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女形の姫様転生記  作者: 新島 隆治
9/49

側仕えたちの到着

ちょっとだけ時間が取れたので追加更新。

 飛鳥が料理漬けにされていた日々から解放されておよそ半月――二十日が過ぎた。

 現在は自由になる時間が出来たこともあって、厨房でダニエたちに料理を教えたり、石鹸作りで油の種類や配合を試したり、ブラシやタオルっぽいものを提案したりと、身の回りの道具を揃えることを中心に動いている。

 鏡作りは時折助言を与える程度で直接関わっておらず、団の男性魔術師や女性魔術師が週に一、二度、交代で製作を担当しているらしい。


 団に所属している魔術師や錬金術師へ指導する回数も、半月に二回くらいだが、かなり高額の報酬付きで組まれることになった。魔法王国の直系王族が教える対価としては安いくらいなのが申し訳ない、と団長は(こぼ)していたが。


 この講義には薬師と文官の一部も団長から参加を許されている。

 とはいえ、基本的に魔術師は師匠について習ったか、王都の魔術学院などで基礎を習っているため、ゼロから教えることは少ない。

 飛鳥自身、魔法関連で知っているのはアスカ姫として得ている知識だけで、それを説明の際に流用しているだけだ。


 この世界の魔術師たちと決定的に違う部分があるとすれば、飛鳥が暮らしていた世界で知られている自然現象の仕組みなど、根本的な部分への理解度の差だろう。

 燃焼の仕組み、気圧と気流、気体・液体・固体の状態変化、地球とは構造が違うだろうが義務教育を少し超えた程度までの地学的な知識と、物理で習う力学、電気・磁気、電子を始めとする素粒子や時間の概念。

 ニュースで流れる情報や中学生の教科書レベルの知識でも、この世界での魔術に活かせるものは多い。

 それに加えて、コンピューターゲームや娯楽小説で描かれたり、映画やアニメなどで見た「魔法のイメージ」も大きな影響を与えていた。


 錬金術も同様に、化学や物理といった学問を義務教育の少し先まで習っていた経験が生きている。学園での成績は中の上くらいとそれほど飛び抜けていた訳ではないが、興味のある分野は比較的覚えていたし、アスカ姫として目覚めてから忘れないうちに記録しておくため板を分けてもらって、リハビリの合間などを使って早々に書き出した知識もあった。


 もちろん、この世界独自の技術である魔術や、地球で(おこ)った錬金術とは別の体系らしい錬金術とでは、出来ることがかなり違ってくる。物理法則を無視した反応や法則が働いているとしか思えない現象は、飛鳥自身も魔術師の戦闘訓練などで何度か見ている。

 ただ、元になる自然現象を知っているか否か、仕組みを理解しているか否かで効果が大きく違ってくるのも直に見ていた。


 錬金術では加熱・冷却という温度変化、分離・合成・変形という状態変化、加圧・減圧という圧力変化、凝縮・拡散という分布変化があり、さらに物質の腐敗速度のコントロールや、別物質への変換、時間の加速といった、地球での物理法則外の法則も扱われている。

 物質の変換や時間加速は、まさに魔法――魔術による法則の支配する世界だ。

 このうち金属などの酸化・還元反応は合成に、脱水・乾燥・抽出といったものは分離に、発酵は腐敗の範囲に含まれている。


 元素記号や化学式などは説明のしようがないため、今は無き魔法王国の研究成果の一部として誤魔化すしかない。それにこの世界では物質の構成要素である原子や分子はもちろん、元素自体が理解されていない。

 共通するものがあるのは分かっているが、そもそも地球の元素周期表自体がこの世界で通用するかも分からないのだ。

 魔力が結び付いた特殊な金属なども実在しているらしいので、そこはもう深く考えるのを止めている。


 金属に関しては、持ち込まれた鉱石から抽出された鉱物で、これまで知られていなかったものが色々と見つかっているようだ。熱を加えて分離されたもののうち、アルミニウムと思われる軽い銀色の金属もあったらしい。

