プロローグ
天井に取り付けてあるデジタル時計を見ると出発してから一時間は経っている。朝早くから家を発ち、車の緩やかな振動とスピーカーから流れてくる静かな音楽が眠気を誘う。目的地に着くまではまだ時間があるので、気は進まないが肉体的欲求を満たすことにし、運転席にいる親父と助手席に座っている親友に寝る事を伝えた。眼鏡を外し胸ポケットに入れて、腕を組み窓枠に頭を乗せた。シートベルトに括り付けられた窮屈な状態の中から可能な限り安眠が出来る姿勢をとる。すると体がそれを待ち望んでいたかのように頭と瞼を重くし、その誘惑に身を任せ、周りの音さえも曖昧になり、誰かが何かを言った気がしたがそれもわからなくなっていった。そして夢を見ない夢を夢見ていた。
リアマの山裾に深い霧が立ち込めている。そこはとても深い森だった。そこで少女は一人、森に生えている山草を摘み、手に持った籠の中に一つ一つ丁寧に入れていった。息を吐くと息はまだ白く、春が冬を追い越せていないと思った。外套を羽織り、フードを頭から被っていたが、わずかに露出している顔や首、そして手に湿気を僅かに含んだ冷気がさらに身を凍えさせ身震いした。少女は時々強い空腹感を覚えたが、冷え切った手で腹部をさすり、少しでも空腹からくる痛みが少しでも無くなるようにと願った。彼女は昨夜から何も口にしてはいなかった。森に来て、どれだけの時間がたったのかさえ分からなかった。
冷たい夜の中に温かい朝が追いかけてきた。太陽に照らされた霞が木の葉の上で朝露に変わり、露は滴となって大地に落ち、行き場を求めるかのように地面に空いた穴へと注がれてゆく。ときおり森が新鮮な空気を求め、息を吸い込むように、風が木々の間を駆け抜け、森に残っていた霧を掻き消し、露を振り落としてゆく。その様子はまるで森というよりも一つの生き物、一匹の動物のようだった。
少女の後ろで苔を踏みしめ、水溜りに足を入れる音が聞こえ、振り返ると髭を生やし、ボロを着た男が剣を持ってそこに立っていた。
感謝祭の少し前のことだった。
夢を見た、その夢は俺にとっては最も馴染み深い夢であり、そして何より最も遠ざけておきたい夢でもあった。例えるならそれは何十回、何百回も読んで表紙が薄汚れた本であり、それは何回も観すぎてテープが擦り切れそうになっているビデオのようなもの。また例えるなら一度読み、観て怖かったから自分の目の届かない場所に置いてある本やビデオのようなもの。そしてたまたま誰かがそれに目を付け、それを誰かが見ている時にたまたまそこに通りがかり一緒に見て散々堪能した挙句にまた後悔をしてしまう、そんな夢。夢の内容はごく簡単、転んで、落ちた。ただそれだけ、しかしそれは今の自分を形作っているから切っても離せない、忘れた頃にやってくる、そんな夢。
目を覚まし、目を開くと辺りはまだ暗く、酷く肌寒い、そしてとても不機嫌だった。見たくもない夢を見た時にはいつもこうなってしまう。直そうとは思ってはいるが治らない、またそんな自分に対して腹が立ちまた不機嫌になってしまう。
辺りを見回してみると何かがおかしかった、しかしその疑問はすぐに晴れた。どうやら乗って来た車が横転してしまったらしい。目の前には寝る前まで眺めていた天井が目の前にあり、俺は浮いているのか、という下らない考えを持ったが、どうやら今の俺はあまり冷静でないこともわかった。
すると、草を踏む静かな足音が聞こえ、反転した窓から緋田蒼馬が顔を覗かせて、俺の頬を叩いてこう言ってきた。
「おーい、死んでるか?」
俺の顔を見に来た楽天的な顔とその言い草、そして何より目を開けそちらを向いているにもかかわらずそのふざけた態度に腹が立った。
