくすぐる言葉を選んでもいる。
「……にゃ、バカにしないで。あたしは学校でもトップクラスの記憶力だったんだからねっ!」
入浴を済ませたばかりであるからなのか、今日のレナは普段の彼女に近い印象だ。
見た目は可愛いが、中身は正直過ぎる言動で可愛いとは言いがたい。
「ふふっ、教育しがいがあるわ。もうすぐ常連さんの一団が来るから、このメニュー表を少しでも覚えておく事ね。いざお客様が押し寄せたら、メニューを読んでいる暇は無いわよ」
ハミンは不敵な笑みを浮かべ、レナに予備のメニュー表を手渡す。
それは、彼女の20年もの汗と涙の結晶。
魚料理ひとつを取っても、多彩な魚、多彩な調理法がメニューを賑わし、自分の好きなものしか食べなかった偏食家のレナには想像すらつかない料理ばかり。
「ええ〜? お魚って、こんなにあるの〜?」
早くも混乱を隠せないレナ。
魚の名前も調理法も似通ったメニューが乱立している。
「いらっしゃいませ〜!」
ハミンの娘、マリンの明るい挨拶を皮切りに、常連さん一団が到着。
申し合わせでもしたかの様に、老若男女揃い踏みだ。
「……姫様、落ち着いて! まずは身体でひとつ覚えてからじゃないと、頭は回らないものなの。今日から完璧にこなせる訳がないんだから!」
同世代のスタッフが増えた事が純粋に嬉しいマリンは、普通の同僚としてレナに接しており、取りあえず自身を落ち着かせるきっかけを得たレナは、マリンの後について初仕事に挑む。
「……姫様! 2手に分かれないと効率が悪いわよ!」
まだ右も左も分からない、初仕事のレナにかける言葉としては少々厳しい気もするが、ハミンもそこはプロ。
自分に期待されている事は、心を鬼にして貫徹する覚悟である。
「みゃっ! うるさいにゃ〜!」
アルバイト初日の若者であれば、これは誰もが抱く感想。
思わず不満が表情に現れそうになるレナ。
「……あっ! 姫様よ! ハミンの店で預かるって噂、本当だったのね!」
相変わらず、噂の回るスピードが驚異的な地方都市。
自分が姫として客に見られている事を再認識したレナは、引きつりながらもどうにか愛想笑いを保っていた。
アルバイト開始から1時間。
わがままを生活に慣れ過ぎていたプリンセスにとって、地獄の様な1時間が過ぎ、ようやく客足もピークを過ぎて来ている。
「ふあぁ……疲れたぁ〜!」
慣れない立ち仕事に疲弊したか、その場に座り込んでしまうレナ。
彼女自身はハミンからの小言は聞きたくなかったものの、そんな事はどうでもいいと思える程に疲れ果ててしまったのだ。
「姫様、まだ休憩の時間じゃありませんよ! そんな事では聖獣族にも笑われます!」
「うるさい! みぎゃあっ……!」
ハミンの言葉に、遂に我慢の限界が訪れたレナは眉間にしわを寄せ、口をへの字型に曲げて怒りの表情を浮かべながら厨房へ突進を始める。
「……来たわね! まあ、予想より我慢出来た方かしら!」
ハミンはレナとの間合いを冷静に計測し、静かに包丁を置いて掃除用のモップを手にして迎撃の姿勢を取っていた。
「うみゃああぁぁっ……!」
「はあああぁぁっ……!」
レナのねこぱんちと、ハミンのモップが激しく宙を舞い、火花散る激突一閃。
「……みゃあ……!」
自身のねこぱんちをあっさりとかわされ、逆にモップの峰打ちを受けたレナは、力なく床に崩れ落ち、自らの力のなさを痛感していた。
「にゃあ……このおばさん、強過ぎる……」
流石のハミンも、がっくりとうなだれるレナを無理矢理起こす気にはなれない。
やむ無くレナを少し休ませようとしたその瞬間、食堂に小さな子ども達が大挙してやって来る。
「……あっ、ネコねーちゃん!」
「本当だ! これ、ネコねーちゃんだ!」
レナの元に駆けつけた子ども達の中には、彼女に魔法風船を捕まえて貰った兄妹もいた。
彼等もまた、噂を聞きつけてこの食堂に来たのだろう。
「ネコねーちゃん、さっきはありがとう! お仕事終わったら、一緒に遊ぼうよ!」
レナがこの王国のプリンセスであるなどとは露知らず、無邪気な子ども達は彼女をアイドル的なキャラクターとして慕っていた。
「……お母さん、やったね! これで子どものお客様も増えるよ!」
マリンのしてやったりと言った表情に、痛し痒しなリアクションで応えるハミン。
相変わらず床にへばり着いているレナも、シオンやムネタカ以外に自分の味方が出来た事に、これまで未経験の喜びを感じている様子である。
「……姫様、私はこの店を仕事でやっているんです。私の夫はもういません。私とマリンが生きる為には、お客様に毎日ベストを尽くさなくてはいけないのです。姫様、今のこの子達には、貴女が必要だという事は分かりますか? 今日の仕事はもういいですから、少し休んで、この子達と遊ぶ事にベストを尽くして下さい」
ハミンの強さは、彼女が欲して得たものではない。
夫を失い、店とマリンを育てる為に、命を懸けて身に付けざるを得なかったものなのだ。
「……ありがとう。明日また、頑張ります……」
ハミンの真意を理解したか、レナは最小限の言葉を用いながらも、今の自分に出来る感謝の意を示し、子ども達と一緒に食堂の外へと消えていく。
「……姫様……よかった……」
食堂の柱の陰から涙を流してレナを見守っていたのは、今回のカリキュラムの首謀者であり、「にっぱち姫」のプロモーション活動を凄まじい勢いで行っていたジェフリーだった。