黒髪の少年
窓の外をふと見遣る。
校庭で騒ぐ同級生たちはどうしてあんなに無邪気に笑っているのだろう。高校1年生にもなって、50m走の結果であんなに大騒ぎして馬鹿馬鹿しくは無いのだろうか。
5月に入る前特有の初夏になりきらないぬるい風がノートをぱらぱらとめくるのが鬱陶しく、窓を閉めようとしたが、それは教師の声に阻まれた。
「稲牙、どうだ?」
どうだ、と言われても残念ながら何一つ授業は耳に入っていなかった。仕方なく立ち上がり、黒板とノートを眺め、暫く考えるふりをする。
「……わかりません」
「そうか、じゃあ隣の舞槻」
俺が座ると同時に隣の席の舞槻さんが立ち上がる。
「はい、ここでの主人公の心情は、いつも自分を抑えて生きている事に気付いて欲しかったというものです。理由は前の文の……」
長い前髪の隙間から見える、眼鏡を掛けたポニーテールの少女。優等生はお下げという偏見があったが、そういう訳では無かったらしい。
「はい、先程発表してもらった通り、一つ前の文ですね。はい注目、ここが重要で……」
黒板にカツカツと文字を書き始めた中年の教師を無視し、ノートに意味の無い落書きでもしようとした。
「稲牙くん。稲牙龍くん。」
舞槻さんがひそひそと声をかけてくる。
「……何すか?」
「さっきの質問の前の黒板消されちゃってるから。ほら」
そう言って見せてくるノートには成程、今の黒板には無い文がメモしてあった。質問までの話を聞いていなかったのをしっかりと見られていたのだ。
ありがたくはあるが余計なお世話でもあり、しかしテスト前に誰かしらのノートをコピーするのも面倒くさいので受け取って自分のノートに写す。そもそも、ノートを気軽にコピー出来るような友人を作るつもりもあまり無いので、実はありがたさの方が勝っている。
「ありがとう」
「いえいえ」
閉めるタイミングを逃した窓からまた風が吹いてくる。今度こそ窓を閉め、乱れた長い髪を整えることにした。首の後ろで括ったヘアゴムを一度手首に付け、手櫛でざっくり解く。真っ黒の髪が何本か指に絡んで落ちた。
これ以上髪を伸ばすと椅子に挟みそうだからそろそろ切らないとな。
括り直すと同時に終業のチャイムが鳴る。
「あーキリのいい所までやるからもう少し教科書しまわないで。あと1行書いて終わるから」
残念ながらもう何人かは筆箱にシャープペンをしまい始めている。俺もそれに乗っかる予定だったが、隣から視線を感じてやめた。
「はいじゃあ、あとここだけ宿題。次のページの2行目からの1段落、主人公の感情がどんなものだったか、その次の段落の友人の気持ちも考えて来て」
3分オーバーで授業が終わる。この手の国語の宿題はとても苦手だ。
休み時間の続きのお喋りをする人や教師に質問をしに行く人で一気にうるさくなった教室で、小さく文句を垂れてみる。
「主人公の感情とか知らねぇよ……」
「あはは、確かにねー」
自分では小さな声のつもりだったが、机ひとつ分の距離には届いてしまっていたようだ。
「人の感情ってめっちゃ難しいよね、国語とかなら絶対ヒントがある文しか持ってこないけど、現実そんな事無いし」
「……はは」
人との距離感の詰め方が分からないので愛想笑いしか出来なかったが、意外とそんな事も言うんだな。現実で人の感情が分からないとか言うキャラでは無いだろうと思っていた。てっきり、前の文を探して、とか行動に理由がある、とかしか言わないのかとばかり。
「逆に稲牙くん、こういうの得意そうだけどね」
「……は?」
最近の女性は突然脈絡もなく異性を褒めないと死ぬのだろうか。どこで培った合コンテクかは知らないが、急に会話の距離を詰めないでくれ。
「稲牙くんの表情が変わったのとか見た事ないし。感情が表に出ない人って、他の人が表に出していない感情とか読み取るのも出来そうだなーって」
どんな飛躍した発想だ。眉根を寄せそうになるが、ぐっと堪える。
「別に……得意じゃ無いです」
他の人の感情とかどうでもいい。自分の感情は、ただ出すのが面倒くさくなっただけだ。
「えー、そうなんだー」
再び愛想笑いを返せば、こちらに会話をするつもりが無いと伝わったのか帰る準備を始めた。俺もノートをカバンにしまう。
「終わりのホームルームしまーす」
学級委員長の声が響き、ざっくりと翌日の連絡事項が流れていく。ぼんやり聞き流していると、ポケットの中でマナーモードの携帯が震えた。
ポケットから取り出してポップアップを見る。姉さんから1件だけメールが届いていた。
『龍くんへ
GW終わり頃帰省予定
零司さんも一緒です
お父さんとお母さんによろしく 寧々子』
嗚呼、もうゴールデンウィークが近いのか。
本当に小さく、今度は隣の席にも気付かれないようため息を吐く。
『了解
こちらこそ義兄さんによろしく』
「帰りの挨拶します。起立、気を付け。さようなら」
返事を打っているうちにホームルームが終わってしまったようだ。慌てて号令に合わせ、立ち上がって礼をする。ガタガタと椅子を鳴らし、何人もの生徒が連れ立って教室を後にした。
「じゃあね」
一言だけ話しかけてきた舞槻さんに小さく会釈し、再び携帯に目を落とす。打っただけのメールの送信ボタンを押し、俺もカバンを持ってゆっくり立ち上がる。帰ってダラダラしよう、と考えながら学校を出た。
学校から家までは徒歩で20分程。自転車で通うべきか微妙な距離感なのだが、姉さんが徒歩だったため必然的に俺もそうなった。個人的にはギリギリまで寝ていたいので、小遣いを貯めて自転車を買うべきか悩んでいる。とはいえ、ゆっくり歩きながら木々の葉が揺れているのを眺めるのも嫌いではない。
途中の公園のフェンスから漏れる緑に惹かれ、人が居ないのなら寄り道をして行こうと公園に足を踏み入れる。が、ブランコに揺られる小さな子供とその親らしきスマホを眺める女性が居たので踵を返し、元の道に戻ろうとした。
瞬間、黄色い蝶とすれ違う。アゲハチョウでは無く、モンキチョウでも無い、種類の分からぬ黄色い蝶が刹那を斬り裂いて行った。思わず振り返り、蝶の行方を目で追う。
「わっ、えっ?スマホ…」
しかし蝶は見当たらず、変わりに女性の慌てたような声が聞こえた。ベンチから立ち上がってわたわたと辺りを見回している所を見ると、スマホを落としたらしい。
と言うか、スマホを落として見失う事があるのか?普通は落とした先……足元を探すはずなのに、何故この人は周囲を捜索しているんだ?