 軽くても量が少ないため武器には使えそうにないらしいが、石窯作りに必要な耐火煉瓦の材料にはなったはずである。

 試作や実験は錬金術師と職人に任せるにしても、少しずつ成果が上がっていることに内心ほっとしてもいる。


 髪留めや下着、靴底などに使える天然ゴムは未だに見つかっていないが、火山らしき場所の付近に硫黄と思われる黄色い毒の石があることは、会計長経由で出入りの商人から聞いた。場所がロヴァーニの町から馬車で一月半とかなり遠いため、次の冬が来るまでの間に手に入れられないか相談している。

 飛鳥自身より、新しい研究素材があることを知った錬金術師たちが乗り気なのが救いだろうか。


 アスカ姫がいかに聡明で外見が美しくとも、まだ成人前の少女だ。魔法王国の直系王族という高貴な血を引いていても、それだけは変わりがない。

 故に、生まれや能力、積み上げた実績を知らない者には外見だけで(あなど)られる。正当に積み上げた実績すら、何も知らない外部の者には「お付きの者が研究した成果を姫の手柄として発表した」と受け取られてしまう可能性の方が高い。

 素材や物資の調達を外部に頼る手前、成人済みの研究者が代わりに矢面(やおもて)に立ってくれるなら、これほどありがたいことはない。


 この傭兵団の中で保護されている間は団長が後ろ盾になってくれるし、出自を示す護身短剣も既に返却してもらっているので、それらを示せば理解してもらえる相手もいるはずだ。

 けれどそんな理解ある者ばかりではないということは、短いとはいえ男性として十数年生きた前世も含め、飛鳥も十分なほど理解している。






 その日は朝の仕入れから戻って、魔法の行使に関わる自然現象――燃焼に関する講義を昼食前まで行う予定が組まれていた。

 講義は食堂ではなく、書類と荷物に埋もれていた会議室を一つ片付け、そこで行われている。

 団本部の建物の移築整備が始まったら、魔術師や錬金術師の育成と拡充のために教室のようなものを作る計画もあるらしい。


 大人気となった唐揚げのおかげで毎日のように作られる大量の廃油から出来た蝋燭を使い、普通に起こる燃焼と不完全燃焼、酸素と二酸化炭素の存在、効率の良い燃焼など、義務教育で習うような実験と説明を終えて講義を終えたところで、飛鳥は団長室への呼び出しを受けた。


 先導する伝令役の若い団員の他、アニエラやハンネといった救出からの一月ほどを共に過ごした護衛たちも一緒に移動している。

 伝令役の団員が執務室のドアを二回ノックをして開くと、正面の机に座って仕事をしていたらしい団長が飛鳥たちを確認し、慌しく腰を上げた。


「ああ、アスカ姫。昼食前にお呼び立てして申し訳ない。入って下さい」


「失礼いたします」


 軽く会釈して部屋に入ると、壁際に置かれている応接用のテーブルの前に数名の女性が立っているのが見える。

 わざわざ視線を向けずとも、町の市場などで出会った平民たちとは違う立ち姿に、貴族領か王都から知人を呼んだのだろうと推測はついた。


「この一月ばかり、護衛のアニエラやハンネたちだけで不便をおかけしたかと思います。姫の身の回りの世話をするため、王都から信頼出来る者を頼んで呼びましたので、一刻も早くご紹介しようと思いました」


「身の回りの世話を……? それでは、アニエラやハンネたちとはもう一緒に居られないのですか?」


 飛鳥という男性として生きた記憶が鮮明に残っているとはいえ、この身はアスカ姫という少女のものである。

 危機から救われた後のこの一月を共に過ごした彼女たちと、代わりの者が来たからといって突然別れるのは淋しい。

 そんな心情が表情にも出ていたのか、団長は慌てて首を横に振った。


「いえ、そうではなくて……アニエラたちは魔術師ですから、側仕えの仕事は元々不向きです。身の回りの世話は専属の側仕えに任せ、アニエラたちは姫の護衛としての仕事に専念させて傍に置くのは変わりありません。ご安心ください。

 ユリアナ、アスカ姫に説明を頼めるか?」


「ランヴァルド様は相変わらず言葉が足りておりません。そこだけはあの頃と変わっておられませんわね」


 部屋の隅にいた女性たちのうち、団長とそれほど歳の変わらないだろう、身形(みなり)の良い二十歳過ぎくらいの女性が一歩進み出る。

 立ち居振る舞いに芯が通っていて美しい。

 彼女は飛鳥の前に進み出ると、その場で膝を突き頭を深く下げて、豊かな胸の前で掌を重ね包んでいた。アスカ姫の知識によればこちらの世界での跪礼(カーテシー)臣従礼(オマージュ)に当たるらしいが、実際に飛鳥が見たのはこれが二度目だ。


