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翌日の午後、シルヴィは士官学校の裏山に行った。


二人はいつもどおり剣をぶつけ合ったが、シルヴィの体にはなぜだか力が入らず、彼女はあっさりと負けてしまった。シルヴィにとっても不可解なことに、いつものような悔しささえ湧き上がってこない。


私は一体どうしてしまったんだろう……?


シルヴィは自分の掌とニコラスに弾かれた剣を交互に見比べた。


彼女が本調子ではないことをニコラスもすぐに悟ったらしく、彼は


「やっぱり体調が悪いんじゃないか?」


と心配そうにシルヴィの顔を覗き込んだ。


ニコラスはいつも二人で隣り合って腰かける木の切り株にシルヴィを座らせ、彼のほうはシルヴィの前に立ったまま、話題を変えるためなのだろうか、


「シルヴィ、お前もこれまでいくつかのパーティーに顔を出しただろう? 気になる男はいないのか?」


と尋ねた。


ああ……、この人は何て残酷なんだろう……。


よりにもよって、あなたが、私に、他の男のことを訊くなんて……!!


自分がニコラスの恋愛対象に入るとは思っていない。期待もしていない。


けれど、改めてその事実を彼のほうから突きつけられたから、シルヴィの鼻の奥がつんとした。その感覚から注意をそらすために、シルヴィはごくりと唾を飲み込んだ。


自分を落ち着かせるためにも、シルヴィは慌てて自身に言い聞かせる。


ううん、仕方ないわ……。彼は私の気持ちを知らないんだから……。


悪気があってこんなことを訊いてくるわけではないのだろうから……。


でも、どうしようもなく悲しくて、シルヴィは泣きたくなった。まるで誰かに首を絞められているみたいに呼吸がうまくできなくて、息をするのも苦しかった。


それでも、彼の前で泣くわけにはいかない。彼に自分の気持ちを知られるわけにはいかない。


「………………特には」


シルヴィはのろのろと顔を上げ、ゆっくりとそう答えた。


「そうか」


ニコラスも興味なさそうにそう言っただけだった。


だったらなぜそんなことをわざわざ質問したのだろう。それっきり彼が黙ってしまったこともあり、沈黙に耐えられなかったこともあって、シルヴィは


「………何でそんなこと訊くの?」


と問うた。


ニコラスは目を細めて笑いながら、シルヴィをからかうように


「ラザールが心配していたからさ。シルヴィの嫁のもらい手がないんじゃないかって」


と答えた。


シルヴィは不機嫌をあらわにし、頬を膨らませて腕を組んだ。


「兄上ったら、ちょっと自分が婚約してるからって、大きい顔をして!! でも、国や家に決められた婚約者がいなかったら、堅物で石頭のあの兄上を好きになってくれる女の子なんて、いないんじゃないかしら!?」


口を尖らせたシルヴィに同調するように、ニコラスは声を出して笑った。


「はははっ、違いないな」


少年のような幼さを残して笑うニコラスを見て、シルヴィの胸が締めつけられる。


彼はどうなんだろう。心惹かれる女性がいるのだろうか。


一度そんな質問が思い浮かぶと、シルヴィは無性にニコラスに訊きたくなった。


彼女は一生懸命平静を装って、


「で、ニコラス、あなたはどうなの?」


と尋ねた。


「え?」


立ったままのニコラスは、切り株に腰かけているシルヴィを見下ろした。


シルヴィはできるだけ普段どおりの口調を心がけつつ、もう一度質問した。


「あなたは好きな女性はいないの? あなた、そこそこもてるじゃない」


訊きながら、シルヴィの心臓のばくばくという音はうるさいくらい彼女の体中に響き渡った。


「そこそこじゃなくて、大人気の間違いだろう?」


確かにそうだ。シルヴィの目から見ても彼は非常に人気があった。


しかし、口調はなるべく素っ気なく聞こえるようにはしたものの、シルヴィとしては真剣に尋ねたのだ。


茶化すような彼の返事に、彼女は顔をしかめた。


そんなシルヴィには気づかず、ニコラスは微笑を浮かべながらもどこか遠くを見るような虚ろな目で呟くように答える。


「俺は……あんまりそういうことを考えないようにしている」


急にまとう雰囲気を変えたニコラスに、シルヴィはなぜだか少し戸惑ってしまう。


「そういうことって……?」


「誰が好きとか、誰がいいとか、そういうことだよ」


「……どうして?」


「俺の場合は……。知っているだろう? 俺の祖国のスコル王国は、北のディオネ王国と50年にも渡る緊張状態にある。そんな国に娘を嫁がせたい者なんていないだろうし、スコルの国力を考えたら、贅沢なんてさせてやれないしな。俺は跡取りじゃないから結婚する必要もないし、結婚するんだったら国が決めた相手とすることになるだろう。だから、俺がどんな人を好きになろうが関係ない。だったらそういうことをあまり考えたくないんだ」