本当に、寝起きは機嫌が悪くて嫌になる。
「生きてるよ……そんなことよりも早く出してもらえるか?」
「ごめんな、出すよ」
「だったら早くしてくれ。それよりも俺の椅子は大丈夫か?」
「見たところ大丈夫みたいだけどな、たぶん」
「本当か?壊れてるとかは嫌だぞ」
「本当だって、俺が信じられないのか?」
「わかった、信じてるぞ」
蒼馬が車のドアを開け、手早くシートベルトを外し、天井へと落ちそうになる俺の体を支えゆっくりと下に下した。
そうして蒼馬のなすがままに引きずり出している間に逆さまになっている後部座席を見たが有体に言えばひどい有様だった。食料品の一部や衣類そして弾薬類等々、それらが見るも無残に散乱していた。
私は逃げている。怖い顔をした男の人から。
最近では税がいよいよ高くなり明日の食べ物さえ危うくなってきた。それでも感謝祭だけはみんなで祝おうと彼女もこうしてこの森に来た……いや、来させられた。
彼女を追いかけている男は彼女と同じようにここに来させられたのだろうか、と彼女は思った。しかし彼女にはそんなことを考えている暇はなかった。足は何度ももつれそうになり、喉は空気を求め掠れた音を出し、額からは大粒の汗を流し、寒さを耐える為のフードは風でめくれ、彼女を彼女として足らしめている黒髪が宙に踊り、胸は張り裂けんばかりに早鐘を打っていた
必死に走っているのに頭は色々な事を考えてしまっていた。それは何時も良くしてくれているセフィやマヤの事、或いは物心ついた時にはすでにいなかった父母の事、また或いはこの森に来るように強制した村の皆。すると彼女の頭の中で何かが繋がった気がした。彼女は口減らしのためにこの森に来させられたのだ、と。
彼女は走った、ただ「生きる」、それだけのために。
彼女の手にはすでに山草を摘み取っていた籠は無く、いつ落としたのかも、いつ振り捨てたのかさえも覚えてはいなかった。
夜の終わりの空気を吐き出し、朝の始まりの空気を吸い込み彼女は唸る様に呟いた。
「生きる」と。
蒼馬から車の中から引きずり出してもらい、折り畳まれた椅子を開きそこに座った。おそらく第三者から見れば、大変な事故があったにも関わらず呑気にくつろいでいるおかしな連中にしか見えないだろうと考えていた。
「ほんじゃあ、俺はそこらへんを片づけとくからさ、そこで休んどいてくれ」
まだ少し呆然としている俺の横で蒼馬がハンチング帽を被り、車の中から取り出してきたであろうランプに火を灯した。ランプの灯が視覚的にも肉体的にも温かかった。
蒼馬がせっせとあちこちに散らばっている物を集め、元の場所にまとめていく様を見て非常に申し訳なく思った。
蒼馬は昔からお節介焼きで俺のことを色々と面倒を見てくれていた。そしてどこに行くにも何もするにも一緒でそんなこんなを続けていたら十数年も経った。だから親友を通り越して腐れ縁だと俺は思っている。
ふと、ある疑問が鎌首をもたげた。
「なあ蒼馬、何があったんだ?それから親父はどうした?」
「ん?あの後俺もすぐ寝からよくわかんねぇ。それからあの人な、俺が起きた時にはどこにもいなかったぞ」
「……は?」と、思わず口からそんな間抜けな言葉が飛び出した。
蒼馬の話を聞き頭が真っ白になり、何を考えたのか横転した時に窓を突き破り飛び出してしまったのだと思い、窓ガラスを確認したが割れてはいなかったので本当にどこかに行ってしまったのだと理解した。前々からよくわからない人だと思っていたが本当にわからない。
また改めて考えると妙だった。車は横転しているが周りを見ても木は鬱蒼と生い茂りおおよそ車が入り込める余地など在りそうにもない。それに峠道を走っていた筈なのに山が見当たらず、車のバンパーも確認したが何かにぶつかった痕は見られるがそれ以外の傷が殆んど無かった。