御前(ごぜん)失礼いたします、アスカ姫様。王都ヒューティア子爵家の次女でユリアナと申します。旧知の傭兵団団長ランヴァルド様から、姫様の身の回りのお世話を担当するよう言い付かりました。

 姫様の侍女として、本日より(わたくし)以下九名がお傍に侍ります。後日遠方に居ります四名が追加で合流いたしますが、何卒(なにとぞ)よろしくお願いいたします」


 挨拶を口にしたユリアナは、ゆっくりと顔を上げると団長の方へ視線を移す。


「ランヴァルド様は昔から一言足りないのです。たった一月とはいえ、一緒に過ごされた側近が居なくなってしまうかも知れないと姫様が危惧されることくらい、先に考慮されても良いでしょうに」


「……すまん、確かに言葉が足りていなかったな。ユリアナには(かな)わん」


「それはそうですわ。今回も以前王都に居られた頃の貴方を知っている者を中心に、姫様にお仕えする者を選んで参りましたので」


 ユリアナの言葉に苦い顔を見せた団長は、疲れたような溜息を一つ吐くと溜まった書類仕事に戻るべく、木軸のペンを握り直している。少し前に鍛冶師の親方に作ってもらった万年筆が、こちらでも普通に使われ始めていた。

 逃げを打った団長から視線を外したユリアナは、飛鳥に向き直って微笑みかけ、言葉を続ける。

 一方、団長の名前を初めて知った飛鳥は「見た目も良いし名前も恰好良くて、男としては負けた気分」と表情に出さず考えていた。


「先程団長も言われましたが、側仕えとしての役目を私たちが引き継ぐだけで、アニエラ様たちは本来の護衛としての任務に専念するようになるだけです。

 姫様の周囲に私たちが増えるだけですので、親しい者は誰一人居なくなったりはしませんよ」


 ある程度のアスカ姫としての事情を説明されているのか、旅の間一緒だった側近を一度に亡くし、新しく身の回りにいることになったアニエラやハンネたちが総入れ替えになるのかと危惧した、と受け取ったのだろう。

 ユリアナはゆっくりと立ち上がってアニエラたちにも会釈すると、応接用テーブルの前で控える他の者たちを振り返った。

 全員がシンプルなワンピースを身に着けており、同じように床に(ひざまず)いて胸の前で手のひらを重ね合わせている。

 顔を上げているのはこれから紹介を受けるためなのだろう。


「私が筆頭としてこの者たちを統括し、身の回りのお世話をさせていただきます。姫様から見て左からライラ、マイサ、ミルヤ、ティーナ、ルーリッカ、ネリア、ヘルガ、エルシィです。家名は時間のある時にでもお尋ねくださいませ。

 急ぎ名前だけお伝えしましたが、皆貴族家の次女以降の者ですので、姫様にお仕えするのに見苦しくない作法や振る舞いは身に付いております」


 名前を呼ばれるたび、彼女たちから敬意の込められた礼を受ける。

 以前(ゆかり)のやっていたゲームにもこんな光景があったような気がする。あちらは揃いのメイド服だったと思うが。

 最後の一人が顔を上げたのを見て、飛鳥も右手を軽く自分の膨らみの上に添え、柔らかな微笑を浮かべた。


「えぇと……アスカ・リージュール・イヴ・エルクラインです。これからよろしくお願いしますね。

 とはいえ、リージュールの国も、生まれた時に与えられたというエルクラインの地も既に失われてしまいましたので、現在はただのアスカですが」


「いいえ、決してそんなことは。リージュール王家直系のお血筋を引かれた方で、現在も残られているのはおそらくアスカ姫ただ一人になると思われます。旅の間は悲しいこともお辛いことも多かったとは存じますが、本当によくぞここまでご無事で」


