第1話
「バローハさん、つまりあなたはこう言いたいわけですね。僕らをお父様――〈勇者〉マルコス氏に会わせることはできないと」
ミゲルは内心の疲労を押し殺しつつ訊ねた。
目の前の中年男性はニコニコと微笑んでいる。最初に挨拶してからずっとこの調子だ。目尻を下げて、膝の上でゆったりと手を組んでいる。応接室に通されて三十分。飲み物の氷もすっかり溶けていた。
(狸親父め)
苦々しげに見つめるミゲルの前で男――バローハは心外そうに肩をすくめた。
「会わせないなどと、いや、そのようなことは申しておりません。私とて認定官殿には申し訳なく思っておりますよ。遠路はるばるお越しいただいて、満足なおもてなしもできずにお待ちいただいているのですから。ですが困っているのは私も同じなんです。まさか父がゴブリン討伐に出たそのタイミングで、〈勇者〉資格の更新監査にいらっしゃるとは」
ああ。
また同じ話だ。で、いつ戻るのか? と訊ねても、さぁと答えるだけだろう。ゴブリンどもは狡猾ですから、倒しきるには相当の時間がかかるかもしれません。一日か二日、ひょっとすると三日以上。
「監査予定は事前に手紙でお知らせしているはずですが」
バローハは「はて」と首をひねった。
「父宛の郵便は全て本人に渡していますが。何分忙しい人ですから、失念していたのかもしれません。先週は先週で、近くの森のコボルド退治を頼まれておりましたから」
「コボルドもいるんですか」
「はい。二十匹ほど群れを作っていて、ほぼ一週間がかりの討伐でした」
ああ言えばこう。こう言えばああ。
砂漠で説教とはまさにこのことだ。今のままでは更に一、二時間議論が迷走しかねない。ミゲルは嘆息してソファーから身を乗り出した。
「いいですか、バローハさん。更新監査は〈勇者〉認定の必須要件です。理由なく欠席したり非協力的な態度を取られれば、認定の取り消しもありえます。監査結果に非適合と書かれてもいいんですか」
「そう言われましても」
困ったように口元を歪められた。バローハはナプキンで額の汗をぬぐった。
「理由は先ほども申し上げた通り、ゴブリンどもの退治に向かっているからです。〈勇者〉業務を優先したために非協力的と言われるのは、あまりに無体でしょう。ねぇ、お付きの方、あなたもそう思いませんか?」
ミゲルの横で旅装の少女が目を丸くする。ライムグリーンの髪を二つ結びにした小柄な女の子だ。話を振られると思っていなかったのだろう、団栗眼をぱちくりとさせる。
「はぁ、難しいことはよく分かりませんけど」
彼女は小首を傾げて、おさげの髪を揺らした。
「お仕事中なら確かに、出かけていても仕方ないですねー」
「ディア」
たしなめかけたがあとの祭りだ。バローハは我が意を得たとばかりに笑みを大きくした。
「そうでしょう。確かに監査は重要ですが、このようなケースでは情状酌量の余地が認められるはずです。日を置いて再監査、あるいは代理人による書類審査、そんな方法もあると前の認定官殿はおっしゃっていましたが」
「今回が初めてのケースなら、確かに」
ミゲルは辛抱強くバローハを見据えた。机上の監査資料を押し出す。
「ですが、マルコス氏の審査はすでに三回延期されています。その前、つまり四年前の監査は書類審査です。バローハさん、あなたの名前が代理人で記されていますね」
「はて、そうでしたかな。どうにも記憶が曖昧で」
「監査記録には、その時もマルコス氏が魔物討伐で留守だったと書かれています。さすがに偶然や失念がこれだけ重なるのは妙じゃないですか」
「と申されましても、ねぇ」
バローハの表情にわずかだが皮肉の色が過った。
「王都の騎士様がこのあたりの魔物を倒してくれるわけでもありませんし。地方の民は地方の民で自衛していかないと」
「では、あくまでお父様は外出中とおっしゃるのですね」
「はい、初めからご説明している通りです」
OK、分かった。どのみち円満解決など期待していなかったのだ。そっちがその気ならこちらも腹をくくろう。
ミゲルは一息ついて卓上のグラスを取り上げた。中身をあおってから視線を巡らせる。
「ところで、なかなか結構なお住まいですね、こちらは」
目でシャンデリアを示してみせる。
「ゴールの教会様式ですか、さぞかし入手に苦労されたことでしょう。維持費も随分かかっているのではないですか」
「いえ、大したことはありませんよ。知人から安く譲り受けたものです。手入れも私と家内の二人でやっておりますし」
「あちらのカーテンは」
顔を窓際に向けた。
「ディマスク織ですね。銀貨で十枚はしたんじゃないですか。敷物もなかなかの業物だ。ブラバンあたりの職人に特注で作らせないと、あの質感は出ませんよ。お召し物も綿生地に見えますが、違いますか?」