空を見上げると、空の端が朱に燃え朝が近い事を予感させた。
蒼馬に目を向けるとちょうどカレー用のジャガイモを片づけ終わり、車から放り出された物があらかた片付け終わったように見えたので声をかけた。
「悪いけど……蒼馬、ちょっとここら辺の探索をしたいんだが、いいか?」
「まぁ別にいいけど、どうかした?」
「いや……俺達って今どこにいるんだ?」
「それはえらく……哲学的だな」
眼鏡を直そうとし目元に手を当てたがその時になって初めて眼鏡を掛けていないことに気がついた。胸ポケットを探ると入れてあるはずの眼鏡がなく、車内に落としたのだと思い面倒だが無いと不便なので取りに戻った。
車に入ると天井に這いつくばりながら眼鏡を探すとあっさり見つかった。眼鏡を掛け、後部座席に目を向けた。荒れ放題になっている荷物の中から目当ての物を見つけ、ジュラルミンで出来た約140㎝もあるケースを引っ張り出し、四苦八苦しながら椅子に戻った。膝の上にケースを置き、四桁あるダイヤル錠の数字を合わせ、蓋を開くとそこにはライフルが入れられていた。
木々の切れ間から朝の光が入り、森がもうすぐ終わる事を予感させた。逃げ切れるかもしれない、彼女は期待をした。助かるかもしれない、彼女は希望を持った。しかし森を抜けた彼女の眼前に広がったのは森の中腹に広がる平原だった。
彼女が平原を見るとそこはただ何も無く、平原の先にまた森が口を開き、下草が彼女を噛み砕く巨大な獣の歯にも見え、そこに何かを見たような気がした。
今の彼女にとってはその距離は無限に等しく、彼女を絶望させるには十分過ぎた。
彼女は知っていた、この森に入った人間は帰ることが出来ないということを。彼女は知らなかった、自分はもう家に帰れないということを。
そして、彼女が後ろを振り返ると、何時の間にか男が彼女の後ろに立ち、手に持っていた剣を振り上げていた。
すると彼女は腰が抜け、その場に座り込んでしまった。
彼女の目に映ったのは、彼女を殺そうとする悪意に満ちた、朝の日を受けて光輝く剣だった。
ケースに入っていたライフルを取り出し、腰に弾帯を装着し、念のため銃に弾を装填した。そして今は蒼馬と二人で森の中を探索していた。自分が一人では何もできないと考えると酷く憂鬱な気分になるので、ただ手に持っている銃に思いをはせた。
銃の正式名称はRifle, Caliber .30, M1という銃で、愛称はM1ガーランド。1936年に作られたライフルだ。そこにさらにスコープを取り付け、狙撃銃へと改造されたM1Dというモデルになる。
この銃は先の大戦で祖父が持ち帰ったと聞いていたが、俺にとってはそんな事はどうでもよかった。
俺はこの銃をとても気に入っていて、深く愛情を注いでいた。それは内部構造や外見の変化という形で表れていた。例えば撃針をチタン製の物に交換し、全ての部品を一つ一つ丁寧に磨き――それで引き金を引いてから発射までの時間を限りなくゼロに近くした――銃床に本来使われていた淡い茶色の木製ストックは黒クルミの木材に交換し、合成樹脂では出せない木材ならではの味わいが出ている。スコープは当時の物と似たスマートで尚且つ最大倍率三十六倍の物を取り付けていた。また所持するに至っては法的に色々と問題があったので、違法ながら猟銃と誤魔化して申請していた。
それにはおよそ考えられる全ての知識と技術を尽くしモノで、今現在最も愛していると言っても過言ではなかった。
そして今日、俺の曾祖父――なんと、大正初期から現在まで生きている――名義で持っている山に害獣駆除という名目でこの銃の試射をしに山まで向かっている最中だったのだ。