 目に涙を浮かべたユリアナが飛鳥の左手を取って額に押し戴いている。

 飛鳥が困惑の視線をそっと団長に向けるものの、当人は旧知のユリアナから逃避するため、眼前の書類仕事に集中していた。


「姫様の御身(おんみ)は護衛の方々共々命に代えてもお守りし、ご不便をおかけすることが無いよう誠心誠意お仕えいたします。どうか、御心安らかに」


 かなり重い言葉に感じたが、面と向かって否定することも出来ない飛鳥は、わずかに躊躇(ためら)いながらも顔を伏せているユリアナの手に右手を重ねた。

 その行為が「貴女を自らの従者として信用する」という意味を持つことをアスカ姫の知識から思い出した時には、再び跪いて滂沱(ぼうだ)の涙を流し己を見上げるユリアナの視線を受け止める羽目になっていた。


 ともあれ、こうしてアニエラたちは護衛兼生徒として身の回りの世話から解放され、空席になった側仕えとしての役目をユリアナたちが務めることとなった。








「さて、これから大変だな……初めての女が姫さんの側仕えを務めるんだから」


「あれは王国男子の成人前後の風習だから仕方ないだろう? 確かに色々と知られているから複雑ではあるけれど、父上が推挙して寄越したのだから仕方あるまい」


 アスカ姫たちが退出し昼食を取っている頃、執務室に残された――ユリアナが通される直前、副長は別の部屋へ逃げていたが――二人は(ぬる)くなった茶を口にしながら、盛大な溜息を吐いて書類の積まれた机に突っ伏している。


 それでも、以前より書類の山は大幅に少なくなっている。この一月ほどの間に、アスカ姫が時間を見つけては書類の分類と整理を手伝ってくれたからだ。

 部隊の報告書や物資の調達先から上がって来る受発注の書類などいくつも別の書式があったのを統一するよう助言し、それぞれに必要な項目を書き出し、さらに調達班や文官たちを束ねる会計長に書式の統一を進言してくれていた。


 おかげで常時百通以上の報告書や会計報告などが積み上がっていた机は、現在かなり(かさ)が減っている。

 今積み上がっているのは、帰還した部隊ごとの報告書が三隊分、会計報告は部署ごとと団全体の週報・月速報が計四つ。それに外部商会との取引報告、護衛依頼の受付内容報告書、団が出資したダミー商会からの素材収集と調査の報告、直近の始末書や顛末書が十数通だ。


 当初の山と積まれた書類の様子をユリアナが見ていたら、二人揃って床に座らせられ、長い長いお小言が始まったに違いない。



 ユリアナの出身であるヒューティア子爵家は、王国の外務参事を代々務める中立派の名門である。次女である彼女は十代の後半に一度同格の貴族家へ嫁ぎ、直後に近隣国家との紛争で夫を亡くしている。いわゆる未亡人だ。

 この国では女性でも知識や技術があれば仕事をして自立できるため、死別以降は実家に籍を戻し、王都の貴族家で側仕えや教育係などをしていたらしい。


 結婚後夫婦の関係があったかは聞いてすらいないが、この王国の男性には、成人前後の風習として成人済みの異性から性の手ほどきを受ける習慣がある。

 成人しても女性は結婚まで純潔を保つのが推奨されており、基本的には嫁ぐまで清い身体でいることが求められるため、未婚の女性はこうした風習とは無関係だ。


 男性の場合、普通は結婚からしばらく経った二十代半ばくらいの女性か、若くして夫を亡くした女性がその相手を務める。

 だがランヴァルドが成人を迎えた年は相手を務めるのに相応しい女性が直前まで見つからず、当日になって急遽同い年で家同士が交流のある彼女に白羽の矢が立つことになった。


 当然彼女も初めてだったのだが、経験の無さから溢れる情動に任せてしまい、ユリアナだけに辛い思いをさせてしまったという後ろめたい気持ちが今でも残っている。 

 若い二人ゆえ逢瀬(おうせ)が一度だけで済むはずがなく、その後も人目を(はばか)りつつ結構な期間関係が続いていた気恥ずかしさもあるだろう。

 成人したての若者にはかなり高価とはいえ、行為をしても赤子を作らないようにする魔術具を部屋に置いていなければ、成人直後からユリアナを嫁にもらうことになっていたかも知れない。


 そんな後悔と恥ずかしい過去を知られている関係から、ランヴァルドは彼女に対して未だに強くものを言えない。何故彼女をここに送り込んできたのか、父の意向を確認したいところだ。