「ははは、お若いのになかなか慧眼だ。認定官殿も数寄者ですな」
媚びるような眼差しに、だがミゲルは応じなかった。用意した言葉を淡々と続ける。
「失礼ながらバローハさん。あなたの経営されている倉庫業では、これだけの調度を賄えそうにありませんが。どこから資金を調達されているんでしょう」
「な、何を、いきなり」
「まさかとは思いますが、お父様に支給されている〈勇者〉手当を流用されていませんか?」
ガタンと音を立ててバローハが立ち上がった。怒気が顔を赤く染めている。眉間に深い皺を刻んだまま見下ろしてきた。
「い、いくら認定官殿でも言ってよいことと悪いことがありますぞ! 親の金に子が手をつけるなど、失礼極まります!」
「勘違いならすみません。ただバローハさん、お宅の金の出入りは少し妙なんですよ。門外漢の僕から見ても明らかなくらい」
「はぁ? うちの商いの帳簿でも見たと言うんですか」
挑むような口調には余裕があった。まさか子飼いの使用人に裏切られるとは思っていないのだろう。実際そちらの線を洗っても何も出てこなかった。もとより〈勇者〉手当はバローハ家への支給だ。店舗の出納帳に現れるはずもない。「いえ」と首を振ると、バローハは勝ち誇った様子になった。
「そうでしょう、なら」
「ただ、別の資料があります」
鞄から書類の束を取り出す。バローハはざっと目を走らせて面食らった表情になった。
「なんですか、これは」
「見ての通り、粉ひき屋、油屋、木挽き職人がお宅と取引した記録です」
「はぁ」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔。バローハは首をひねりながら紙面をタップした。
「分かりませんな。これが一体どんな不正の証拠になるんでしょう。人間が生活している限り、パンも燃料も必ず必要になりますよ」
「生活している限り。確かにそうですね。ではうかがいます。なぜ小麦や炭、油の消費量が四年前にいきなり減っているんでしょう?」
!
動揺がバローハの顔を凍りつかせた。慌てて取り繕うが、もう遅い。生じたほころびにミゲルは言葉の槍をねじこむ。
「小麦が一カルガ、油が二アローバ、薪が八十本三十束。誤差というには大きすぎる減り方です。パーティーやまかないを控えたくらいでは到底追いつきません。それこそ、人が一人減らない限りは」
「……」
「他の店の伝票も見ますか? 綺麗に同じ時期に取引が急減していますが」
冷えた静寂が室内を満たす。
ん? ん? とディアが視線を巡らせた。急変した空気についていけないのか、団栗眼をぱちくりとさせる。
「なんですか、ミゲル様。誰かいなくなったんですか? このお屋敷から」
「ああ、多分〈勇者〉マルコス氏がね」
「ええええ?」
裏返った声が響く。立ち上がりかけた彼女をミゲルは手で押しとどめた。
「で、でもマルコスさんは魔物討伐に出かけているんですよね? 去年も、一昨年も……あれれ? 四年前?」
「だから僕らは騙されていたんだよ。いもしない〈勇者〉を審査して手当を払い続けていたわけだ。ずっと、ずっとね」
硬直するバローハに向き合う。上半身を乗り出して口調を柔らかくした。
「ねぇバローハさん、もういいでしょう? 十分お父様のご威光で稼げたんじゃないですか。今ならまだ僕の一存でことを収められますよ。四年分の受給も見逃します。ですがあくまでしらを切るつもりなら強硬手段を執るしかなくなります。洗いざらい調べられて全財産を失うことにもなりかねませんよ。そんな結末がお望みですか?」
「……」
「だいいち仮に隠し通せたとして、こんなこといつまで続けるつもりですか。お父様は四年前の時点でもう八十才だったんですよ。事故か事件か、色々考えましたが、正直寿命で亡くなったというのが一番しっくり来ます。五年後、六年後、九十近い老体をまだ魔物討伐に向かわせる気ですか? さすがに村の人もおかしいと思うはずですよ」
バローハの顔は真っ青だった。それでも必死に平静を装い唇を歪める。かすれ声が喉の奥から漏れた。
「言いがかりだ……なんの証拠もない」
「証拠」
溜息をついて鞄を漁る。最後の書類を机上に出した。そこには場所を示す文字と日付、氏名が並べられていた。
「村営墓地の埋葬記録です。四年前にいくつか無縁仏が出ていますね。一応旅人の墓と銘打たれていますが、これらを暴いて何が出てくるか確かめてみますか? ああ、もちろん証拠が出そろったあとに情状酌量を申し出ても受けつけませんから、よく考えてみてください。この場で認定辞退書類にサインするか、それとも一緒に村営墓地に行くか、二つに一つです。さぁ、ご決断を。残り三十秒」