しばらく蒼馬と移動していると森が開け、平原が広がっていた。
するとその先に何かが見えたので、銃を取って構えた。九倍率に調整しているスコープのレンズ越しに見えたのは髪の長い少女に剣を振り上げている男の姿だった。
思わず引き金に指を掛け、引き金を引いたが安全装置を掛けている事を思い出し、人差し指を引き金から離すと、そのまま指を前に出して安全装置を解除した。
頭の半分がどうして俺は銃を撃とうとしているのだろうか、という疑問を出したが、もう半分はただただ冷静に、銃を撃つための準備をしていた。風は微風、距離を測り、記憶の中から弾道特性表を思い出し、息を吸い込み半分吐き出した。
「撃つな!」と声が聞こえ、とうとう良心の声が聞こえたのかと思い、無視して撃つことだけに専念することにした。
スコープの中では少女が後ろを振り向き、腰が抜けたのだろうかその場に座り込んでしまっていた。
指を引き金に掛け、遊びを無くし、ゆっくりと引き金を絞った。
男の振り上げていた剣は朝日に照らされて、ついその剣をひどく美しいと思ってしまった。
ガラスを割るような感触の一瞬の後に十分の二秒もの時間をかけて弾が檻から放たれた猟犬のごとく飛び出していった。
銃声が辺りに響き渡り、恐らく木の上で寝ていたのであろう鳥たちは一斉に飛び立ち、辺りを賑かにした。耳の奥でじんとした痛みが走り、頭の中で飛行機が飛んでいる。そして硝煙の匂いが漂っていた。弾は定められた場所を走り、決められた地点へと到達し見事役目を果たした。
スコープ越しに男の結末も確認できた。
発射された弾は男の顎を砕き脊髄を巻き込み、そして首を貫通し何処の彼方へと消えていった。先程まで殺意を全身に漲らせていた男は一瞬で命を絶たれ、血しぶきを巻き上げながら振り上げた剣とともに後へと倒れていった。
銃の安全装置を掛け、銃は弾が一発無くなった事を除き元の状態へと戻し、地面に落ちた薬莢を探そうとした、すると不意に横っ面を殴られた。殴られた方向を向くと蒼馬が激しい剣幕で俺を怒鳴り立てていた。耳鳴りで声があまり聞こえなかったが何を言っているのかはわかった。
「どうして撃ったんだ」と、そう叫んでいた。
彼女は自らに振り降ろされる剣を見つめていた、だが突如鞭を叩くような音が聞こえた。その一瞬後に目の前の男の体から奇妙な音が聞こえ、男は振り上げた剣に引っ張られるようにして後ろに倒れていった。男を見ると下顎が半分失い、舌がだらしなくはみ出していた。
男の殺意に満ちた目は光を失い、さっきまでの姿とは違い醜い骸をその場に横たえ虫たちのご馳走へと変化していた。
顔や服に熱いものが降り注いできた。自らの頬をなで手を見ると、男の体から撒き散らされた血がその手に付いていた。
男の持っていた剣に目をやると、それは数日前にセフィが父親の形見と言い、そして無くしてしまったと泣いていた白い刀身の剣だった。
血は滾々と流れ続け血だまりを作り、その場に座り込んでいる彼女の服をそして剣を赤く汚していった。
彼女は自分の胸に手を当て、胸の鼓動を確かめていた。それは自分がここにいることを確認するかのように。
そうしていると彼女が背にしていた平原から微かに草を踏みしめる音が聞こえてきた。そしてそれは徐々に彼女に近づき、彼女は後ろを振り返った。
彼女が見たのは奇妙な二人組だった。一人は頭に可笑しな帽子を被り、そしてもう一人は手に長い棒を持ち椅子に座り移動している男だった。
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