「ともあれ、無事姫さんの筆頭側仕えに収まった訳だ。親父さんの考えじゃ、ユリアナ嬢ちゃんを(めと)って一緒に姫さんを後見するか、姫さんを正室にしてユリアナ嬢ちゃんを側室に迎えろってことじゃねぇのか?」


「……ユリアナと同じく子爵家の家督を放り出してるスヴェンに言われたくはないけどね。君こそいつになったら嫁をもらうんだ?」


「うちは親父がまだまだ現役だし、弟の方が後継ぎとしちゃ口も上手いし優秀だ。とっくに成人して、下っ端とはいえ王国の役人をしているからな。

 この口調が板に付いた俺が、今さら王都に戻って頭の固い門閥(もんばつ)貴族の連中とお上品な言葉で殴り合うなんざ性に合わねぇよ。拳でぶん殴った方が早ぇしな。

 それに地位と金だけに擦り寄って来るような嫁も今のところは要らん」


 いつの間に執務室に持ち込んだのか、スヴェンの手には厚いガラス製のグラスが握られ、なみなみとヴィダ酒が注がれている。

 この間まで使っていた角犀馬(サルヴィヘスト)の角杯は自室の中だけで使っているようで、こちらにいる時はアスカ姫が作って団に寄贈したグラスを使っていた。

 酒の色が綺麗に見える部分は、確かにこちらの方が優れているだろう。

 窓から入ってくる陽の光がグラスに当たって、周囲に透き通った濃紅色を散らしている。


「他の嬢ちゃんたちも確か中立派と王統派の男爵家や士爵家の次女以降だったと思ったが、覚えているのか?」


「いや、さすがに全部は無理だ。男爵家令嬢の四人は、成人前の子供を集めた晩餐会で紹介されたことがあると思うが。それに会っていたとしても、私が最後に顔を出したのは七年以上前だからね」


 疲れた横顔を隠すことなく書類を脇に避けたランヴァルドは、作りつけの戸棚から同じようにグラスを取り出すと、スヴェンの方に軽く突き出した。

 俺の酒なのに、と小さく呟きながら、スヴェンも静かに半分ほど注いでいる。


「はぁ……王都の全てのごたごたから手を引いて、身軽になって辺境(ここ)へ来たはずだというのに……」


「引いた血は取り換えられないからな。姫さんといい、団長といい」


「スヴェン、それ以上は執務室であっても禁句だ。もし踏み込むなら、ここで君を斬らなくてはいけなくなる」


 一瞬視線を鋭くさせたランヴァルドに、スヴェンは軽く肩を(すく)めてみせ、静かにヴィタ酒のグラスを(あお)った。

 疲れた気持ちを、わずかに酸味を感じさせる果実の甘味が癒してくれる。冬前に仕込まれた酒にしては上等な部類だろう。


「分かってるさ。それを言い始めたらアニエラの家やハンネの家も、親父さんや兄弟がまともでさえあれば、俺のスカウトに乗って辺境のロヴァーニくんだりまで来なかっただろうしな。

 確かアニエラんとこは姉がさっさと嫁ぎ先を見つけて、アニエラは魔術学院を卒業してこっちへ、妹たちは男爵家や士爵家に嫁ぐんだったか。一番下の妹、まだ成人前だったよな? 父親は確か第二王子派で、後継ぎ予定の兄貴が第四王子派に割れてたはずだ。

 ハンネのとこも一番上の兄貴が第二王子派で、二番目の兄貴が第三王子派。姉は四年前に嫁いで家との関わりを無くし、下の妹は魔術学院に在学中。真ん中だったあいつは学院卒業と同時に辺境で傭兵団、と」


「ああ。ハンネの妹は来年の春に卒業らしいから、彼女ともう一人くらい、この夏にもスカウトへ向かわせるつもりだ。家督争いの中で実家に戻すのも可哀想だしな。

 しかし第一王子が既に立太子しているのに、まだ王都ではそんな権力争いをやっているのか」


「まだ次期宰相とか重要な役職が決まってないらしいからな。権力闘争が好きなら勝手にやっても構わんが、それで国の民に迷惑をかけるのはどうかと思うがね。

 今は国王陛下や第一王子が上手く舵を取っているし、第一王女も手綱を握ってるから王都周辺の心配は少ないが……この周辺の貴族領から逃げ出した民が、雪解け以降増えて来てるって報告は読んでるよな?」


