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「で、話って何?」
シルヴィが彼の背中に用件を尋ねると、
「……振り返っても大丈夫か?」
とニコラスが控えめにシルヴィに問うた。
彼と向き合うのはどこか怖かったが、拒否するわけにもいかず、シルヴィはしぶしぶ
「どうぞ」
と答えた。
本当は彼と顔を合わせることも、目を合わせることも怖くてたまらなかった。これ以上彼に自分の弱い部分や未熟な部分を見せたくはなかった。
けれど実際には弱くて未熟な自分は、彼との対峙によって泣いてしまうかもしれない。我を忘れて叫んでしまうかもしれない。
それでも、自分が逃げ腰になっていることを彼に悟られたくはなかったから、シルヴィは精一杯虚勢を張った。胸を張り、背筋を伸ばし、話があると言ったくせに黙ってしまったニコラスを睨むように見上げながら
「それで?」
と彼の言う話とやらをするよう催促した。
「……何で最近士官学校のほうに顔を出さないんだ?」
強がろうとしたばかりなのに、シルヴィの勢いはしぼんでしまった風船のように削がれた。
「何でって……。特に理由は……」
シルヴィはとっさに言葉を濁したが、もちろんはっきりした理由があった。ニコラスと顔を合わせるのが気まずかったからだ。
言わなくても分かるでしょ!? とか、察してよ!! といった言葉がシルヴィののどから出かかった瞬間、ニコラスがどこか拗ねたような口調で
「ローゲには来るのに」
と付け加えた。
彼はペリーナの家で開かれたパーティーのことを言っているのだ。そう悟ったシルヴィは、勢いよく顔を上げた。
「あれはっ!!」
ニコラスが自分を責めるような、ひどく傷ついたような顔をしていたから、シルヴィは何だかいたたまれなくなって、うつむくしかなかった。
「ただ単に友達に呼ばれただけよ……」
シルヴィはぼそっと釈明した。
それっきり彼は黙ってしまった。
自分からは何を言えばいいのか分からなかったし、顔を上げるのも彼と目が合うのも怖かったから、シルヴィはそのまま固まってしまった。
「………………………………………」
「………………………………………」
続く沈黙が気まずくてたまらない。
何だかニコラスの視線を感じる気がする。
しかしシルヴィは何となく顔を上げることができなかった。
彼が自分と何を話したいのか全く読めなかったし、相変わらず彼は黙ったままだったから、シルヴィはこの居心地の悪い時間がとにかく早く終わるよう、それだけを願った。
すると突然ニコラスが口を開いたので、シルヴィは驚きもあって、びくっと震えてしまった。
「いろいろ心配するだろうが、いきなり姿を見せなくなったら。体調でも悪いのか、とか………」
あんなことを訊いてしまったのに、どんな顔をしてあなたに会えるっていうの!?
シルヴィはそう反論したかったが、ぐっとこらえた。
今は何よりもまずこのいたたまれない時間と空間から逃れたい。
彼の言う『真剣な話』とは、自分に対する文句や愚痴なのかもしれない。
確かに、自分のほうから彼に剣の相手をするように頼み込んだのに、シルヴィは逃げてしまった。それはやはりよくなかった。
だから彼女は、素直に自分の非を認めることにした。
「…………………悪かったわ」
一度謝ってから、今度は明るめの声を必死に出して、
「その……前に変なことを言っちゃったから気まずかったの。ごめんなさい」
とシルヴィは続けた。
「……………………」
シルヴィが勇気を出して謝罪したのに、ニコラスは何も言ってくれなかった。よほど自分に対して怒っているのだろうか。
再び訪れた沈黙にシルヴィは顔を上げることができず、冷や汗をかきながらも何とか
「……で、話って、それだけ?」
と絞り出した。
彼の反応をうかがおうとゆっくり視線を上げたが、困惑顔のニコラスと目が合うと、シルヴィは反射的にうつむくことで目をそらした。
「え!? あ……、いや……」
シルヴィは彼が自分に不満をぶつけ、そして自分が謝ったことで、彼の気が晴れたことを願った。もし不満がまだくすぶっているのなら、さっさとそれを明らかにし、心いくまで責めてほしいと思った。彼と自分の間に存在する問題を早く清算してしまいたかった。
「わざわざ文句を言うためにナルフィまで来たの?」
シルヴィはわざとおどけた口調で言いながら改めてニコラスに背を向けた。
彼に顔を見られなくてすむという安心感からだろうか、強がりたくて、自然と口が動く。
ひどい人。
そう言ってやりたかったのに、今にも込み上げそうな嗚咽をこらえるので精一杯で、幸か不幸か声にはならなかった。
一瞬後でシルヴィは思った。
ううん、ひどいのは私。
弱いのも、愚かなのも、私。
責められるべきは私自身なのに、彼を責めてしまうなんて、彼を責めたいと思ってしまうなんて、私はやっぱり弱くて子供じみているわね……。
そんな自分だから、彼の前から消えたかった。こんな自分は他の女性に嫉妬する資格も、彼の前に立つ資格もないと思った。
シルヴィは胸元でマントを押さえていた両手から力を抜いた。
ばさりと音を立ててマントがずり落ち、シルヴィは再び水の中に入ろうと足を踏み出した。
彼の視界から消えたい。
水の中で思いっきり泣きたい。
そして、心置きなく叫びたい。
涙も嗚咽も水が洗い流してくれるだろうから。水の中で叫べば、誰にも聞こえないだろうから。
おとぎ話の人魚姫のように、泡となって消えることができたらどんなにいいだろう。
ところが、入水の衝撃を覚悟したシルヴィの視界がぐらりと揺れた。
ニコラスに手首をつかまれたことを認識すると同時に強い力で引っ張られ、気づいたらシルヴィは彼に背後からきつく抱きしめられていた。