「ふぇあああ……う、わああん!!」
子供の泣き声でそちらに目が行く。耳を刺す高い声の主は、どうやらブランコから落ちてしまったらしい。女性はそれまで気付いていなかったようで、慌てて子供の元へ駆け寄る。
が、先に子供の元に駆け寄ったのは制服姿の少女……隣の席の優等生、舞槻さんだった。
「大丈夫?」
普段の柔らかい声をもっと柔らかくした声で子供に話しかける。
「あ、すみません本当」
母親らしき女がまだ泣いている子供を引き取り、元々座っていたベンチへ戻ろうとする。
「そう言えば、探してませんでした?スマホ。こちらですか?」
舞槻さんがにっこりと薄い水色のケースのスマホを差し出す。
「あ、これ、これです!ありがとう!」
スマホを受け取り、ぺこぺこと頭を下げながら子供とベンチに向かう女性。
「稲牙くん、帰ろー」
舞槻さんが二の腕をつかみ、その華奢な身体からは想像も出来ないほど強く引っ張る。いや、一緒に帰っていた覚えは無いし、そもそもいつから居たんだ。子供が泣いた瞬間すごい勢いで現れたように見えたが、走ってきた方向は明らかに公園の奥からだった。
早足で角を曲がる舞槻さん。俺は情けなく引っ張られて着いていく。家こっちじゃ無いし、帰りたいんだけど……。
「きゃああああああ!?」
突然公園の方から叫び声が聞こえる。先程の女性の声だ。
「なんでしょうね」
「さぁ?」
無言で引きずられるのも気まずいので話しかけてみたが、冷たい返事が返ってきただけだった。
カツン、と音がしてそちらを向く。音に気づいた舞槻さんも足を止めたのでそれを拾う。
……バタフライマスク?
テレビで流れる海外のカーニバルや映画の中の舞踏会に出てくるような、蝶の形をした仮面。公園の入口で見た黄色の蝶とよく似ていた。近くで見ると羽の模様が黄色でなく金色で、羽自体も黄色と言うよりは少しくすんだ金糸雀色という感じだ。
「これと似た蝶、さっき見たんすよ」
「へぇ」
ずっと掴んでいた俺の左腕を離し、さっと拾い上げる舞槻さん。
「誰のだろうね、一応警察に届けてくるよ。じゃ」
そう言って逆方向に歩き出そうとする。
「なんで?それ舞槻さんのでしょ」
「え?」
しまった、自分のものである事を隠したかったのだろうか。それなら余計なことを言ってしまった。まあ、確かに学校にバタフライマスクを持って行く女子高生は聞いた事がないが。
「いや私自分のなんて一言も……」
「あ、ごめん舞槻さんのカバンから落ちたから……」
さらに余計なことを口走ってしまった。しかし、舞槻さんは怒るでも恥ずかしがるでも無く驚いた顔でこちらを見つめていた。
「落ちるのが見えたの?私のカバンから?」
「え、うん……」
そんなに驚く事だろうか。当たり前の事に驚いた上うんうんと考え込まれ、こちらも困惑する。
「稲牙くんも仮面持ってるの?」
考え込んだ結果、突飛な言葉をかけられる。
「あ、いやすみません、そういうのちょっと分からなくて……」
「待って待って宗教じゃないから!一旦落ち着いて聞いて!」
「いや急いでるので……また明日学校で……」
「違っ……この仮面、変身グッズなの!!」
「は?」
優等生が仮面をずいと押し付けて変身グッズだと力説する姿は傍から見たら酷く滑稽だろう。しかし、生憎こんな片田舎では通りすがる第三者などおらず、当事者である俺は困惑と早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「ごめん、意味分からない話だと思うけど聞いて!まず何かさ、お面とか持ってない?」
話半分に流しておこうとした俺の脳裏にふと浮かんだのは、昔蔵の奥で遊んだ時に見付けた狐のお面だった。
「あー……まあ、無いわけでは」
「本当!?どんなお面!?」
こんなにぐいぐい来る様子、誰が想像出来ただろうか。
「よく縁日とかである狐の……顔の上半分隠すタイプの……」
「それちょっと今から取ってこれる?……いや、まあいいや、見てもらった方が早いから、こっち!」
再び俺の腕を掴んでぐんぐん進む舞槻さんが向かったのは、2本先の道を曲がった奥の細い路地を行った先の古びた神社だった。
俺の帰ってダラダラ計画が……。
初投稿です。
よろしくお願いします。