「もちろん。だからこそ、アスカ姫の提案や技術供与は本気でありがたかった」


 愚痴を言い合ったり本格的に酒を飲むのではなく、水分補給と気分転換程度のつもりだったのか、ほどなくグラスを空けた彼らは机の上の報告書の山から一つの板束を取り上げる。

 辺境の町としては珍しく、日別・月別で移民目的で流入した人数と商用で出入りした人数が合わせて記録されたそれは、アスカ姫が邪教崇拝者の穴蔵で助けられ、町に連れて来られる少し前くらいから少しずつ増加していた。

 詳しく数字の変移を追っていなければ気付かなかったかもしれない。


「辺境だから森も近いし、それを切り開くのはかなりの重労働だ。北部は鉱山や岩山があるし、南には海が広がっている。人口が増えれば食糧もそれだけ必要になる。だが一ヶ所で急激に需要が増えれば、いずれ大きな(ゆが)みを生む。

 貴族領で食糧生産に従事していた人間が逃げて来ても、すぐにそれと同じ量をロヴァーニ周辺で生産出来る訳じゃない。土地を切り(ひら)いて無事作物を育てられるようになるまで、何年かかかることは覚悟しなきゃいけない。それに今まで他所で買い付けて持ってきていた分から、逃げて来た人間が生産していたはずの分が純粋に減るんだ。

 減った分は新しく他から調達してくるか、この土地で作り出すしかない。

 新しく食べられる物や売れる物を探して準備しておくこと、見つけた食べ物が栽培できるならば、その方法や生態、毒の有無や利用法を調べておくこと。肉などを狩猟で獲るにしても無限ではないから、飼って増やすことを考えておくこと――あの小さくか弱い身体のどこにそんな知恵が詰まっていたのか、不思議だね」


「まだおっぱいは詰まってなくて、成長途上らしいけどな。成人前だが既にハンネより大きいから、将来性はあるぜ?」


「スヴェン……」


「姫さんの歳じゃ、まだマリッカの大きさには届かないからな。今後には期待出来ると思うが、今は様子見ってとこか」


 不敬極まりない発言に続いて、町の歓楽街にある娼館で一番の売れっ子の名が出たことに、ランヴァルドはじっとりとした目を向け眉を(しか)める。

 団員に娼館への出入りを禁じている訳ではないが、多感な年頃であるアスカ姫の教育上よろしくない場所への出入りについては十分気をつけるよう、幹部には釘を刺していたからだ。

 今でこそ出入りはしていないが、彼自身、討伐直後で血が昂っていた時には娼館の世話になったこともある。


 マリッカというのはここ一年くらいで界隈のトップに躍り出た娘で、今年の夏に二十歳を迎えるはずの美女だ。

 人当たりもよく話好きだが、商売として付き合う時は媚びることなく相手を見て選ぶ。夜の商売をしている女としての職業上のプライドなのだろう。

 ランヴァルドは彼女に気に入られたのか、過去に二度、大規模な討伐の直後に一夜を共にしてもらっている。


 スヴェンは苦々しい視線を気にした様子もなく、弁解とも取れる話を続けた。


「ああ、娼館って言っても新しい鏡の話があったから顔を出しただけだぜ? 今、女たちの間じゃ一番熱い話題らしい。何たってこれまでの金属を磨いた鏡よりもくっきりと映って、しかも同じ金額で倍以上大きな手鏡が買えるんだからな。

 裕福な商人の客は小さい手鏡を何枚か町の商会で購入して、夜毎(よごと)気に入った娼婦に貢いで人気者になってるらしい」


「鏡が売れているのは報告を受けているよ。商人たちが購入した後、どこに渡っているかまでは知らなかったけどね。今はアスカ姫が最初に作った分は全部売れて、団所属の魔術師が交代で作っている物に替わっているが。

 で、スヴェンは誰に買ってあげたんだ?」


「俺か? 俺は一昨日スサンナに――」


 言いかけた言葉を両手で押さえ込んだスヴェンだが、少々遅かったらしい。

 呆れたように半目で(にら)む団長の視線を受けた彼は、一気に飲み干したグラスを机の上に置くと、逃げるように執務室から飛び出して行った。


週末更新分とは別に、待ち時間があったので投下してみました。

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