彼の笑顔はどこか悲しげで、どこか寂しそうだった。


彼が言うスコル王国の事情は、シルヴィも知っていた。スコル王国はディオネ王国と非常に仲が悪く、今でも一年に最低でも一度、多い時には二、三度、国境付近で小競り合いが勃発しているほどだ。


「そう……」


彼の言っていることはシルヴィにも理解できた。


シルヴィも大公女というその立場から、好きでもない男のもとに無理矢理嫁がされる可能性がある。父や兄がそうするとは思えないし思いたくもないけれど、父や兄より身分が上の人間、すなわちこの国を治める皇帝アルフォンス四世に命じられれば、シルヴィは従わなければならない。


その時に恋を知ってしまっていたならば、心から愛する恋人がいたならば、どれほどつらいだろう。その人を想っているのに別の人と結婚しなければならないなんて。


自分が今まさにそのような状況に置かれているからこそ、シルヴィはニコラスの心情を理解した。


それを考えると、確かに彼の言うとおり、恋など知らないほうが幸せなのかもしれない。恋人などいないほうがいいのかもしれない。だって、自分は今、こんなにつらいのだから。こんなに苦しいのだから。


自分の想いが届かないことだけでも悲しいのに、好きでもない他の誰かと結婚しなければならないのだとしたら、地獄へ落ちるほうがましなのかもしれない。


スコル王国の王子である彼がもし妻を迎えるのなら、彼の横に立つのは一体どんな女性なのだろう。


それが自分であってほしいというささやかな願望と、現実を考えるとそうはならないだろうと諦めかけている絶望にシルヴィは揺さぶられた。


彼が誰かと結婚することなんて想像したくないのに、しかしシルヴィの脳は主人の思いどおりに動いてはくれなかった。


彼は一体どんな女性と結婚するのだろう。本当に自分がその女性になる可能性はないのだろうか。一体どんな女性なら彼の隣に立つことができるのだろう。


シルヴィは知りたくてたまらなくなり、衝動を抑えることができず、思わず尋ねてしまった。


「あなたがもし結婚するなら、相手はどんな女性なの?」


「少なくともティティスの令嬢はあり得ないな」


考える間もなくはっきりと言い切ったニコラスに、シルヴィは衝撃を受けた。彼女も一応『ティティスの令嬢』の中に含まれているからだ。


「……どうして?」


「典型的ティティス人女性は何もできなくて甘やかされたお嬢様だからさ。そんなお嬢様には戦いが身近なスコルでの生活は耐えられないだろう」


ニコラスの返事を聞いて、典型的なティティスの貴族令嬢ではないシルヴィは少しだけほっとした。


「そっか」


安堵の息をもらすと、シルヴィは再び知りたくていても立ってもいられないような衝動に駆られた。


典型的ティティス人女性ではない自分には、少しは可能性があるのだろうか。


「……じゃあ、私は?」


気づいたら、問いが口から出てしまっていた。


一瞬後に我に返り、シルヴィはニコラスの反応をうかがった。


彼の反応が怖い。


でも、知りたい。


心臓が痛いほどどくんどくんと飛び跳ねている。体中が緊張して小刻みに震え、じっとりと汗ばんでいるのをシルヴィは自覚した。


ニコラスはシルヴィの質問の意味が分からないのか、ぽかんと口を開けた。


「……え?」


シルヴィは腹をくくった。


もう質問してしまったのだ。時間を過去に戻すことも、自分が発した言葉をなかったことにすることもできない。


だからシルヴィは震えながら、もう一度尋ねた。彼と合わせた視線を外したくて仕方なかったが、自分を叱咤してこらえ、まっすぐな視線をぶつけた。


「私だったら、どう?」


「は……?」


ニコラスは引き続きぽかんと口を開けたまま、石のように固まっている。彼の表情には驚きしか存在していなかった。


ニコラスはただただ驚いている。戸惑いや困惑といった他の感情は全く見当たらなかった。


そんなニコラスの反応に、シルヴィは悟った、自分がいかに彼に女として見られていないのかを。


女として見ていないシルヴィに突然こんなことを言われたから、だからニコラスはこんなに驚いているのだろう。


シルヴィの体中から血の気が引いていく。


わずかな期待を捨てきれず、その期待にすがりつき、その結果、自分はとんでもない間違いを犯してしまったのだ。


シルヴィは急に自分が恥ずかしくなり、何とかのどの奥から


「変なことを言ってごめんなさい……。私、帰るわ……」


とだけ絞り出し、慌てて立ち上がった。


彼女は驚いて呆けたままのニコラスを一人残し、近くに繋いでおいた愛馬に飛び乗り、急いでその場から走り去った。


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