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ラザールがローゲから戻ってくると知らされていた日、シルヴィは供もつけずにたった一人で遠乗りに出かけた。
兄が帰ってきてくれるのはもちろん嬉しいけれど、それと同じくらい憂鬱だ。
ラザールにしてみれば、このままではシルヴィが独身を貫くことになってしまうかもしれない、と本気で妹を心配しているのだが、だからこそシルヴィの今の剣の稽古中心の生活に文句を言うに違いない。
ラザールの帰省中は、多かれ少なかれシルヴィの生活は窮屈なものになるだろう。
だから彼女はその前にまとめて自由な時間を満喫したかったのだ。
私は結婚できないんじゃないの、しないのよ!!
好きで、自分の意志で、独身を貫くんだから!!
兄にあれこれ言われた時の反論を考えつつ、彼女は馬を駆った。
シルヴィは目当ての場所に到着し、馬から下りて手綱を木に繋いだ。
ここは去年の12月にラザール、ニコラス、アデライードと一緒に来た、シルヴィお気に入りの池だ。
シルヴィはマントや服を脱ぎ捨て、ビスチェと下着だけの姿になってからさっそく水の中に入った。
最近暑くなってきたので、澄んだ冷たい水の感覚が気持ちいい。
シルヴィは泳いだりもぐったり、自分の思うままに水遊びに興じた。
少しだけ冷たい水は心地よく、透明な水質は見ているだけで清々しい気持ちにさせてくれる。
シルヴィは水遊びに飽きると、体は水に浸したままで顔と腕だけを水面から出し、岸にひじをのせて頬杖をついた。
泳ぎ疲れて少しだるい体を休めるためにも、そのままの姿勢で瞳を閉じた。降り注ぐ初夏の日光は温かく、顔や首筋に感じるそよ風が心地いい。
ああ……、兄上は今頃城に着いたかしら?
いろいろと口うるさく言ってくるに決まっているわ……。
兄のことは好きだけれど、あれこれ言われるのは煩わしい。シルヴィは兄の小言を想像し、陰鬱な気持ちになった。
シルヴィは一度目を開けた。視界に入るのは、傷やあざだらけの自分の両腕だ。
淑女とはほど遠い、むしろ対極にある自分の腕。
剣に全てを捧げている誇りと、女を捨ててしまった自分への自嘲が混じり合い、シルヴィは現実から逃げるようにもう一度瞳を閉じた。
ううん、これでいいんだわ。
剣は私が選んだ道だもの。
後悔はしないわ。
シルヴィは一つ息を吐いた。
そのまま自分を落ち着けようと精神統一していると、ふいに足音が聞こえてきて、シルヴィははっと目を開けた。
自分に一歩ずつ近付いてくる誰かの足が見えた。シルヴィは視線を上に向け、その人物がニコラスであることを認識した瞬間、あまりの驚きに息を呑んだ。
きっと兄と一緒にここナルフィに来たのだろうということはすぐに推測できたが、彼がそうするとはこれっぽっちも思っていなかった。
士官学校がある帝都ローゲから彼の祖国スコル王国に行くには、ナルフィに寄るのは遠回りだし、第一、自分が中途半端に想いを告げてしまい、その後で会ったペリーナの家でのパーティーでは気まずかったから、彼がナルフィに来るなんてあり得ないと思い込んでいた。
「ニコラス………王子」
シルヴィは反射的に彼から逃げたくなって、両腕を思いっきり伸ばすと同時に両方の掌で地面と池の境目を押した。
けれど焦った彼女は、次にどうするべきか思いつかなかった。このまま水中に全身を沈めて、泳いで対岸へ行くべきか。とりあえず彼に背を向けるべきか。
情けないことに、陸に上がって彼と対面するという選択肢は少しも思い浮かばなかった。逃げることしか頭になかった。彼に合わせる顔なんて持ち合わせていなかった。
だらだらと冷や汗を流しながら固まってしまったシルヴィに、ニコラスは
「馬鹿かっ!! 何て格好してるんだ!?」
と叫んだ。彼は慌ててシルヴィに背を向けたので、我に返ったシルヴィはほっとすると同時に、非難されてむっとした。
「別に裸で泳いでるわけじゃないわ」
そうよ、彼に文句を言われる筋合いはないわ!
心の中で自分を鼓舞しながら、シルヴィは口を尖らせた。
そう言ってはみたものの、次に何を言えばいいか分からなかった上に、ニコラスも何も言わなかったため、少しの間静寂が訪れた。
気まずい沈黙を先に破ったのは、ニコラスだった。
「とにかく!! 話があるから水から上がってくれ!!」
シルヴィは彼が会話の糸口を作ってくれたことに対して安堵したが、自分に命令するような口調は気に入らなかった。
彼女は無意識のうちに自分を守るように腕組みし、
「話ならこのままでもいいでしょ?」
と返した。
シルヴィは彼の指示に従う気はなかったが、
「真剣な話なんだ」
と言われたため、大きく息を吐き出した。
「………分かったわよ」
シルヴィはしぶしぶ水から上がった。
一体何の話かしら。
彼の気持ちは私だってもう知っているのに……。
自分が好きなのはエルヴィーネ姫だから私の気持ちには応えられない、とでもわざわざ教えて下さるつもりなのかしら……。
何て親切でお優しい人……!!
半ば自暴自棄になりながら、皮肉たっぷりにシルヴィは心の中で嫌味を言った。自分がひねくれているのは分かっていたが、そうでもしないと彼と対峙することなどできなかったのだ。
これから死刑を執行をされる罪人って、こんな気持ちなのかしらね……。
シルヴィはこれから自分の身に起きるであろうことを想像し、自嘲した。
そんな自分の前に白い布が差し出された。ニコラスが自分に背を向けたまま、腕を伸ばしている。どうやらこれは彼のマントで、これを着ろということらしい。
「必要ないわ。自分のがあるもの」
シルヴィは突き出されたニコラスのマントを受け取らなかった。
代わりに地面に置いておいた自分のマントに手を伸ばし、それを体に巻きつけた。




